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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

第一節 国債発行の始まり

 山陽特殊鋼倒産と山一証券特別融資

 昭和四〇年(一九六五)は、前年の繁栄の反動が早くも現れた年であった。山高ければ谷深しの例えのようにこの年は不況に明け、そして不況に暮れた年であり、またこれによって、その後の日本経済の方向が定まった分岐点の年ともなった。まず三月上旬には山陽特殊製鋼(姫路市)が負債額四八〇億円をかかえて倒産するに至った。この出来事は第二次大戦後の最大の倒産として当時の話題を呼んだものであったが、このような大型の倒産が起こるに至った原因としては、次のようないくつかの事情を挙げることができる。
 ① 昭和三〇年代の前半における企業の膨大な設備投資に基づく、供給過剰から生じた在庫の増大が積り重なって企業の業績を悪化させていたこと。
 ② 企業の設備投資の大部分が、銀行借入れに依存したために財務構成の悪化を招いており、その結果として企業が不況に際して必要とする抵抗力を弱めていたこと。
 ③ 産業界の全般にわたって労働力不足を来たしていて、賃金の上昇率が企業の生産性を上回って利潤を圧迫する大きな原因となっていたこと。
 次いでは年初来の不況と大型の倒産を反映して、五月になると四大証券の一つである山一証券の業績悪化が表面化してきた。同証券会社が業界における存在の大きいこともあって、同社の業績の帰趨如何によっては証券界は言うに及ばず、金融界・経済界・ひいては日本の国際的地位にまで大きな影響を及ぼすことになりかねない。五月下旬になると田中蔵相は、山一証券に対する無制限であって無期限の日本銀行特別融資を発表した。この決定によって、同社の再建は日本銀行が中心となって精力的に推し進めることとなった。このようにして、不況と倒産、そして再建という一般的な経済情勢のなかで日本銀行の公定歩合は、一月には日歩一銭八厘から一銭七厘へ、四月には一銭七厘から一銭六厘へ、さらに一銭五厘へと矢継ぎばやに引き下げられていた。
 また一方では不況による税収の減少が、わが国の財政に大きな圧迫を及ぼしかねない情勢が日増しにはっきりとしていた。政府はいわば背に腹はかえられない思いで、遂に従来の均衡財政の方針を一時棚上げして、戦後初めて赤字国債を発行することに踏み切った。このようにしてわが国の経済は国内の不況と倒産を踏み台として、新しい方向へと歩みを進めることになる。また一面では不況はひとつの節目であって、これを乗り切った企業はその後、自己の体質を強化して金融力を増大させて、国際化時代に生きる体力をつけていく機縁となったと同時に、不幸にして時代の波を乗り切ることが出来なかった企業は、やがて競争場裡から姿を消していかなければならない運命に置かれることとなった。この年の二月に米国は、北ベトナムへの軍事介入を始めるに至り、ベトナム戦争はその後一〇年間の泥沼戦争を経験することとなるのであった。このことが米国経済に軍需景気をもたらすこととなり、それが回り回って日本経済にとって、米国に対する輸出の増大を通して好影響をもたらす結果となった。また日本の隣国である韓国の国会においては、日韓条約協定が与党単独で可決されており、日本と韓国の関係がここに新しい時代を迎えることとなった。愛媛の経済と金融を深く包んでいた日本経済は、国内及び国際の大きな変化の始動がみられるこの年を、ともかくも切り抜けようと苦闘していた。

 戦後初の赤字国債の発行

 昭和四一年(一九六六)は、前年一一月に閣議において決定した赤字国債の発行によって新年が始まった。国内不況と倒産に対処して景気の立て直しをはかるためには、公共投資事業の活発化による他はないとの財政基本方針に基づいて、その財源を税収の増加によって求めることが困難な状況のもとでは、結局は歳入の不足部分の補填を公債の発行に頼らざるを得ないとの国内事情から、一月下旬に「昭和四〇年度における財政処理の特別措置に関する法律」が公布された。この法律に基づいて同年度には、総額で二、三〇〇億円の国債が発行され、さらに昭和四一年度に入っては、国債の発行高は六、六五六億円に達し、その結果として公債が財源に占める比率は一四・九%に達した。この年はわが国の財政の困難をよそにして国内では、ビートルズが来日してエレキ・ブームを巻き起こしていたし、社会面で「建国記念の日」をめぐって論議が盛んであった年に当たり、また航空機事故の頻発した年でもあった。二月の全日空機事故(死者一三三人)、三月のカナダ航空機事故(死者六四人)、同じ月のBOAC機の事故(死者一二四人)、そして一一月中旬には全日空機が松山沖で墜落して五〇名の犠牲者を出すという惨事が起こった。
 また一方では、海外において六月に英ポンドの投機が始まり、七月には一〇か国蔵相会議が、国際流動性の討議に関する共同声明をハーグにおいて発表した。アジアにおいては八月に中国において文化大革命が嵐のように中国本土に吹き荒れており、指導者層にいた何人かの人々は自己批判を迫られていた。一一月下旬にはアジア開発銀行が資本金一〇億ドルでマニラに設立され、その総裁には日本から渡辺武が就任した。インドではこの年の一月からインデラ・ガンジー女史が首相としてその任に就いていた。愛媛県では一一月に伊予市から伊予郡中山町を経て、喜多郡内子町を結ぶ国鉄内山線の起工式が中山町において挙行されたのであって、二〇年後にようやく開通の運びとなったのであった。

 金融の効率化と中小企業金融円滑化

 昭和四二年(一九六七)は、愛媛県下における経済情勢の変化について格別の記録は見当たらない。そのことは愛媛県がもっぱら全国の動静のなかで、静かに呼吸していたものと思われるのである。全国的には確かに大きな景気変動という経済的な変化があったし、国際的には英ポンドの再切下げ等があって、従来の国際経済・通貨情勢の流れのなかで断層的な出来事が起こった年であった。またこれが日本経済に対して外部から影響を与えたことは明らかであって、愛媛経済もいずれその余波を受けることは間違いないことであるが、そうした影響が地方の経済、そして金融界に現れるのはなお時間の経過を必要としていた。
 この年は全国的にみた場合には総じて好景気であった。二年前に米国が北ベトナム爆撃を開始し、同地域の内戦に深く且つ広く介入するに至った。宣戦布告のない事実上のベトナム戦争である。数十万の米国軍隊の派遣に伴う、武器・弾薬・食料及び物資の調達等は、当然の結果として米国の軍需景気を招来した。一〇〇か月に達すると言われた米国の好景気は、この時期を中心としていたと言うことができる。このことは米国経済と関連の密接な日本経済に対して直ちに影響を及ぼした。米国に対する輸出に大きく依存する日本経済にとってみれば、米国のベトナム戦争への介入は、まさに干天に慈雨の思いで迎え入れられた。また昭和四〇年六月以来の国内の低金利政策も景気回復には大きな力として作用した。米国に次いで日本もまた好景気をおう歌するに至る。
 国内における出来事としては、六月に閣議において「資本自由化に関する基本方針」が決定した。その後七月の第一次自由化に始まり、昭和四八年(一九七三)の第五次の自由化に至って、非自由化五業種(鉱山・皮革製造業・鉄道・石油業・不動産業)を除いて、原則として一〇〇%の資本自由化を達成することが出来た。九月には「銀行の経理基準について」の銀行局長通達が出され、銀行経理にひとつの基準が設けられた。一〇月に入ると「金融の効率化」、「中小企業金融の円滑化」に関して金融制度調査会の答申が提出されている。その内容としては、金融機関相互間に適正な競争原理が働く環境の整備を骨子としていたが、その後の金融機関の預金獲得競争の激化までを、この答申は予測することはできなかった。開放経済体制下における日本経済の大型化のために、財政支出もまた巨大化しつつあった。一二月には昭和四三年度の政府予算の編成に当たって、既定経費の自然増に伴って、財政硬直化が問題となったのはやはりこの時期であった。
 国際的にみれば六月には、ケネディ・ラウンド交渉が妥結して関税の一率引下げが実現し、世界貿易の拡大が期待された。しかし、それ以上に大きな出来事は英ポンドの再切下げであった。かねてから国際収支の運営に困難を経験していた英国は、一一月一八日に従来の一ポンド=ニドル八〇セントから新しく一ポンド=二ドル四〇セントへと、すなわち一四・三%の切り下げを行った。当時の日本の貿易は英ポンド地域との取引きにおいて、英ポンド建の輸出契約及び輸入契約が多くあったので、切下げの結果、日本の輸出業者にとっては手取り金額の大幅減少が起こり、他方では輸入業者側に思わざる為替上の利益が生じて、いわば悲喜こもごもの大混乱が起こった。その後は価格改訂交渉が活発に進むこととなったが、その調整までには約一か月以上の月日を要し、貿易業界・金融業界が大揺れに揺れたなかで年が暮れて行くこととなった。この時期をポンド・ショックと呼んでいるが、その後のドル・ショック(昭和四六年八月)、オイル・ショック(昭和四八年一〇月)の先駆けをなすものであって、用語の上から容易に想像できるように、わが国民にとっては大きなショックとして受け取られたものであった。このショックからどのようにして立ち上がるかが新しい課題として登場した。この年に始まった国債の発行は、その後長くわが国財政の中心的位置を占めるようになり、最近数年間の実績は表金4―1によって見るとおりである。

表金4-1 国債(内国債)発行・償還・現在高

表金4-1 国債(内国債)発行・償還・現在高