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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 わが国近代郵便の創業

 飛脚制度の温存

 明治新政府の行政組織は、中央政府である太政官のもとに、七官のうちの一つとして会計官が置かれ、その管下に駅逓司を設けて運輸及び通信の行政をつかさどった。しかし当初の新政府は、まだ全国に支配を及ぼしていたわけではなく、全国に旧幕時代の各藩の実権が存在していた。そのため通信施設についても全国一律に設けることにはならないで、旧来の宿駅や飛脚の制度をそのまま引き継ぎ、これを駅逓司が管轄した。
 従って民間の業者である定飛脚の問屋仲間は、明治に入っても旧幕時代と同じように独占的な営業を続け、政府に対しても強い力関係を保持していた。当時、政府は東海道の宿駅における定飛脚の継立料について公定料金を定めたが、明治二年(一八六九)四月宿駅ではこれを不服として、相対価格すなわち市場価格への切り替えを要望した。新政府はこれを認めざるを得なかったが、その結果、飛脚問屋にとっては料金が高騰したほか特権的な地位を失って困惑した。そのため再び政府に公定料金制度の復活について願書を提出するなど混乱が生じた。このように、宿駅と飛脚制度の矛盾が次第に大きくなり、新時代にふさおしい通信機関の担い手を早急に創設する必要に迫られる情勢となった。

 新式郵便の立案

 明治三年(一八七〇)五月一〇日前島密が駅逓権正に就任した。当時、駅逓司が欠員であったので事実上の長官である。前島はかねてから駅逓について関心が深く、当時の飛脚便は日数がかかり費用も高かったので抜本的な改革が必要と考えていた。わが国でもアメリカなど先進国のように、官営の通信制度を確立し、だれでも安価に信書を発することができるようにすべきであるというのが、基本的な考え方であった。そこで就任するや直ちに新しい制度の立案をまとめ、同年六月二日、民部・大蔵両省会議に郵便創業に関する建議を提出した。名付けて「新式郵便」といい、初めて「郵便」と言う名称を採用した。
 その構想は、全国郵便の開設を目標としながらも、まず東京と京都・大阪との三都間に試験的に開設する。取扱機関としては、三都に郵便役所を設け、沿道各地で書状の集配を行うほか、三都の市内各所に集信函(ポスト)を置く。料金は沿道の各地ごとに定め、前納とする。その方法は、あらかじめ賃銭切手を発行し、これをはり付けて前納のしるしとするというものであった。
 そのほか施行上の細目についても詳しく計画し、極めて優れた構想であった。これは範を欧米諸国の郵便制度にとったとはいえ、ほとんど独自の発想に基づいて、新しい体系を作りあげたものである。この建議は太政官によって裁可され、着々と新式郵便創業の準備が進められた。

 新式郵便の開業

 明治四年一月二四日、「郵便創業の布告」が太政官から発せられた。それに伴って、民部省は切手発行及び売りさばきの件のほか「各地時間賃銭表」「書状を出す人の心得」など、新式郵便の実施に関する諸規定を公示した。そして郵便物を差し出すための箱(のちの郵便ポスト)を準備したが、これは「書状集箱」あるいは「集信函」(写真公1-2)と呼ばれた。また最初の郵便切手(初めは賃銭切手と言った)を印刷した。これはそのデザインから竜切手と言われ、四八文(のちの半銭)、一○○文(のちの一銭)、二〇〇文、五〇〇文の四種類(写真公1-3)であった。
 こうして、明治四年三月一日わが国の近代郵便が発足した。こめ日は太陽暦では一八七一年四月二〇日でのちに四月二〇日は「逓信記念日」に制定された。創業時の逓送時間は東京・大阪間七八時間で、その料金は一貫五〇〇文(一五銭)であった。ところで郵便創業に伴う大きな問題は飛脚についてであった。飛脚業者にとってこれは死活問題であり、東京・京都・大阪三都の定飛脚問屋は連合して、郵便と同額の料金、同程度の逓送時間で飛脚便を毎日差し立てて、政府事業との競争を展開した。
         
 郵便線路の伸張

 郵便線路はやがて大阪から以西及び以南へと伸びた。しかし当初は、駅逓司の直轄ではなく、民間から郵便請負の出願がなされたものを承認して、東海道新式郵便に接続させる形をとったものである。駅逓司は大阪以西郵便賃銭表を公布したが、特に郵便役所の新設は行わなかった。大阪以西への便は、東海道線で大阪到着の翌日各地あて郵送される手順であり、明治四年八月に定められた各地への逓送時間と料金は、図公1-1に示したとおりであった。
 それによると当時の県内郵便線路は、高松・金刀比羅を経て西条・小松・今治・松山・新谷・吉田・宇和島まで伸びていた。しかしまだ飛脚業者による請負制のままで、施設・方式等の整備は進んでおらず、非能率なものであった。この時点での大阪から県内各地への逓送時間は、大阪発八日目着、料金は九〇〇文(九銭)と定められていた。
         
 郵便の全国実施

 郵便線路はその後、次第に全国に伸展し、政府は全国郵便網の確立を図るべく準備を進めた。明治五年二月には、新貨条例に伴って(一〇〇文を一銭に換算)さきの文単位の竜切手を改めて、半銭・一銭・二銭・五銭の四種類の竜切手を発行した。続いて翌三月、郵便規則を改正して郵便の全国実施に備えた。
 このようにして準備が整い、明治五年七月一日、太政官布告によって、ほぼ全国的に郵便事業を実施することとなった。

 創業期の郵便業務

 郵便創業期の現業機関としては、三都に郵便役所を、その他の全国各地に郵便取扱所を設けた。郵便取扱所には、郵便取扱人を置いたが、経費節減のため各地方人から採用し、これに準官吏としての高い社会的地位を名目として与え、その自宅を仮役所とした。その後、明治七年一月からは、全国の取扱所を郵便役所と改称した。郵便取扱人は毎日所定場所の書状集箱に急行して書状をまとめた。なお「書状集箱」はのちに「郵便集配函」と呼ばれた。
 ところで、明治四年三月創業の新式郵便は、日本の通信史上まさに画期的な改革であったが、全国に実施された同五年七月の段階でもなお旧来の飛脚の存在は続いており、名実ともに近代郵便を完成させるためには、郵便の政府専掌と均一料金体系の確立が必要であった。そのため、政府は飛脚業者の説得に努めた結果、ようやく了承を得たので、明治六年(一八七三)三月一〇日、太政官布告をもって「郵便規則(改正)」を公布し、一般には「郵便独占の布告」をもって周知を図った。
 これにより同年四月一日より、全国均一料金制(布告によれば「郵便賃銭の称呼を廃し郵便税という。量目等一の信書は里数の遠近を間わず国内相通し等一の郵便税を収める」と定めた)を実施した。また翌五月一日から郵便事業は政府専掌(「信書の逓送は駅逓頭の特任に帰せしめ、何人を問わず一切信書の逓送を禁止す」と定めた)とした。
 これによって、旧来の民間飛脚業は姿を消し、新式郵便はようやく近代郵便としての体制を整えることとなった。全国統一料金実施前後の郵便料金表を表公1-1並びに1-2に示した。

図公1-1 大阪以西各地への逓送時間と料金

図公1-1 大阪以西各地への逓送時間と料金


表公1-1 明治5年7月実施書状料金表

表公1-1 明治5年7月実施書状料金表


表公1-2 明治6年4月実施郵便料金表

表公1-2 明治6年4月実施郵便料金表