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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

四 確立期

 郵便線路の伸展

 県内郵便線路は、さきに述べたとおり、創業時すでに幹線路として松山から海岸沿いに川の江まで通じ、南へは宇和島まで開通していた。さらに県外へは、川の江から高松・徳島へ、また馬立を経て高知県に接続した。さらに宇和島からは、松丸を経て高知県に、八幡浜からは海路佐賀関に通じた。その後、郵便線路は急速に伸展し、それに伴って郵便取扱所の増設が進められた。明治七年(一八七四)一一月八日付『愛媛県布達達書』の「郵便線路並取扱所往復定日増加開設の件」(『愛媛県史資料編社会経済下』公益参照)によって、伸展の状況をみることにする。
 すなわちこの時点で、松山から南下して久米(現松山市)・久谷(現松山市)・久万・東川(現美川村)を経て高知県に入る線が開設された。さらに宇和島からも海岸沿いに、岩松(現津島町)・上畑地(現津島町)・柏村(現内海村)・城辺・中の川(現一本松町)を経て、高知県宿毛に通じた。
 また県内各地で次のように支線の整備が進んだ。壬生川―丹原。西条―小松。松山―久米―川上(現川内町)。中山―惣津(現広田村)。内の子(現内子町)―町村(現小田町)。内の子―予子林(現肱川町)。大洲―長浜。八幡浜―川の石―伊方―三机(現瀬戸町)。卯の町―野村―土居(現城川町)。宮の下(現三間町)―清水(現広見町)。
 さらに海路としては、今治―尾の道。今治―名村(現吉海町)―宮の浦(現大三島町)。三津―大浦(現中島町)が開設された(図公1-2の点線部分参照)。
 このように県内郵便線路は、開業以来驚くべき速さで伸展し、開業二年四か月後の明治七年一一月には、ほぼ現在の路線の骨格が出来あがった。なお県内設置郵便局数(『愛媛県史資料編社会経済下』公益参照)を見ても、明治四年二局、同五年一一局、六年一局、七年二五局が置局されており、明治七年に大きく進展したことが分かる。
 なお『愛媛県統計概表』により、明治初期の県内郵便概要を見ると(表公1-3)、郵便発信数は、明治一一年(一八七八)の二七万四、〇〇〇通弱から年々着実に増加し、五年後の同一六年には約四・二倍の一一五万余通に達し、また同年の郵便局数は九三を数えるなど、県内郵便事業は急速に確立されたと言える。

 四国と九州を結ぶ郵便船

 明治五年七月、宇和島・佐賀関間(海上二四里〈約九四㌔㍍〉)に海上郵便線路が開設されたが、その逓送方法は次のように定められた。
 ①郵便物は三尺四方ぐらいの専用箱に格納して、便船に運送を請け負わせる。その運送費は大型・小型船とも平均して三朱(三、〇〇〇文〈三〇銭〉)。②佐賀関の差立日は毎月三・八の日(月六回)とし、午前九時出発。宇和島の差立日は四の日(月三回)とし、出発時刻は定めない。
 ところが宇和島・佐賀関間は当時便船が少なかったので、同年一〇月二四日、八幡浜・佐賀関間(海上約一八里〈約七〇㌔㍍〉)に変更された。その実施方法は次のとおりに定められた。
 ①郵便船には県庁で調整した郵便旗(写真公1-5)を掲揚すること。②郵便船には一般の乗客や貨物の積み込みを認める。③郵便物の運送料として、船請負者に支払う借切料は、特に安価になるよう努力すること。④八幡浜の差立日は、六の日(月三回)、佐賀関の差立日は従来のとおり。
 しかし、八幡浜から佐賀関へ郵便船で差し立てる信書の数が極めて少なかったので、翌六年一月からは、別仕立ての定期便を月一回とし、それ以外は便船で信書を託送することに改められた。

 郵便物の盗難対策

 明治初期の道路・河川は、整備されておらず、また人の往来も少なかった。特に山中や海岸など人里難れた場所では、盗賊が出没していた時代で郵便脚夫が襲われることもあり、郵便業務管理上の大きな問題であった。そのため、明治七年(一八七四)一〇月駅逓頭前島密名で各郵便取扱人に対して、郵便物継立の途中賊に郵便物を奪われた時の非常措置などにつき、詳細な指示が出された。その要点は
 ①継立の途中で賊難に遭った場合は、速やかにその場を逃れ、郵便物の安全を図ることが最上であるが、やむを得ない場合は、短銃携帯を許されている脚夫は発砲してもよい。
 ②郵便物を奪われた場合は、最寄駅・村・警察付属詰所あるいは戸長の宅へかけつけ、応援を求めて郵便物をとり返し継立てること。もし見つからない場合は、戸長等の証明書をもらって直ちに帰駅し、その経過を郵便取扱人に届けること。
と指示されており、別に盗難郵便物の取扱い方法についてもこと細かく定められた。

 郵便逓送人(脚夫)の賃金

 創業時の郵便物運送は「継立場駅々取扱規則」に基づいて行われ、郵便脚夫が駅間の運搬に当たった。郵便脚夫は原則として、三貫目(一一・二五キログラム)の郵便行李を担いで、一時間に二里半(約一〇㌔㍍)の速度で輸送すると定められており、かなりの重労働であった。そのため逓送人の傭入れについては、取扱規則により駅近在の若い壮健な者に限られた。
 また逓送人の賃金は公定料金で、原則として一人一里(約四㌔㍍)につき六〇〇文(六銭)と定められ、三貫目以上あるいは夜行の場合は、割増料金が支払われた。当時の記録として残されている明治一〇年(一八七七)四月現在の「県内郵便里程並脚夫賃銭」によりその一部を示すと

 松山・郡中間 三里六丁 (約一二・六㌔㍍)   一六銭
 松山・三津浜間一里一八丁(約六㌔㍍)     九銭八厘
 郡中・中山間 四里   (約一六㌔㍍)    二四銭

などとある。
 この公定料金は、年を経るに従い改訂されたようで、明治一三年八月一九日愛媛県令関新平から郡中局長にあてた指令書が伊予局に残っている。それによると、知事の指令は「諸物価高騰につき、脚夫賃銭一里当たりの額を増加すること」という書き出しで、

 「郡中より松山へ里程三里十丁五十七間、脚夫賃銭一里当たり金六銭、一回分金十九銭八厘。泉町(現中山町)里程四里二丁十五間、脚夫賃銭一里当たり金七銭二厘、一回分金二十九銭三厘下げ渡すべきこと。夜間逓送は割り増し五割とすること。」

と知事が賃上げを命じている。
 これに対して郡中局は、

 「松山までは脚夫一人持郵便物目方三貫五百匁まで一回分の請負賃銭二十銭一厘、逓送速度は一時間四十分とほかに川舟の待時間二十分の猶予。また中山までは二十九銭で逓送速度は二時間とし、ほかに山が険阻のため四十分の猶予をみており、いずれも遅滞なく逓送の上は、指示どおり支給する」

と回答している。

 郵便の現業機関

 明治五年(一八七二)七月新式郵便全国実施に際し、温泉郡府中町一丁目四番地(現松山市)三浦金七居宅に、松山郵便役所(所長三浦金七)が設置された。同時に宇和島・今治をはじめ県内一三か所に郵便取扱所が開設され、ここに郵便取扱人及び切手売捌人を置いて郵便業務に当たった。その後、同六年四月には郵便役所を一等とし、主要な郵便取扱所を郵便役所に改め、二等・三等・四等に区分した。翌七年一月、郵便取扱所をすべて郵便役所と改称し、これを無等としたが、八年一月さらに郵便役所を郵便局と改め、無等郵便役所を五等局とした。同時に、同一市内に数か所の郵便局がある場合、その中の一局を本局、他を分局と呼び、本局・分局から離れた地には別に郵便受取所(現在の無集配特定郵便局)を置いた。
 次いで明治一四年(一八八一)七月、官設の郵便局を出張郵便局とし、また既設の郵便受取所を郵便支局とした。さらに同一六年五月、分局の名称は支局に統一された。こうして郵便局は一等から五等まで、さらに本局・支局・出張局と分類されることになった。なお明治一七年一月現在の[郵便局地名録](『愛媛県史資料編社会経済下』公益参照)によると、県内郵便局地名九一のうち

 一等局 一(松山)。二等局 一(宇和島)。三等局 五(八幡浜・大洲・川の江・今治・西条)。四等局 一三(別子鉱山・多喜浜・小松・丹原・北条・三津浜・久万・郡中・新谷・長浜・卯の町・吉田・城辺)。五等局 七一(地名略)。

となっており、全体の八割近くは五等局であった。
 これら郵便局の管理は、駅逓局官吏あるいは郵便取扱役が当たった。郵便取扱役には地方名望家を任命し、わずかの給料ながら準官吏待遇とすることで社会的満足感を与え、自宅を局舎として提供してもらって、請負制で業務を担当させることにした。これが成功して現業機関は、明治前期順調に伸展した。

 郵便取扱役奉務要領
 
 新式郵便発足当時は、郵便取扱役を命ぜられた者はその都度請書を提出して、規則に違反しないことを誓約した。これは取扱役の服務規則に当たるものであったが、政府は明治一五年(一八八二)四月これを廃止し、新たに奉務要領を発行してその形式を統一した。
 そのため同年四月二九日、愛媛県令関新平は各郵便局取扱役に対して、新しい様式に基づく奉務要領書の提出を指示した(『愛媛県史資料編社会経済下』公益参照)。この指令に基づき、各郵便取扱役はそれぞれ奉務要領書を清書し、その末尾に所在地・記名・調印して、愛媛県を経由、駅逓総官野村靖に提出した。その内容は詳細なものであるが、特に郵便物の取り扱いは諸規定に従い迅速に、かつ公平・丁寧を旨とすること。また現金・切手・葉書等の出納並びに諸報告の厳守、集配人の監督・継立取扱時間の厳守などを厳しく誓約させられている。
        
 郵便管理機構

 郵便創業期の中央管理機関は、大蔵省駅逓寮であり、地方の管理は府県庁に委任された。愛媛県の郵便管理機構をみると、明治九年(一八七六)一〇月には庁内第一課に駅逓科を置いて県内郵便を管掌した。さらに明治一一年三月一二日布達の「愛媛県事務定則」によると、県庁庶務課に属する往復科が管掌し、その業務は、
 「県内郵便局の監督。郵便線路の開設。郵便局の経理監査。電信。等に関すること」であった。また翌一二年四月の改正では同じく庶務課に属したが、担当係は二係に分かれ
 庶務係―郵便に関する事務を取扱うこと。  往復係―郵便税・電信料など計算のこと。
と定められた。
 その後、郵便業務の拡大に伴い、事業規模に対応できる地方管理機構の整備が必要とされるに至った。そのため政府は、明治一六年二月一五日駅逓区編制法(梓規十六第七号)を施行し、全国に三五か所の駅逓出張局を設けることとした。それに伴って愛媛県郵便業務を統轄するため、同年七月一日松山駅逓出張局(所在地温泉郡松山一番町四)が設置された(梓規十六第八九号)。その時、松山駅逓出張局長心得駅逓七等属高橋敬が県内各郵便局あて布告した就任達書には「今般小官就任に付当出張局処務規程来る七月一日より実施候条此段相達候事。明治十六年六月付」と記されている。これによって、これまで愛媛県庁が担当した県内郵便管理業務が駅逓出張局に移り、郵便事業の中央集権管理体制が整えられた。
 しかし松山駅逓出張局は、わずか三年で幕を閉じることになった。すなわち明治一八年(一八八五)一二月二二日逓信省が創設されたのに伴って、翌一九年二月二七日逓信省官制・地方逓信官官制(勅令第八号)が公布された。それに基づき、同年七月一日丸亀に四国三県(香川県は愛媛県に属していた)を管轄区域とする丸亀逓信管理局(所在地丸亀富屋町九番地。のち浜町三番地)が開設された。同管理局の管轄区域は現在の四国郵政局(松山市に所在)の区域と同じで、同局の起源と言えよう。この段階で、県内郵便事業はようやく創業の苦しみを乗り越えて、確立期に入り、各種の規程が多く出された。

表公1-3 明治前期の郵便概要(愛媛県伊予国)

表公1-3 明治前期の郵便概要(愛媛県伊予国)