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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 電話の創業期

 わが国の電話創業

 電話機は明治九年(一八七六)、アメリカのグラハム・ベルによって発明されたが、わが国に初めて渡来したのは翌一〇年一一月のことであり、二個の電話機が横浜のバビア商会によって輸入され、工務省に納入された。政府は早速築地の電信分局と工部大学校(東京大学工学部の前身)の間で通話実験を行った。次いで工務省と宮内省の間に電話線を架設し、同年一二月二二日、日本最初の電話による通話が行われた。その後主要官庁において通話の実験を試み、翌一一年五月には内務省―警視本署間に、同年九月には関西で最初の電話線が、大阪府庁―江戸堀警察本署間に架設され、電話は官用通信、特に警察通信の分野でまず実用化されていった。また鉄道や政府高官宅などの実用にも供され、その便利さが認識されるに至った。
 やがて明治一六年(一八八三)になると、工務省は公衆通話手段としての電話利用を具体的に計画し始めた。そして同年九月「電話線新設の義に付伺」を太政官に提出し、電話開設の必要を建議した。その後この建議は、大蔵省・内務省・工務省等政府部内で検討し議論が交された。しかし技術並びに資金確保の面から事業の官営論を主張する工務省と、主として財政的理由から民営論を唱える大蔵・内務両省間の意見調整ができず、結論を得ないまま時が経過した。その後明治一八年末の内閣制度創設に伴って、同年一二月二二日逓信省が発足し、通信関係業務を一括して所管するに至って、新しい情勢が生まれた。逓信省内部の意見は発足当初、官営論と民営論が入り乱れて、なかなか結論が得られなかったが、やがて省内の意見が官営方針にまとまったので、明治二二年春ご
ろには、内閣もようやく太政官以来の民営論を捨てて官営論に転換した。この時、逓信大臣は後藤象二郎、次官は前島密であり、前島は逓信省内の意見をくんで電話創業の計画を促進し、外務大臣であった大隈重信を動かして、電話官営の閣議決定を得たという。
 このようにして工務省以来の電話官営方針は、明治二二年になってようやく決定するに至ったがその背景は、電信と同様に電話も政府専掌とすることが政治的・治安的見地から望ましいと判断され、さらに経営的にも電信・電話兼営が必要と考えたからである。また財政面からみても明治一〇年後半の極端な窮迫状態(注 明治一五年から数年間続いた松方デフレによる)がようやく改善され、明治二二年ごろには企業興隆に伴う好景気などにより好転していたこともあって、電話官営の基本方針が内閣で決定をみるに至ったものである。なおこの電信・電話兼営による官営体制は第二次世界大戦後まで長く続けられたが、昭和二七年八月、日本電信電話公社が、次いで昭和六〇年四月には、民営化され、NTT(日本電信電話株式会社)設立に至ったことは衆知のとおりである。
 さて逓信省は、既に明治二〇年(一八八七)一二月に東京・熱海間の長距離電話実験を試み、これに成功したので翌年からとりあえず公用の通信に使用し、さらに明治二二年一月一日から一般公衆通話の取り扱いを開始した。これがわが国における公衆通話の始まりである。そして翌二三年一二月一六日、東京・横浜間で電話交換を始め、ここにわが国の電話創業となった。創業に当たって逓信省は、電話加入者を東京三〇〇人、横浜一〇〇人と予定し、鳴物入りで市民に加入を勧誘したが、交換開始時に実際に加入開通したのは東京一五五人、横浜四二人に過ぎなかった。それは電話使用料が極めて高かったこともあるが、当時はこの文明の利器に対する世人の認識がまだ低かったのである。加入者は少なかったが、ともかく東京市内・横浜市内及び東京―横浜間に電話交換が開始された。創業当時の利用状況は、電話所一か所一日当たり平均七回程度であったと言われる。

 わが国電話事業の成長

 明治二三年一二月の電話開業後しばらくは、東京・横浜両市のみが電話開設地であったが、同二六年一二月には大阪・神戸両市に、三〇年五月には京都市で電話が開始され、次いで三二年には東京―大阪間の長距離市外電話線も完成した。さて電話利用数は開業当初は極めて少なかった。しかし明治二〇年代後半に入ると、経済界が活況を取り戻し、紡績業・製糸業など軽工業を中心にわが国の資本主義的発展が進むにつれて、情報流通量は年ごとに拡大し、即時性に偉力を発揮する電話の効用に対する認識が高まり、利用数は急速に増加した。通話数は市内度数が明治二四年の一六一万から二七年には一、三三一万と約八倍に増加し、市外通話時数もその間に四万四、〇〇〇から一八万へと約四倍に増えた。
 一方、加入申込みも次第に増加し、未架設積滞数も急速に増えた。そのため電話施設の整備拡充の必要に迫られ、時あたかも日清戦争後の財政の余裕もあったので、政府は明治二九年度を初年度とする七か年計画の第一次電話拡張計画に着手した。これによってわが国の電話事業は急速に成長に向かい、明治三三年(一九〇〇)には電話局所は全国で一〇〇局を超え、加入者数は一万八、六〇〇に達し、通話数も市内が六、五八四万度、市外が七三万時となった。このように第一次電話拡張計画の実施によって、わが国の電話事業はその基礎をつくったということができる。
 しかし公衆電話の敷設には多額の経費を必要とするため、民間の強い要望にもかかわらず財政面の制約により電話の開設は当時、大都市やこれに次ぐ中都市に限られた。すなわち明治三四年度末の開設都市は、東京・横浜・大阪をはじめ京都・名古屋・堺・福岡・札幌・仙台・広島・熊本・金沢等主要二〇都市に過ぎなかった。従って地方の中都市・小都市への普及はかなり遅れた。そのため政府は、明治三五年七月、地方小都市の電話敷設(加入者数二〇〇人以下)推進策として、架設希望者に必要な物件を寄付させて電話交換を開始するための「特設電話加入規則」(特設電話制度の始まり)を制定し、その普及に努めた。さらに普通電話施行地への普及促進を図るため、普通電話に対しても加入者負担制度を導入することとし、明治四〇年六月に地方中都市の普通電話を対象とする「寄付開通制度」を設けたので、これを契期に、県庁所在地を中心として四国の電話架設への機運が次第に高まった。

 県内電話の始まり

 愛媛の公衆電話創業は中央から大幅に遅れて、明治四一年三月二六日松山においてであった。それまでは二点間の直接通話だけを行う専用電話の形をとったものであり、愛媛の電話はこの専用電話から始まった。
 電話が初めて愛媛県に姿を現し実用に供されたのは、比較的早い時期の明治二一年六月で、東京・横浜間の電話交換(二三年一二月)に先だつこと二年、四国では最初であった。最初の電話は逓信省直営の官庁用専用電話で、架設費・維持費とも自己負担であった。すなわち明治二一年(一八八八)六月一二日、愛媛県庁―松山警察署―松山監獄間に架設されたのが四国最初の専用電話である。電話線は単線式で二点間の直接通話だけの極めて幼稚なものであった。四国で最初に松山において電話が実用化されたのは、当時の愛媛県は現在の香川県を含んでおり、松山が北四国の行政の中心地であったからである。
 続いて同年一〇月二八日四国最初の鉄道である伊予鉄道が松山停車場(現松山市駅)―三津停車場間に開業したが、同日松山・三津ロ(後に古町と改称)・三津各停車場を結ぶ鉄道専用電話を開設した。電話工事費は三四二円であったという。後年(明治二八年)松山中学の英語教師として赴任して来た夏目漱石はこの汽車を見て、「まるでマッチ箱のようだ」と評したと言われるが、この「ぼっちゃん列車」に乗った漱石を事なく三津から松山まで運んだのは、電話の力もあったということになる。その後、伊予鉄道は明治二五年五月三津から高浜まで延長され、さらに翌二六年五月に平井河原線(後の横河原線)、二九年には森松線(現在は廃止)が開通した。専用電話もそれに伴って、高浜・立花・久米・平井河原(現平井)・石井・森松各停車場に設置された。また二八年八月には伊予鉄道に続いて、道後鉄道(三三年伊予鉄道に併合)が一番町―道後―古町線の営業を始めたので、この停車場にも専用電話を設置した。その電話工事費は三三四円であったという。
 さらに特異なものとして、明治二二年一〇月松山郵便局と松山城鐘楼の間に架設された時報用の専用電話がある。当時、松山城で打ち鳴らされた正午の鐘(後に日露戦争の戦利品の大砲に代わる)は、松山郵便局から送られる時報を合図にしたので、そのための専用電話であり、電話線の長さは約一・三㌔㍍であった。そのほか愛媛県庁―松山裁判所間約二八〇㍍にも二条の電話線が架設された。
 当時使用された電話機はガワーベル形磁石式電話機(写真公1-19)であった。これは、ベルの発明したベル電話機の受話機にイギリス人ガワーが発明したガワー送話機を組み合わせたもので、ベル電話機に比べて感度が良好であり、明治二〇年代多く使われたものである。

 別子鉱山と私設電話

 このように電話の始まりは、警察・官公署や鉄道などの専用電話であったが、続いて民間有力企業にも普及し始め、企業内の事務所・工場・取引先相互間へと利用分野が拡大した。この場合も架設費・維持費は自己負担で、私設電話と言われた。
 県内私設電話の歴史にひときわ優れた色どりを添えたのは、別子鉱山の電話である。別子鉱山に初めて電話が架設されたのは、明治二二年五月である。『別子開坑二五〇年史話』(昭和一六年刊)によると
 「明治二二年五月、伊予西条と立川分店との間に官線(注 既設の電信線)に添架して直通の電話線を架設した。翌二三年には、新居浜・別子間に直通電話を通じ、さらに二四年六月に至り西条―新居浜間に一線を架して立川の中継を廃し、別子、角石原、石ヶ山丈、端出場、立川、山根、新居浜、西条の八か所の通話を自由ならしめた」
 (図公1-9参照)とある。西条郵便電信局と立川分店間の電話線は延長七里三三町三四間(約三一・一㌔㍍)に及ぶ長大なものであった。別子鉱山の電話利用目的は、大阪の住友本店との間に電報を送受することであった。大阪本店あてのものは、立川分店から西条郵便電信局に電話で送り、大阪本店から来たものは、立川分店で電話で受けて、これを別子や新居浜へ配達するという方法で、電話機は電信機の代役を務めたことになる。
 その後明治三二年一二月には、新居浜分店と別子事務所にそれぞれ交換機を置き、これを単線の中継線で結んで電話交換を開始した。しかし電話利用が予想外に多かったため、翌三三年には中継線を増設することとし、これを複線に改めた(図公1-9参照)。また交換機は磁石式複式交換機を採用した。一方電話機はガワーベル電話機(写真公1-19)及びソリッドバッグ磁石式壁掛電話機(写真公1-20)を、また交換電話にはデルビル電話機(写真公1-21参照)を採用するなど、当時の各種電話機を使った。

 松山市に電話開設

 愛媛県並びに四国の電話開設(電話交換による一般公衆用)は、中央に比べて大幅に遅れた。しかし日露戦争の終結(明治三八年九月)を契期として、政治・産業・文化の交流が一段と激しくなり、四国においても電話架設の要望が、県庁所在地を中心として盛んになってきた。商業会議所が主催して電話期成同盟会を結成し請願を行ったり、地方公共団体の議決によって陳情するものなどが続出し、遂に明治四〇年(一九〇七)二月二一日四国で初めての電話交換局が高松に創設され、次いで同年三月には徳島・坂出に、また一一月には高知に開設された。愛媛県で最初に一般公衆を対象とする電話交換局が創設されたのは、翌明治四一年三月二六日松山市においてであった。以下にその前後の経緯について述べることとする。
 松山で公式に電話架設要望の第一声が上がったのは、明治三八年一二月二三日のことであった。この日、松山市会が出席議員一六人をもって開かれ、「電話架設請願の件」(『愛媛県史資料編社会経済下』公益参照)を上程し異議なく可決された。その請願決議の要旨は次のとおりである。

 「電話架設請願の件。明治三八年一二月二三日付。愛媛県松山市参事会 松山市長浅野長遊より逓信大臣大浦兼武あて。通信機関の整備は商工業の消長に大きく影響する。松山市の商工業は近年大いに発達し、特に戦後(注 日露戦争)ますます活発となり、貨物・人の動きが激しくなった。そのため既設の郵便・電信のみでは情報通信の要請を満たすことが不 可能となり、緊急に電話架設が必要となった。」

と訴えている。
 次いで翌三九年四月、浅野市長は上京して逓信省に電話架設の緊急である旨陳情した。これに対して本省から、

 「松山に電話架設の必要は認められるが、松山と中国を直接連絡することは、海上の距離が遠く(注 芸予海峡三五・八㌔㍍)、殊に海底電話線は多額の費用が必要である。それに対して乃生・渋川間(注 備讃海峡約九・三㌔㍍)が最短距離であり費用が少なくて済む。このため本年度(注 明治三九年度)においては、まず高松に架設しこれを四国の起点として、松山市は四〇年度に架設する方針である。」

旨の回答があった。これで四国最初の電話開設が高松(明治四〇年二月)であった事情が分かるが、いずれにせよ松山市に近く架設されることが確認されたので、地元の受入態勢は活況を帯びてきた。
 そして翌四〇年四月には、逓信省から松山市に対して電話架設認可の内示があった。そのため同年六月、市は加入希望者の申込み受付けを行うとともに、市長及び市参事会員が発起人となって「電話期成同盟会(幹事長浅野市長)」を組織して、諸般の準備を進めた。同盟会が加入申込みを受け付けてみると、当初予定の一二○人に対して三〇〇余に上り、希望者全員を受け入れることが不可能であったため、枠を一六○程度に広げることとしたが、それでも決定のための抽選割当てには、大変な苦労があったようである。このようにして六月下旬には、明治四〇年度における電話交換開始局として松山が確定したので、七月一一日から正式に逓信省告示をもって、電話加入申込みを受理した。
 一方、松山郵便局においてもこのような情勢を受けて電話開設準備に着手し、架設工事をはじめ交換手の募集・訓練を進めた。明治四〇年一二月一五日付『愛媛新報』は電話交換手募集について次のように報じている(原文のまま)。

 「電話交換手募集。松山郵便局にては今度電話交換手十四五名(女)を募集する筈なるがその資格は年令十三歳以上廿一歳以下にて夫なきもの、高等小学校二学年修業以上のもの等なり之れに適合するものにて希望の向は至急同局へ申出づべしとなり但し服務時間は十時間以内、日給五十銭以下又た見習中は日給十三四銭位を給與せらる」。

 このようにして、明治四一年三月二六日、松山市に待望の電話が開設され愛媛県における電話創業となった。同日付『愛媛新報』はトップ記事で、電話開設を祝し次のように論じた(原文のまま)。

 「本日は市民諸君が多年の熱望を達せし日なれば、その歓喜思うべし。この記念すべき日において有志者は、松山公会堂に開通祝賀会を開くは、まさにしかるべきことといわざるべからず。電話の開通は、その加入者諸君の利益のみにあらずして、松山市の発展に多大の関係を有するものなるがゆえに、けだし、市民諸君一般にもこれを祝することなるべし。しかりといえども、今日の開通は市街電話にして、いまだはなはだ広からず。しかるに長距離電話は、四十一年度中において開通すべしと聞く。はたしてかくのごとくなれば、いよいよ電話の効能を全くするものというべし。ああ、文明の利器の一なる電話は本日をもって備われり。市民諸君は、おおいに奮起してこれを利用し、松山市の発展を図らざるべからず、また図るべきを信ず。本日、電話の開通に当たり、記してもって市民諸君とともに、ここに歓喜の意を明らかにす。」

 この記事を見ても当時の市民の喜びがよく分かる。当日、松山市民は各戸に祝意を表すため、国旗を掲げ、松山郵便局正門には大アーチを建て、古町大通りは町中飾りを施したと言われる。

 創業時の電話概況

 電話交換開始当初の松山郵便局内設備は、磁石式単式交換機三台(市内)で、加入数は一八三であった。開通当時の電話番号案内(図公1-10)が『愛媛新報』に載せられているが、いろは順で当時の加入者は極く一部の有力者か企業に限られていたことがうかがわれる。
 また市外通話は、松山から三津浜と高浜に通じていただけで、通話料及び呼出料はともに、松山・三津浜間五銭、松山・高浜間一〇銭、三津浜・高浜間五銭であった。なお当時の統計資料としては、『愛媛県統計書』(明治四二年度)に明治四一年度末現在の県内電話概況(表公1-16)が記録されているが、松山市の電話加入数は開設後約一年にして二五三に増加し、加入申込中の者も九一あった。また三津浜は加入数五六、高浜は七であった。
 一方、開業当時松山市内で使用された電話機の記録は明確でない。しかし既にふれた別子鉱山の記録に「別子鉱山の電話機は、電話交換開始(注 明治三二年一二月)と同時にソリッドバック電話機(写真公1-20参照)を採用し、また三六年には、デルビル電話機を使用した」とあることから、松山市においてもこの両機種が使われたものと考えられる。なお逓信総合博物館(東京都)で調査した資料には、

 「デルビル磁石式壁掛電話機(写真公1-21)は明治二九年から昭和三〇年代までわが国で長く使用され、送話機に炭素粒を使っだので感度は向上したが、音質はあまり良くなかった。信号用手回し形の磁石発電機を使ったので〈磁石式〉と呼ばれ、主に市内通話用として使用された」とあった(注 カッコ内は筆者)。

 自動電話(公衆電話)の設置

 県内電話創業当初は、電話の利用は極く一部の人に限られたが、その庶民化の一役を担ったのが自動電話である。これは今のボックス公衆電話のことであるが、当時自動電話と言ったのは、英語のオートマチック・テレフォン(Automatic Telephone)を直訳したという説が有力とされている。なお大正一五年(一九二六)、東京の自動交換開始を機に、公衆電話と改められた。
 わが国最初の自動電話は、明治三三年(一九〇〇)に新橋駅と上野駅に設置された。松山では明治四一年三月二六日電話交換開始の日に、伊予鉄道松山駅(現松山市駅)構内に初めて設置され、その後、伊予鉄道道後駅や松山市城山にも設けられた。自動電話のかけかたについては、郵便局で「自動電話の使用心得」を作成してPRに努めた。それは今日からみれば実に微に入り、細をうがち懇切、丁寧を極めたものであり、当時の電話取扱局の苦心の程が察せられる。なお料金は一通話(五分間)市内五銭であった。自動電話は一般に好評で、大きな催物などの時は、臨時の自動電話を各地に設けた。
        
 電話交換風景

 電話創業によって松山にも、〝電話交換手〟という名のビジネス・ガールが登場した。当時女子の職場は極めて限られており、交換手の採用条件は非常に厳しく、高等小学校(当時尋常小学校が四年、高等小学校が四年であった)二年修業程度で、主に良家の子女から厳選した。そのため世間では、この難関を突破した人を一種尊敬の念をもって扱い、逓信省の〝官員さん〟とみなした。採用されると交換手見習となって現場訓練を受けた後、電話交換手に任命された。松山郵便局には当時の交換手の辞令が次の通り残っている(原文のまま)。

 「門屋レイ 電話交換手見習ヲ命ス 手當日給金拾貳銭給與ス 明治四十二年五月五日 松山郵便局」
 「電話交換手見習門屋レイ 電話交換手ヲ命ス 日給金拾七銭給與ス 明治四十二年十二月十日 松山郵便局」

 交換手の服装は、羽織、袴姿で通勤し、職場では羽織を白い筒そでに着替えた(写真公1-22)。松山電話交換局創業当時の職場風景を『愛媛新報』は次のように伝えている(明治四一年三月二六日付愛媛新報)(原文のまま)。

 「交換台について操業する時間は、一時間交代で一度に三名ずつ椅子にかかるのだから、これを総員一二名に割ると、一昼夜の勤務時間が一人六時間となるのである。勤務はなにしろ呼吸をはくまがないほど忙しいのと、加入者の感情をそこねまいとさまざまに気を配るので、時間がすこぶる長く感ぜられるのは、決して無理からぬところだ。しかし心掛けのよいお嬢さんは、それぞれ勉強している。松山の交換手は、いずれもそろったように品行が正しいようであるが、この美習はいつまでも保持させたいものである。」

図公1-9 別子鉱山の電話回線図

図公1-9 別子鉱山の電話回線図


図公1-10 開通当時の松山市電話番号案内(一部)

図公1-10 開通当時の松山市電話番号案内(一部)


表公1-16 創業時の電話概況

表公1-16 創業時の電話概況