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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

三 松山市の工場誘致

 工場誘致による産業振興

 この時期における愛媛県下の工場誘致の代表的事例として、松山市における工場誘致の事例を取り上げよう。松山市は第二次世界大戦後、工場地帯として面積が愛媛県下で最も広く、旧海軍基地約二四万坪の他に約二〇万坪の候補地が存在していた。特に、松山市の西部にある南北吉田両地区には、戦時中海軍が使用したところが膨大な遊休地帯となって残っていた。松山海軍航空隊跡は、総坪数約三三万坪あり、その中で臨海部の約一九万坪が工場適地と予定されていた。また、松山海軍基地跡は、総坪数五四万坪あり、その中で臨海部約四万六、〇〇〇坪が工場適地と考えられた。(図用1―3参照)
 このような大量な工場適地の存在のもとに、松山市は、戦後、工場誘致による産業振興という方針を打ち出した。このことは、当時の松山市長の施政方針演説からも知ることができる。昭和二五年度施政・予算編成方針演説で第一四代松山市長安井雅一は、「産業経済費につきましては総体的に生産力の増強なくしては市の発展は望み得ないのでありまして、道路、港湾と併行して工場誘致による新しい生産力の培養に努めなければなりません」と述べている。さらに第一五代市長黒田政一は、昭和二六年(一九五一)の施政方針演説の中で「産業振興の先決問題として工場の誘致に力を注ぎたいと思うのであります。この問題は既に私の前回市長時代に周辺十か町村の合併を行い、広大な工場適地を市内に抱擁し特にこのことに努力を払って参ったのでありまして、目下建設途上の工場も一、二ありますが、今後更に誘致を致すに致しましても如何なる工場が適当であるかと言う所謂立地条件を科学的に調査を急速に行いまして、それに向かって強力に対策を講じたいと思うのであります。」と述べている。
 計画的な工場誘致による産業振興という方針のもとに、松山市は、臨海性の化学工業の誘致に乗り出した。こうして、昭和二六年八月、戦後の工場誘致第一号として、松前町の東洋レーヨン愛媛工場に供給する二硫化炭素の製造工場の役割を果たす昭和工業の松山工場が、大可賀において操業を開始した。続いて、昭和二七年九月、工場誘致第二号として、苛性ソーダを主力とする化学薬品メーカーである大阪曹達の松山工場が、吉田浜において操業を開始した。さらに、昭和三〇年一〇月、工場誘致第三号として、アセテート系テトロンの製造工場である帝国人絹の松山工場が操業を開始した。三つの誘致工場のうちで、帝国人絹の松山工場が工場敷地面積約二五万坪、従業員数九〇〇人と最大の規模でもあるので、帝国人絹松山工場誘致の経過について詳しくみてみよう。

 帝国人絹松山工場の誘致

 帝国人絹は、朝鮮戦争後の不況に対する打開策として、アセテートの企業化に乗り出す方針を固め、昭和二八年(一九五三)二月、アセテートの製造技術に関しては、バイエル社及びマウラー社の技術導入を行うことにした。こうして帝国人絹は、昭和二八年六月ごろから、アセテート製造工場の敷地選定を始めた。
 『帝人の歩み』によると、敷地を選定するに際しての主な条件は、次のとおりであった。一、現存の岩国・三原両工場および最初に原料であるフレークの供給を受ける大日本セルロイド網干工場と連結が便利なこと。(フレークは、後にアメリカのハーキュリー社の製品を輸入するようになった。)二、将来フレークを自給する場合の工場敷地を考慮すること。三、アセテート製造(フレークを含む)に必要な工業用水と冷却用水が豊富なこと。四、石炭運送、電力事情および労働事情が良好なこと。
 これらの条件を考慮して、十数か所を検討の対象とした結果、防府・松山・箕島・水島・伊保の五地区が一応条件にかなう候補地に選定された。さらに詳細な調査の結果、防府・松山の両地区が最適地として選定された。両者を比較すると、工業用水・地下水では、質量ともに防府地区が勝り、電力事情と地方税の軽重・誘致の熱意では松山地区が勝っていた。輸送の便については、三陽本線上の防府の方がはるかに有利であるが、港湾関係は差し当たり松山地区の方が有利であった。以上の比較により、長期的な観点からは、防府地区が勝ると考えられ、防府市を第一候補として敷地交渉を進めることとなった。ところが、敷地予定地である国有地の払い下げ手続きに困難な政治問題が生じ、早急な解決の見込みが立たないことが分かった。
 これに対して松山市は、松山港湾計画や工業都市計画をたて、松山港を建設して二万トン級の船舶の入港を可能にし、松山港から南方の吉田地区に四〇万坪から五〇万坪の工場地帯をつくることを計画していた。従って、工場誘致にも極めて熱心であった。工場敷地二五万三、〇〇
〇坪のうち、一四万坪は松山市の市有地であり、残りの民有農地一一万三、〇〇〇坪は松山市が買収して帝国人絹に売り渡す方針をとっていた。一〇万坪以上にのぼる民有農地の買収は、松山市にとっても容易でなく買収に際して多くの困難があったことは、昭和二九年一月の松山市議会速記録における「工場誘致(帝人)経過報告」からもうかがい知ることができる。こうして、昭和二八年末に松山地区が工場敷地として決定され、翌年一月に正式に契約調印が行われた。
 帝国人絹誘致については、契約調印が行われた昭和二九年一月よりも数年前に、松山市が帝国人絹に働きかけをしていた。具体的な話となったのは、昭和二八年九月以降である。この点について『帝人の歩み』は、次のように述べている。

「アセテート工場設置について問題になったのは、二八年九月ごろであった。その時の常務田宮豊治の友人、伊豫銀行の渡辺常務から、パンフレット〝まつやま〟が西村に届けられたのが発端である。一五万坪の市有地が無償提供されるとのことであったが、パンフレットを見ただけでは、余り興味は起こらなかった。しかし一応調査の必要を認め、田宮と現地を視察した。行って見ると意外にも良い土地で、さらに松山市当局の熱意にも動かされた。」

 松山市が帝国人絹の松山工場誘致に成功したのは、帝人の求める工場立地の基礎的条件の他に、工場誘致に対する熱意と誘致工場に対する各種の優遇措置によるところが大きかった。既に述べた一五万坪の市有地を無償提供するというパンフレット(実際の帝人松山工場への提供は、一四万坪)、民有地一一万三、〇〇〇坪の松山市による買収の他に、固定資産税の面で誘致工場に優遇措置を取った。その内容は、一〇億円未満の工場には三年以上五年以内、一〇億円以上の工場には七年以内の固定資産税の免除を行うというものであった。これは他の都市の優遇措置と比べても著しく誘致工場に有利な条件であった。

図用1-3 松山市臨海工業地帯及び港湾計画図

図用1-3 松山市臨海工業地帯及び港湾計画図


表用1-7 松山市の主要誘致工場(昭和33年度)

表用1-7 松山市の主要誘致工場(昭和33年度)