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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

五 成長期

 郵便線路の整備

 県内郵便線路は、明治一〇年代既にその体系を整えたが、その後も年々山間部・島しょ部にまで伸長し、明治三〇年代には陸地部をはじめ水路便まで、ほとんど県内全域にわたって整備が進んだ。
 明治三三年(一九〇〇)九月現在の県内郵便線路並びに、その等級を表公1-4に示した(当時愛媛県を管轄していた多度津郵便電信局長が県内各郵便局長に通達〈達乙第八二四号〉した文書による)。
 さらに明治三六年八月一〇日現在の線路表(高松郵便電信局長通達。資料省略)も残されているが、これらの資料から分かるように、明治三〇年代後半には県内において、陸路の縦横線をはじめ水路とも、ほとんど全域にわたって完備した形となっている。

 取扱郵便物数の増加

 『愛媛県統計書』により、明治三二~四一年の間の県内郵便局数・取扱郵便物数・小包郵便物数などの推移を表公1-5に示した。
 郵便局数は明治四一年(一九〇八)には、受取所を含めて一四〇と約九四%増加し、ほぼ県下全域に設置された。また郵便函数(現在の郵便ポスト)は、同四一年には一、一六七が設置されているが、三二年対比増加率は約二九%とさほど大きくない。
 次に取扱郵便物数は、取集数(差立数)が明治三二年の六五九万通から、同四一年には一、七四三万通と約二・六倍に大きく増加した。また配達数も同じく約二・五倍に増えている。昭和五六年(一九八一)の県内引受通常郵便物数は九、一四〇万通であるので、明治四一年(一九〇八)の取集数一、七四三万通はその一九%強に相当し、当時の社会・経済情勢から考えると、この時点で県内郵便事業は整備が進み、大きく発展していたと言える。
 さらに、明治二五年(一八九ニ)から取り扱いを始めた小包郵便も引受個数で、明治三二年の五万余から同四一年には一八万八、〇〇〇余と約三・七倍に、配達個数もこの間に約三・四倍に増加するなど、大きく伸展した。
         
 管理機構の変遷

 愛媛県の郵便業務を統轄する管理機構は、明治一六年七月一日開設の松山駅逓出張局から、同一九年七月一日には丸亀逓信管理局(四国一円を管理した)に代わった(既述)。
 しかしこれも長くは続かず、明治二二年四月一日、四国は大阪逓信管理局に併管された。これは管理局運営経費などを勘案した今でいう行政改革と考えられるが、地域住民からはかなり厳しい批判の声が上がった。そのためかこの体制は間もなく改められることとなり、同年七月一六日、郵便及び電信局官制(勅令第九六号)を公布し、一等局をもって二等局以下を監督させることとなった。愛媛県では同日、松山郵便電信局が一等局に指定され、県下全域を管轄区域とすることが決まり、九月一日から実施された。
 なお明治期の管理機構の変遷は実に目まぐるしいもので、その後も次のように変革を続けた。すなわち四年後の明治二六年(一八九三)一一月一〇日の改正(勅令第一五二号)に伴って、再び広域管轄制に戻り、多度津郵便電信局が一等局に指定されて、四国四県を管轄した。同時に愛媛県内については、松山二等郵便電信局がその監督事務の一部を分掌した。
 この体制は約一〇年間近くと比較的長く続いたが、明治三六年三月二〇日の改正(勅令第四〇号)により同年四月一日、高松局が代わって一等郵便局に指定され、四国の管理業務を多度津局から引き継いだ。さらに同四三年四月一日、逓信管理局官制(勅令第九〇号)施行により逓信管理局が設置され、愛媛県は広島逓信管理局の管掌するところとなった。
 わが国最古の 明治四一年(一九〇八)わが国で最も古く、関西では唯一つという珍しい索道逓送線路が新居浜に開 索道逓送線路 設された。これは住友鉱山の請願局として設置された新居浜東平の集配特定局(東平局)が、同局から新居浜までの郵袋の逓送に利用したケーブルである。東平は石鎚山系の山ふところにある標高七五〇㍍の山間集落で、別子鉱山の開発とともに開けた地である。
 このケーブルは、わが国の鉱山としては最初に設置したドイツ製で、東平から新居浜の端出場を結ぶ長さ二、七一六㍍にバケット八二基を取り付け、鉱石を運んだ。これに郵袋用のバケットを取り付け、逓送に使ったのである(写真公1-7)。しかし別子鉱山閉山により、昭和四三年(一九六八)三月一六日東平局が廃止されたので、この索道逓送線路もその運命をともにし、現在はその名残りもない。

表公1-4 県内郵便線路

表公1-4 県内郵便線路


表公1-5 明治後期の郵便概要

表公1-5 明治後期の郵便概要