データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

四 金解禁の断行と経済恐慌

 為替相場の不安定と金解禁の建議書

 さて愛媛の銀行合同のはしりが見られた昭和三年は、わが国としては対外的に外国為替相場の不安定さが目立つ年でもあった。日本と米国の為替相場は一〇〇円=四八ドルと一〇〇円=四四ドル台の間を大きく変動しており、そのために商社や紡績・鉄鋼その他の貿易に関連する業界は大変に困難な状態に置かれていた。また世界を見渡した場合に、米国が第一次世界大戦の終了の翌大正八年(一九一九)にいち早く金輸出解禁に踏み切っており、その後、大正一四年(一九二五)には英国も同様に金本位制度に復帰していた。ひとり日本だけが戦後の反動恐慌や、その後の関東大震災もあって金本位制度に復帰しないままになっていた。そうした状態で昭和二年には、金融恐慌が勃発して金融界に大変動が起こるとともに経済界は不景気のドン底に陥ってしまった。そうした暗黒状態のなかで一抹の光明を求めて、ひとつには他の先進国並みに金輸出解禁を行って肩を並べたい気持ちと、今ひとつはそのことによって不景気の回復が得られるかも知れないとの期待から、主として財界が中心となって、金解禁を希望したことも一面では無理からぬことであったと思われる。ましてや、その当時は米国が「永遠の繁栄」を謳歌していた年であったから、それは当然の成り行きであったかも知れない。日ごろは慎重な態度に立つ金融界が昭和三年一〇月に金解禁断行の建議を行ったことは、そうした背景においてであった。『建議書』の冒頭には次のような文章が記載されている。

 「金輸出解禁の問題は数年に亘りて解決せられず、為めに為替相場の変動甚しく、関係当業者は一定の計画を樹つる能はず、其蒙れる損失甚大にして、延いては経済界の真正の回復を阻止する事鮮少ならず。然るに今や経済界の整理は漸次進捗し、国際収支の状況さまで不利ならず、又世界列強がみな金解禁を実行せるを以て、我国の独り変態を持続すべきにあらざるなり。但し金解禁は為替相場の平価に近づきたる時期を以て決行するを得策とすべきも、もし漫然かくの如き理想的状態を期待し、或は其他の事情を顧慮して非解禁を続行するに於ては、其影響たるやこの際解禁を断行するによりて惹起すべき影響に比し寧ろ重大なるものあり。・・・」

 金解禁の公布と世界恐慌

 昭和四年(一九二九)は、わが国の緊縮財政と金解禁の公布、さらには米国の株式市場の暴落に端を発した世界恐慌の始まりの年であった。この年の一一月下旬に日本の大蔵省は、翌昭和五年一月一一日を期して金輸出の取締りを撤廃する旨の省令を公布した。金兌換が停止せられたのは大正六年(一九一七)九月のことであったから、一三年ぶりに迎えた金本位制への復帰であった。しかし不運なことには政府の金解禁声明のあった約一か月前には、米国では一〇月下旬のいわゆる「暗黒の木曜日」にニューヨークの株式市場が暴落したことをきっかけとして、米国の好況は崩落過程に入っていた。株価暴落はいったんは持ち直したが、数日後には再び暴落を示しており、不況がどん底に達したのは、三年後の昭和七年(一九三二)から同八年にかけてのことであった。当時、最初のニューヨーク・ウォール街の暴落がその後に続く世界恐慌の前兆であるなどとは、世界の指導者は誰一人として考えていなかったこともあって、日本の措置もやむを得ないものであったとしか言い様がない。しかし時期的に誠に不運な時に日本政府が金解禁の声明を行ったことは、あたかも台風が襲来する時期に部屋の窓を全開する結果となってしまった。金の流出と激しいドル買いが引き続いて起こったために不況はさらに深刻化し、物価は下落して失業者は巷に溢れる状態となり、やがて昭和六年一二月中旬に政変が起こって、犬養毅内閣が成立して再び金輸出再禁止の手段に訴えて結末を告げることになる。わずか二年に満たない期間に、わが国は四億三、三〇〇万円の正貨を失い、金本位制度は崩壊して、その後回復されることはなく今日に至っている。

 不況下の愛媛金融界の再編成

 昭和五年(一九三〇)は全般的な経済恐慌の深刻化と、愛媛県内における銀行の再編成が一層進行した年であった。一月からは金輸出解禁が実施されていたが、三月には商品市場の大暴落があり、六月には株式市場が崩壊し、九月には大正六年以来の米価の安値が現出して、農業恐慌から全般的な経済恐慌へと事態は深刻さを増していた。大企業における生産制限があれば、中小企業には事業の破綻があり、失業者の増大と農家経済の窮迫が至る所でみられる現象となった。昭和五年の一年間で全国で破綻した会社数は八二三社に達し、減資した会社数は三一一社、解散と減資の資本額は五億八、二〇〇万円に達し、失業者数は約一〇〇万人にのぼったと伝えられている。暗い世相を反映したものか、自殺者が急増して一年間で一万三、九四二人に達していたが、一方では世相とは裏腹に町の本屋では、少年倶楽部に漫画「のらくろ」が登場し、東海道線には特急つぼめが運転されていて、社会にわずかな希望のひかりを灯し続けていた。
 このような全国的な不況の影響を受けて、愛媛県においては銀行の再編成に一層の拍車がかかってきた。一月には、八幡浜商業銀行が五反田銀行を買収し、内子銀行が減資整理を発表し、第二十九銀行が実業銀行と西南銀行を合併していた。次いで二月に入ると伊延銀行が解散を発表し、三月には八幡浜商業銀行が伊豫高山銀行を買収し、第二十九銀行はさらに吉田商業銀行を買収し、大洲銀行は伊豫長浜銀行を買収している。また四月には八幡浜商業銀行が三机銀行を買収している。五月以降はしばらくは銀行の再編成はなかったが、一二月に入ると今出銀行が休業を発表する等の出来事が起こっている。社会は企業の倒産ばかりではなくて、金融界においても不況のなかで銀行の整理が急速に進んだ年であった。眼を県外に移してみると、一〇年前には広島県内の銀行合同が実現して芸備銀行が既に営業を継続していたが、この年の一二月には、岡山県内の二大銀行が合併して中国銀行が設立されて一県一行となっていた。伊豫合同銀行の成立はこれからさらに一一年後のことになる。
 なお全国的にみると、大正一五年から昭和五年にかけての金融恐慌の時期にどれだけの銀行数が減少したかと言えば表金2―7のとおりである。
 合計すると金融恐慌時の五年間の銀行減少数は五九四行に達している。すなわち金融恐慌前には銀行数は一、五九五行あったが、金融恐慌の終わりごろにはその数は一、〇〇一行となり、約三分の一の銀行が地上から姿を消したことになった。

表金2-7 銀行数の減少

表金2-7 銀行数の減少