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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 電気事業の飛躍的発展と大一次大戦後の整理統合

 電気事業法の制定

 電気事業が創設された初期の段階では、電灯は一種のぜいたく品であり、特に明治二四年(一八九一)一月の国会議事堂焼失で漏電説が出ると、電気は危険物視されるような状態であった。発電は大部分が小規模な火力発電による市内配電であり、明治二〇年代の後半に増加してきた水力発電も、需要家の近辺で近距離配電を目的とするものであった。このような情勢を反映して、初期の電気事業の創設は地方別免許主義であり、その監督も県庁・警察庁が主として保安取締りの観点から行うにすぎなかった。
 明治二九年五月、はじめて全国統一の法規範として電気事業取締規則が制定されたが、これとても電気の危険予防を目的とする保安行政の立場から立案されたものであって、灯用・動力用として電気の利用が拡大し、公共事業の性質が明白になってきた明治三〇年代後半には、社会の実情に合わなくなってきていた。また、東京電灯駒橋発電所(明治四一年二月完成)のように出力一万五、〇〇〇キロワット、送電電圧五万五、〇〇〇ボルト、送電距離八〇㌔㍍という大容量発電と高圧・遠距離送電の出現によって、政府は電気事業の監督を一段と強化するとともに、これを公共事業として保護育成することになった。このようにして明治四四年三月電気事業法が制定された。
 この法律は、監督の強化も若干進んだが、電気事業者に他人の土地に立入る権利、公共用土地を使用する権利、他人の土地もしくは地中に電線路を施設する権利等数多くの権利を与える一方、一般人の妨害に制裁を加えることによって、電線路の建設保守に対する保護を厚くするなど、電気事業の発展を助ける側面が多く、電気行政は、保安取締り政策から完全に保護助長政策に移っていった。

 電気事業の発展・競争及び合同

 日露戦争後の産業の重化学工業化、発送電技術の進歩ならびに政府の保護助長政策のもと、電気事業は明治末期から大正の半ばころまで飛躍的な発展を遂げた。電力の需要キロワット数をみても、明治四四年(一九一一)にわずか八万五、三〇五キロワットであったものが、大正八年(一九一九)には八三万三、四七四キロワットと約一〇倍の伸びを見せ、この間大正六年には、電灯需要(一七万三、〇〇一キロワット)が電力需要(二三万四、九四九キロワット)に追い越されている。
 しかし、このような著しい需要の伸びに対して、一部の地域では供給が必ずしも追いつかず、電圧低下による光度の減退や独占による料金高の幣害などがあらわれ、それを打開するため、同一供給地域に対する二つ以上の競争会社の許可や市営電気事業の開業が行われ、激しい競争が展開されることになった。
 例えば、激戦地域の東京では、東京電灯・日本電灯・東京市営電気が競争し、極端な場合には一軒の家に三本の引込線が施設され、賞金付で新規需要家の獲得をはかり、互いの従業員の間で暴力沙汰まで起きるありさまであった。
 このような顧客獲得合戦は、競争区域内におけるサービスの改善と料金の低下、並びにそれに基づく電気の普及促進という効果をもたらしたが、反面、競争区域外でのサービスの悪化を招き、過当競争による設備重複の不経済と経営内容の悪化をもたらした。この重複許可による過剰設備のつけは、大正九年(一九二〇)の戦後恐慌をきっかけに表面に墳出し、電気事業は以後激しい整理統合の波にもまれることになった。
 例えば、東京電灯は大正九年に日本電灯を合併した後、同一〇年に利根軌道の買収、利根発電・横浜電気等の合併。同一一年に桂川電力と日本水電を合併し、鳥川電気を買収。同一二年には水上発電・猪苗代水電等を合併している。このような整理統合の過程で、東京電灯・東邦電力・大同電力・宇治川電気・日本電力のいわゆる五大電力会社が形成されてきたのである。

 愛媛県における電気事業の統合

 大正年間の愛媛の電気事業は、全国における整理総合へのうねりの中で、個別的な要因を含みながら同じく統合化へ向かっていった。まず、伊予水電は新社長井上要のもとで着々と経営の建て直しが図られ、他方、時代の進展とともに電灯・電力の需要も急速に伸びてきたが、当時の経営状態ではまだ有利な拡張資金を確保することができなかった。そこで伊予水電は同社と電力の受電関係にあり、かつ信用状態も良好な伊予鉄道と合併する道を選び、大正六年(一九一七)一月一日を期して、新会社伊予鉄道電気株式会社が発足した。また、伊予鉄道電気とライバル関係にあった松山電気軌道との合併は、二転三転した後、松山市付近の狭い供給地域で、両社が並立することの不利益をようやく関係者は納得して、大正一〇年四月に合併が実現した。
 次に、愛媛水電は創設以来優れた業績をあげていたが、地域内の電源が極めて貧弱で、大正七・八年ごろには需要の伸びに供給が追いつかず、電力の供給を受ける権利が一馬力当たり千四~五百円で売買されるような情況であった。他方、伊予鉄電は第二黒川発電所の完成によって、豊富な発電力を持つに至っていたので、政府の統合促進の方針もあって大正一一年一月に合併が実現した。
 また、宇和水電も着実な発展を遂げ、供給地域も徐々に拡大して西宇和郡の三崎半島をはじめ、宇和四郡全域を含むに至った。しかし、ここでも電源不足で電灯・電力は相当な権利金つきで売買され、電気料金も伊予鉄電に比べて割高であったことなどから、大正一四年一二月一日を期に、既存の両社は解散し、新しく伊予鉄道電気株式会社を設立し、料金等の供給条件の改善が行われた。
 この後、伊予鉄電は昭和二年に周桑電気を買収。昭和三年に燧洋電気・小田水力電気を合併し、愛媛県下の電気事業は、新居浜における住友系の土佐吉野川水力電気(大正八年設立。しかし、実際の営業活動は昭和二年別子鉱業所の電気事業が移譲された時から始まる)を除いて、伊予鉄電のもとに統合された。

図公3-10 電気事業者数の推移

図公3-10 電気事業者数の推移


図公3-11 愛媛における電気事業の統合

図公3-11 愛媛における電気事業の統合


図公3-12 伊予鉄電の電気需要の推移

図公3-12 伊予鉄電の電気需要の推移