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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 満州事変と金輸出再禁止

 満州事変の勃発と金本位制度離脱

 昭和二年(一九二七)から同五年にかけて、わが国では金融恐慌から経済恐慌へと事態は発展したが、海を距てたアメリカでは、同四年に株式市場暴落からやがて世界的不況へと進むなかで、新しい昭和六年の多難な年は始まった。これまでの不況のなかで浜口雄幸内閣は恐慌に対しては最小限の応急対策を講じながら、むしろ主力は産業の合理化に注いでおり、大企業にはカルテルをつくらせ、中小企業には工業組合をつくらせて、それぞれの独占力を強化することによって恐慌を突破しようとする作戦を展開した。いわゆる国家独占資本主義の色彩が色濃く現れた時代であった。しかしながら、このような独占の強化と拡大は社会における貧富の差をますます大きいものとし、労働者や中小企業者、そして農民に恐慌のしわ寄せが行われることとなり、さまざまな社会問題を惹起し、一方ではこれらの改善を求める社会運動を激化させていた。このようにして日本経済は経済的弱者の負担と犠牲の上に、財閥の富が形成されて行く過程をたどったのであった。こうした経済土壌の不公正観の上に軍国主義が急速に台頭し、果ては独走して日本経済と国民に有無を言わせずに引張っていくこととなった。ここに昭和六年九月、満州事変の勃発に始まりやがて大東亜戦争に突入するという、いわゆるわが国の一五年戦争の時代が始まるのである。
 満州事変の勃発による軍事支出の増大や、社会不安の拡大に対処する社会政策費の増加が、結局のところは赤字公債の増発へとつながり、当初に目的とした健全財政の理念が崩れるようになり、正貨の流出のために金本位制の維持を次第に困難なものとしていた。昭和六年一二月には既に述べたように、犬養毅内閣は初閣議で金輸出の再禁止を決定し、銀行券の金貨兌換の停止令を公布施行したが、この間の事情は翌昭和七年一月、高橋是清蔵相が議会において行った財政演説においてなお一層明らかとなる。

 「井上前蔵相は、米国の恐慌はその金利を低下せしむべきを以て、我国が金解禁をなすも正貨流出の憂いなきに至りたるものと推断し、天佑とまで称して、このときを選んで金解禁の決心を固め、昭和五年一月一一日を以て、金輸出禁止の解除を断行したのである。当時、我々は金解禁は未だその時機に非ざるを信じ、極力これに反対したが、政府が一旦これを決定した以上、もはや争うべきものではない。ただその対策に錯誤のないことをこいねがい静かにそのなすところを注視して居った。
 しかるにその後の実情は、悉く前内閣の予測に反し、財界の不況は益々深刻となり、物価は低落して止まるところを知らず、産業の不振は極度に達し、社会思想上憂うべき現象を呈し、租税公課の負担は実質上益々重きを致し、殊に正貨の流出は前内閣の声明を裏切って甚しき巨額に上り、ために金融は逼迫し経済界の極端なる不振不況は延いて国家および地方財政の窮乏となった。」
「そこで現内閣はこれら各般の情勢に鑑み、組閣後直ちに再禁止を断行したのである。我々はこれを以て時局匡救の第一歩と信じたるのみならず、当時の我国の実情は当局の好むと好まざるとに拘らず、到底金本位を維持し難き情勢にあった。」
 また右の発言にあるように、国際的にみても英ポンドは昭和六年九月には既に金本位制を離脱していたので、同国と関係の深い日本が金本位制を維持できる状態ではなかったことは明らかであって、井上前蔵相が骨身をけずる思いで実行した金本位制も、わずか二年に満たない生命に終わったのであった。一方、世界では同年の五月にオーストリアに経済恐慌が起こり、六月にはアメリカ大統領がモラトリアムを言言し、七月にはドイツに金融恐慌が波及し、八月にはイギリスに経済恐慌が起きる等、昭和四年(一九二九)に米国に端を発した世界恐慌は深刻の度合いをますます深めつつあった。そのなかでひとりアジアの一角で、不況に反発するように日本の軍国主義の独走が始まり、その勢いは国の内外で、もはや手のつけられないまでに高まりつつあったのである。
 愛媛県の当時の金融界は、この年の一二月に第五十二銀行が大野銀行を買収し、また南予では、卯之町銀行と宇和商業銀行が時勢の変化と大蔵省のすすめもあって合併して、資本金一一六万円の宇和卯之町銀行が成立した。このようにして東宇和郡地方に唯一つの本店銀行が出現した。世界とわが国の表舞台における動揺と混乱のなかで、地方の一角でも静かな変革が着実に進行しつつあった。

表金2-8 愛媛県本店銀行一覧

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