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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 愛媛県の電信創業期

 わが国の電信創業

 電信機がわが国に初めて伝わったのは、安政元年(一八五四)二月のことであった。同年二月一五日再度来朝したアメリカ合衆国の東インド艦隊司令長官マッシュー・カルベレイス・ペリーは、将軍徳川家定への献上品を陸揚げしたが、その中に汽車の模型とともに電信機があった。これはエムボッシング・モールス電信機(ニューヨーク、ノルトン社製 写真公1-10)であり、通信の実況を幕府の役人に見せた上で、同年三月四日幕府に引き渡しを行った。幕府はその実用化を試みたが、実現をみないまま明治維新を迎えた。
 わが国の電信の始まりは、明治二年(一八六九)八月九日、横浜燈明台役所から横浜市本町通り横浜裁判所間(約七七〇㍍)に、官用通信として開始したのが最初であるとされている。同年一二月二五日には、東京・横浜間に電信線が開通し、公衆和文電報の取り扱いを開始した。これが民間通信の初めである。
 次いで明治三年八月二〇日には、大阪・神戸間で電信業務を開始し、明治六年二月には東京・長崎間が完成し、東京以西の主要幹線ができ上がった。さらに東京以北の電信線も順次建設が進み、同八年には、北は北海道から西は長崎まで、わが国の中心部を結ぶ電信網が構成された。

 備讃海峡に海底線敷設

 明治六年二月、東京・長崎間に電信線が開通しだのに伴い、同年一〇月一日岡山に電信局が開設された。さらに明治九年三月には、岡山から分岐して南に伸び備前国(岡山県)下津井港にまで達し、四国への電信線路建設計画が検討されることとなった。当初の計画では、下津井港から讃岐国(香川県)丸亀港への海底に電信線を沈架する方針であったが、調査の結果、岡山県児島郡渋川村と香川県下の乃生岬海浜(讃岐国乃生村字宮久保。現坂出市王越町乃生岬)間は、海路わずか五海里(約九・三㌔㍍)で最短距離であることが分かった。そのため、両地区に海底線陸揚場所を選定・確保(写真公1-11)し、その線室を設置して同九年一一月二四日海底線敷設作業にかかり、同年一二月三日完成した(『愛媛県史資料編社会経済下』公益参照)。最初の海底線は一心入一条の最も簡素なものであった。
 
 四国の電信の始まり

 このようにして海底線は敷設されたが、当時四国地方には電信施設が全く無かったので、直ちに通信開始というわけにはいかなかった。
 しかし明治一〇年二月一日、九州で西南戦争が起こり、丸亀にあった鎮台との軍事連絡が急に必要となったため、未着工の陸地部電信工事が急がれることになった。すなわち同年二月二七日岡山電信分局と岡山県渋川村(海底線陸揚地)間に電信線一回線を架設した。次いで翌三月四日、香川県乃生岬(海底線陸揚地)から丸亀の鎮台間約五里(一九・六㌔㍍)に二回線を架設し、鎮台営内に丸亀電信分局を仮設した。
 さらに同年三月九日には、乃生村から別に高松まで三里余(約一二㌔㍍)にわたる電信線を架設し、玉藻城内に高松電信取扱所を開設した。このようにして、同三月一一日、丸亀電信分局と高松電信取扱所で軍用と官用に限って通信を開始した。
 その後同年九月、西南戦争が終息したので、丸亀電信分局を市街地通町に移転し、翌一〇月五日から始めて、丸亀・高松両電信分局で私用電報の取り扱いを開始し、一般民の通信ができるようになった(図公1-3)。これが四国地方における電信事業の始まりである。
         
 県内の電信創業

 西南戦争が終結した翌明治一一年(一八七八)電信線は丸亀から分岐して西に進み、愛媛県内に入って今治・松山・高知まで架設された。松山・高知間の電信線は、現在の国鉄バス予土北線ルートを経由し、この間六五里九町一八間(約二五五・三㌔㍍)に二線を架設した。そして同一一年九月二五日、今治・松山・高知にそれぞれ電信分局を開設し、電信業務を開始した。これが愛媛県の電信創業であり、その時の通信範囲は、四国内は松山・高知・今治・丸亀・高松・徳島・撫養で、四国外は東京・大阪をはじめ、全国主要都市との電報交信ができた。
 創業当時の松山電信分局の所在地は、温泉郡二番町六七番地(現松山市二番町)で現在の松山市役所前の堀端、通称八股榎の付近であった。現在その場所には記念碑(写真公1-12)が建てられており、「松山電信発祥の地・日本電信電話公社」と記されている。なお碑の裏面には次の説明文が見える(原文のまま)。
 「ここは松山電信分局のあったところです。明治十一年九月二十五日県下で初めてモールス通信による電報の取扱いが開始されました。太政官布告という当時の法令に〈電信ハ瞬間萬里音信ヲ通スル至緊至妙ノ機関ナリ〉と記され文化の先端を行くものとされていました。建物もその頃としては珍しい洋館で見物にくるものが後を絶たなかったといわれています。昭和四十七年十月二十三日 日本電信電話公社発足二十周年を記念して建立」

 碑文にあるように建物は二階建ての洋館であり、当時としては珍しく、人々はモダンな松山電信分局の威容を仰ぎ見て、〝電信の偉力〟を感じたのである。
 電信線はその後次第に延長され、翌一二年三月一〇日、松山から八幡浜を経て宇和島まで二六里一九町四八間(約一〇三・二㌔㍍)の間に一線を架線し、同年四月一五日八幡浜、宇和島の両電信分局が開設され、これで県内枢要地の電信連絡が可能となった。なお当時の県内電信施設の概要を表公1-9に示した。

 創業期の電報料金

 わが国の電報料金については、明治五年(一八七二)四月二二日「音信表」が布告され、電報料金は「音信料」と言われたが、のちに電信賃銭表と改められた。明治一一年五月布告された電信局(中央政府)の資料「電信賃銭表」(『愛媛県史資料編社会経済下』公益参照)によると、松山から国内主要都市への和文一音信の料金は次の通りであった。

 「東京三五銭 静岡二九銭 名古屋二五銭 京都一九銭 大阪一七銭神戸一五銭 岡山一一銭 高松九銭 丸亀七銭 徳島一一銭 高知七銭 宇和島七銭 広島七銭 福岡二一銭 熊本二七銭 長崎二五銭 鹿児島三一銭」

 なお宇和島からの料金はこれに二銭を加算したものであった。さらにこのほかに、配達料として局から二里(約八㌔㍍)以内はすべて一通当たり一銭五厘の届賃が必要で、二里以上の所は郵便料金を支払って郵便で送達するのを原則とした。この料金は当時としては、一般庶民にとり高ねの花といった感じで、折角の文明の利器を利用する機会は少なかった。
 その後、明治一八年(一八八五)五月「大日本帝国電信条例」と「大日本政府電信取扱規則」を定め全国均一料金制に改められた。同時に局から一里以内の配達料を無料にするなど大幅な改正が行われ、同年七月一日から実施されたので、一般庶民にとっても利用し易いものとなった。改正された電報料金は次のとおりである。

 同一市内に発着する電報(のちの市内電報) 〈和文〉一〇字以内 五銭 一〇字以上一〇字以内ごとに 三銭 〈欧文〉五語以内  一五銭  五語以上一語ごとに 三銭 その他の電報(のちの市外電報) 〈和文〉一〇字以内  一五銭  一〇字以上一〇字以内ごとに 一〇銭 〈欧文〉五語以内  五〇銭  五語以上一語ごとに 一〇銭

 次に電報音信紙(電報発信紙)並びに電報配達について触れておく。創業当時の和文音信紙は、発信・着信・中継紙の三部で、縦横にけいをした美濃紙に受信者が印字テープを判読しながら筆記した。明治一二年からは、炭酸紙を使って複写することに改められ、複写した紙は着送紙として局に保管し、一方は送達紙として配達した。当時は電報を封筒に入れて封印し、封筒の上部に発信人や受取人の居所・氏名を書いて配達した。しかしこれは手数がかかるので明治二一年からは、受取人の居所氏名が外面に出るように折りたたむこととし、封印紙をはって、通信文が他人に見えないようにした。
 また創業時の電報配達は、わらじばきの駆け足であったため電報配達員を「電信駆使」と呼んだ。配達には標準速度(二分間で三町、約三〇〇㍍)が定められており、大変な重労働であった。その後明治二〇年になると、郵便配達員とともに「集配人」と呼ぶようになった。

 創業期の電信機

 松山電信分局が最初に使用した電信機の機種については、記録が残っていないが、国産モールス印字電信機(写真公1-15)が初めて製造されたのは明治一二年(一八七九)であるから、そのころ主として輸入、使用されていたイギリス製のシーメン・モールス印字電信機(写真公1-13)であったと考えられている。
 これは送信者が電鍵によって送るモールス符号をテープに印字受信するものであり、受信者はその印字テープを判読しながら、美濃紙の受信紙に筆書した。この電信機はわが国で最初に使われたフランスのブレゲ社製の「ブレゲ指字電信機。明治二~八年の間使用」(写真公1-14)に比べ、小電流で働くので遠距離通信が可能となり、明治四年から同三〇年のころまで広くわが国で使用されたものである。

図公1-3 中国~四国間電信線路連絡図

図公1-3 中国~四国間電信線路連絡図


表公1-9 明治12年電信施設

表公1-9 明治12年電信施設