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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

三 松山市下水道の創設

 松山市創設下水道の認可

 愛媛県内において、新水道法(昭和三三年四月制定公布)に基づく終末処理場を有する公共下水道が最初に敷設されたのは松山市である。松山市は昭和三三年(一九五八)四月、松山城周辺七三〇㌶を対象とする下水道事業の認可を得て着工し、同三七年七月、市内の一部地区に対して下水処理を開始した。
 さて、松山市創設下水道の歴史は、明治末期までさかのぼることができる。すなわち同市では明治末期、市街地の下水排除を目的とする下水道建設の要望が高まり、明治四四年(一九一一)建設計画の立案に着手し、大正三年(一九一四)には国の認可を受けるため実施測量を行い、翌四年三月一三日、市議会において工事執行を決議、次いで国の認可を得た。この間の経緯について、「松山市政事務報告書」(『松山市史料集一一号』)には、次のように記録されている。
 明治四四年〈下水道新設設計〉本市下水道新設計画についてはその測量設計を広島市技師伊藤半太郎に嘱託し実査調整を了せり
 明治四五年〈下水道新設計画〉本市下水道新設に関しては設計図面類添付し国庫及県費補助申請に対し、本年度においては財政上の都合により詮議相成り難き旨沙汰ありしより、更に明年度において補助の儀かさねて申請中に属せり
 大正三年〈下水道新設計画〉本市下水道築造に関し先年提出にかかる国庫及県費補助申請に対し、大正四年度より補助許可せらるべきに至れり。よって技師以下要員を採用し、一〇月以来実施測量執行中にあり。
 このような経過を経て、大正四年三月一七日、旧下水道法による国の事業認可を、続いて同年一二月実施認可を得たので、翌大正五年四月、第一期工事(湊町を中心に旧市内二三八㌶)に着手した。なおこの間の事情について、『松山市史料集』には次のように記録されている。
 大正四年〈下水道工事状況〉大正三年一〇月市内全般にわたり、実施測量をなし同年一二月より実施設計に着手し本年一一月をもって終了せり。本年三月主務省の築造認可及国庫補助をうけ、ついで実施設計ならびに起債の件いずれも認可を得たるにより、目下工事用材料及器械器具を購入し起工につき万般準備中なり。

 計画変更並びに第一期工事の完成

 このようにして、松山市創設下水道は大正五年(一九一六)四月着工されたが、完成までには設計変更、予算額の修正、実施年度の延長など幾多の計画変更が行われた。
 工事計画は当初、地形の関係上、勝山の東及び南方の一部から流れる雨水は、直接中の川に導くことは困難でありかつ、多大の工費を要すると思われたので、これを旧城濛に流入させ一時滞溜させた後、中の川に流すことにしていた。しかしこれは計画変更され、城濛は全く使用せず、全雨水を市外西方に導き専用水路を設けて、中の川・大法寺川の合流点に導き放流することとなった。そのため大正五年八月変更設計に着手し、同年一一月出来上がったので、国に変更認可申請を行い、翌一二月認可された。
 工事費用は当初計画では、大正四年度から六年度までの三か年継続事業(『愛媛県史資料編社会経済下』公益参照)、四五万九、七八九円八厘であったが、設計変更・物価高騰・用地買収難などのため施工期間を延長し、事業費一〇五万一、五二八円を要して、大正九年(一九二〇)九月松山市創設下水道の第一期工事が完成した。これによって、湊町を中心とする旧松山市内中枢部二三八㌶の地域が排水対象地域となる合流式下水道が、県下で初めて完成した。

図公2-4 下水処理場のしくみ

図公2-4 下水処理場のしくみ