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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

四 戦災から復興へ

 戦災による壊滅的打撃

 都市ガスは、その名のとおり、都市に工場・供給管・社屋等が集中している。従って、大戦により日本の都市が焼土となった終戦直後は、全国各地のガス事業はほとんど壊滅的な状態であった。四国のガス会社も終戦当時、戦災をまぬがれた坂出・丸亀以外は、一戸の家庭にもガスの供給をしていなかった。合併後、四国瓦斯は本社を今治に置き、これまで各地に存在した諸会社を支店として陣容を整え、復興に努力をした。しかし、資材並びに資金の不足に加えて、終戦後の荒廃した世相の中で、供給鉄管が夜ごとに盗まれるというような悪条件のもと、ガス供給の再開は遅々として進まなかった。世間の一部ではガスはもう再起不能だなどとささやかれたり、会社を見限ってやめていく者が出たりする状態であった。合併後の数か月はいわば戦災の跡片づけの時期で、昭和二一年 (一九四六)三月末に需要家数はやっと一、四四八戸になったが、これとても戦災前の各社の合計一万六、〇四七戸の一割にも満たない有様であった。
 合併した昭和二〇年一一月一日から翌二一年三月末までの五か月間のガス及び副産物の生産状況は、表公3-3のとおりである。
 この数字を見ると、終戦直後の四国のガス事業の状態が手に取るように分かる。今治がガス生産量の約五〇%を占め、松山と徳島はまだ実績は零である。松山の供給再開は二一年三月三〇日。徳島はさらに遅れて同年五月二八日わずか二〇戸を対象に供給が開始されている。これに対して戦災を受けなかった坂出・丸亀は、高知・高松に匹敵する生産実績をあげている。

 石炭不足とガスの時間供給

 ガス事業の復興は家庭用燃料の確保の上から、また商工業用のエネルギーを供給する上からも緊急の課題であったが、終戦直後の原料炭の払底のため思うにまかせず、時間供給を余儀なくされた。昭和二〇年一〇月一か月の石炭生産量は、だいたい全国の鉄道用一か月分の需要をまかなうにすぎず、戦時中一日一万三、〇〇〇㌧を出炭した三池炭坑が一日一、〇〇〇㌧足らずの出炭に落ち込んでいたと言われる。二一年の原料炭使用量は二四万㌧、これは前年消費量の約半分にすぎなかったから、いかに石炭産業が疲弊していたかが分かる。
 このような情勢のもと、昭和二一年の年末に、遂に臨時物資需給調整法に基づくガス使用制限規則が公布、施行されたが、その内容は一般家庭用のガスはメーター一個につき一か月一二立方㍍と戦時中にもないような厳しいものであった。ちなみに、昭和六〇年度における四国瓦斯の家庭用一戸当たりの月平均ガス使用量は、標準熱量が当時の三、一五〇㌍から四、五〇〇㌍へと上昇しているにもかかわらず、約五〇立方㍍であり、当時の状況は「飯を炊くどころか、湯も沸かない」と悪口をたたかれたものである。さらに、昭和二二年には工業用ガスにも供給制限が要請。このような制限は、政府による石炭増産の奨励、ドッジ政策による需要の減少などによって石炭事情が緩和する二四年まで続き、同年一二月一日約三年ぶりにやっとガス使用制限が解除され、二四時間供給体制をとることになった。

 戦後のインフレとガス料金の値上げ

 終戦後、極度の物資不足のため、物価はうなぎのぼりに上昇した。これに伴ってガス料金も遅ればせながら、数次の改訂が行われている。公益事業令が施行された昭和二五年(一九五〇)一二月一五日までのガス料金の推移は、表公3-4のとおりである。ガス料金値上げの最も大きな理由は、原料炭の異常な高騰にあり、石炭価格は昭和二〇年に比べると二五年には一四四倍になっていた。
 これに対してガス料金は同時期に七八倍上昇している。第一次世界大戦の時も原料炭が高騰し、ガス料金の値上げがなかなかそれに追いつかず、経営の破綻をきたした企業が続出した。しかし、第二次大戦後は主務官庁である物価庁が毎年のごとく大幅な値上げを指定したことと、ガスの需要家数と生産量が年々増加したことの相乗効果で、ガス事業の復興が促進され、経営はようやく安定的な基盤をもち始めた。
 四国瓦斯も昭和二五年度上期には、需要家数が一万戸を超え、ガス生産量二七〇万九、〇〇〇立方㍍と会社発足時の七・八倍にたり、株主に対する配当も一二%を出すに至っている。

表公3-3 合併直後の四国瓦斯の営業状況

表公3-3 合併直後の四国瓦斯の営業状況


表公3-4 戦後のガス料金の推移

表公3-4 戦後のガス料金の推移