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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 日露戦争後の愛媛金融機関の動向

 明治末期の愛媛県の銀行統合

 日露戦争の終結は、愛媛の金融界にも影響を及ぼしていた。明治三八年(一九〇五)一〇月、南予県の銀行統合では七年前に設立した常盤銀行が経営の破綻を来たして解散の事態に立至った。また中予においては、伊豫農業銀行が五年前に設立した八束銀行を買収合併していた。これらに先立って、九月には日本銀行が広島市に出張所を開設しており、その六年後には支店に昇格することとなったが、やがて愛媛県からは、松山の地に同銀行の支店を設立することを要望する請願書が提出されるようになる。明治から大正時代にかけての出来事であった。
 次いで明治三九年九月には、第五十二銀行が栄松社を買収合併した。翌明治四〇年に入ると、戦後の反動恐慌の端緒を示すかのように、一月に東京株式市場が暴落の様相を見せた。愛媛県では新しく三月に温泉郡北条町(現北条市)に風早銀行が設立されており、一〇月には西宇和郡三机村(現瀬戸町)に三机銀行が設立されている。松山においては、一一月になると松山興産銀行が改称して仲田銀行としてスタートを切った。頭取は仲田伝之□(長に公)(じょう)包利であった。他方では、この年に本永井銀行と中山銀行が解散して愛媛の金融界から姿を消した。そろそろ隣国の韓国において抗日の勢いが高まってくるころであった。
 明治四二年(一九〇九)三月に伊藤博文が松山を訪問して、石手寺・道後温泉そして松山第二十二連隊を訪問している。第二次桂太郎内閣の閣議では七月に韓国併合の方針が決定され、同年一〇月、伊藤博文はハルビン駅頭で暗殺されるという事態が起こった。既定の方針に従って翌明治四三年八月、韓国併合に関する日韓条約が調印・公布施行されて、日本は半島の経営に積極的に乗り出すこととたった。翌四四年三月には朝鮮銀行法が公布されて、二年前に設立された韓国銀行は朝鮮銀行と改称して、新しい営業を開始した。
 一方、内地の銀行の設立は既に峠を越えていたが、その後は整理の方向へと進み始める。明治四二年には一一年前に設立された永長銀行が解散していたし、明治四三年一二月には郡中銀行が任意解散して、その債権債務を第五十二銀行が継承した。同じようにして翌四四年一〇月には第五十二銀行が砥部銀行を買収している。さらに南予では宇和島銀行が宇和島貯蓄銀行を買収する等、金融業界の整理は次第に速度を早めつつあった。このころ、東京では米価が高騰して八月には取引きを中止する事態が起きていたが、一方では国内養蚕業の発達が進んで、日本は生糸の生産高において中国を抜いて世界第一位となった年であった。
 明治四五年(一九一二)七月に明治天皇が五九歳をもって没され、嘉仁親王が践祚して御代は大正と改元した。明治の最後の年とたったこの年の二月には、御荘銀行が資本金五〇万円で設立されていた。翌大正二年(一九一三)には松山において常設の映画館が開館し、同時に松山日赤病院が開設された年でもあった。この年の二月には、岩松銀行が第二十九銀行に買収され、同じ年の一一月には東豫銀行が西条銀行に吸収合併された。顧みれば、県下において普通銀行会社の全盛期は明治三三年(一九〇〇)であった。同年末に県下に本店を置く銀行の数は全部で五〇銀行、これに銀行類似会社四社を加えると全部で五四銀行となる。その後、新しく設立された銀行があるかと思えば解散する銀行があり、あるいは他銀行に買収される銀行等があり、金融業界は幾多の変遷を繰り返しながら推移するが、一三年後の大正二年末には、普通銀行が四一銀行、銀行類似会社が三社で合計して四四銀行となり、総数では一〇行が減少した計算になる。その内訳をあげると、明治三四年以降、新しく設立された銀行数は三行であり、消滅した銀行数は一二行、銀行類似会社減少一社であって、銀行の整理が急速に進んだことが判明する。