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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 貿易為替の自由化

 一万円札の登場

 昭和三三年(一九五八)一月の末に、米国はソ連に遅れること三か月にして、第一号の人工衛星を打上げることに成功した。かつての原子爆弾の開発に始まり、それが水素爆弾の開発に受け継がれ、そして新しく宇宙開発の分野で、米国とソ連はお互いに抜きつ抜かれつの関係を展開して今日に至っている。米ソ巨大国の技術開発競争を絶えず意識しながらも、わが国は自国の経済発展に、そのエネルギーのほとんどを集中することができた数少ない国のひとつであった。この年にはわが国の経済界は、前年における日本銀行の再度にわたる公定歩合の引上げと、準備預金制度の発足、さらには大蔵省の通達によるオーバー・ローンの是正等の八項目によって、前々年来の神武景気と評されたブーム状態も、徐々に下火に向かっていた。六月中旬には公定歩合は日歩二銭一厘(年率七・六七%)に引き下げられ、さらには九月上旬には日歩二銭(年率七・三〇%)へと引き下げられることによって、三年前のブーム以前の状態に復していた。その間の技術革新と設備投資の全盛時代における経済活動の活発化に伴って、通貨発行量は大幅に増加したので、従来の日本銀行券種のみをもってしては取り扱い上の不便さが目立ち、事務運営上の円滑にもとかく支障が起こりがちな情勢となった。そこで一二月の初めになって、日本銀行券一万円札がニュー・フェースとして国民の間に登場していた。この年末には、日銀券の発行高は遂に一兆円を突破していた。
 さて、前月の一一月下旬には、皇室会議において皇太子妃として正田美智子が承諾されていた。一二月下旬には、二年半の工期を経て東京タワー(高さ三三三m)の落成式が行われる等で、世間は朗報に湧くという幸運な時期であったが、その折に前述の聖徳太子像の日本銀行券一万円札が注目を浴びて登場し、威厳をもって社会に迎え入れられた。そのころ、遠く離れた西ヨーロッパでは、日本と同様に戦後の復興が既に終わり、前年には欧州共同市場の条約が調印される等、現地においては新しい出発と発展の歩みが始まっていた。その土台となるべき西欧一四か国通貨の交換性が回復したのは、この年の一二月下旬のことであり、世界は各地において新しく迎える年に、いくつかの希望を添えるものとなった。

 ドル為替自由化と支払準備制度発動

 昭和三四年(一九五九)の四月一〇日、皇居において皇太子・皇太子妃の結婚式が盛大にとり行われた。この年の後半には景気は次第に回復していたが、国内の政治及び社会面では、日米安全保障条約の改定案が、国会を通過するのを阻止しようとするデモ隊の統一行動が、この年から翌年にかけて激しく展開された。この年だけをみても四月の第一波に始まり、一一月の第八波に至る等七か月にわたって、国会周辺においてデモは荒れ狂ったのであった。
 他方において国内の経済的な側面では、昭和二〇年の財閥解体以来既に一四年を経過しており、経済活動が軌道に乗って進むなかで、二月中旬には第一物産と三井物産が合併して新しい「三井物産」が発足した。同じころに日本銀行は、これまで維持してきた金融緩和策をさらに一歩進めて、公定歩合を日歩一銭九厘(年率六・九四%)へと引き下げた。また大蔵省は九月中旬になって、ドル為替の自由化(先物為替の導入)を実施した。そこで景気は再び過熱気味となって、一部で岩戸景気と称される現象が現れ始めたので、日本銀行は一二月上旬に予防的な金融政策へと転じて、公定歩合を再び日歩二銭(年率七・三〇%)へと引き上げるに至った。この年の終わりも近い一二月中旬には、石炭から重点が石油へと移ったエネルギー情勢の影響を受けて、三井鉱山では一、二〇〇名にのぼる指名解雇を強行した。それは戦後中東において、油田の開発が大々的に進んだ結果として、かつての石炭に代わって、石油の価格が安い上に熱効率が高いという意識が、産業界に定着するに至った時代を反映したものであった。またこの年は大きな自然災害に見舞われた年でもあった。九月下旬に伊勢湾台風が愛知県と三重県地方を直撃して日本列島を横断しており、死者行方不明者五、二〇〇余名の犠牲者を出した。日本国民は改めて災害の恐ろしさを認識すると同時に、被害を免れた各地からの救援活動が被災地へ向けて、精力的に注がれた年でもあった。愛媛の金融界においては、この年の五月に伊豫銀行では、経営合理化委員会の組織構造改革に関する答申に基づいて、経営の近代化を目標として、新しくゼネラル・スタッフの役割を担った総合企画室が誕生していた。