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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 地域銀行の叢生期

 産業革命期における愛媛の産業

 不換紙幣の大整理が始まった明治一四年(一八八一)から同一八年にかけては、長い不況の期間であった。しかし、この間は不況に呻吟したばかりではなかった。明治一四年には官営の愛知紡績所が開業し、翌一五年には大阪紡績が設立され、また川島紡績所が開業している。一方では猪苗代疎水が開通し、翌一六年には東京電灯が設立され、上野・熊谷間には日本鉄道が開業した。陸上交通では既に新橋・横浜間と大阪・神戸間、及び京都・大阪間に鉄道が開通していたが、これらがやがて日本の全国鉄道網の発達につながる端緒がこの時期に始まりつつあった。さらには海上交通では明治一七年に大阪商船が開業し、神戸・伊万里線が今治と三津へ寄港するようになり、翌一八年には三菱汽船と共同運輸が合同して日本郵船を創立し、宇和島運輸がイギリスから蒸汽船を購入して大阪・宇和島間に定期航路を開く等、全国的に新しい時代の歯車が着実に動き始めていた。
 一方では、愛媛県では従来から士族授産のための養蚕や製糸業が各地に盛んであったが、これらはいずれも未だ生業の域を脱しきれないままであり、企業と呼ぶことができるまでに成長してはいなかった。企業らしい企業が見られるようになったのは、明治一九年(一八八六)の今治における綿ネルエ業の開設であったと言うことができる。その際には、機械や技術を先進地である大阪に学んだことは明らかであるが、この時期が全国的にみて長い不況期を脱して企業の勃興期に当たっていたことも興味深い。翌明治二〇年には川之石に初めて紡績会社が開設される。この地は第二十九国立銀行の創業の地でありまた営業の場所である。当然に金融のつながりが考えられてくる。また松山と高知の間には初めて予土横断道路が開通する。現在の国道三三号の前身であった。さらには松山においてわが国三番目の私鉄である伊予鉄道会社が創立され、翌二一年には株式会社組織をとり入れて松山・三津間六・四㎞に営業運転を開始した。所要時間は二八分であったと言われる。また松山大街道にはガス灯が架設される等、東京の文明はいち早く導入され開花し始めていた。他方において、紡績用の内地綿が次第に輸入物へと眼が向けられるようになり、国内の綿花栽培はこの年をピークとして漸減してくる。日本企業が外国産の安価な原料を輸入して、製品として輸出する日本型貿易のパターンはこの時期に方向づけられていた。

 種生講から卯之町銀行へ

 明治維新の前後にかけて、南予宇和島藩は、開明進取の藩主伊達宗城の気風を受けて比較的早く近代思想に目覚めていた。早飛脚の通過する山間の宿場町である卯之町もそうした影響を多分に受けていた。同地に民間の金融組織として発生した種生講は、明治八年(一八七五)には種生会社と改称していたが、同一五年には合資種生会社として新しい出発をして、資本金は三万五、〇八一円に達していた。この時に為替方を取扱うこととなり、同二〇年には全国に先駆けて不動産担保による年賦貸付けを開始した。折柄、企業勃興の時期と歩を一にして取引は一段と拡大した。
 このようにして地方の商圏の拡大に伴って金融機関の活動範囲も大きくなる。明治二四年(一八九一)には種生会社は高知県へ、あるいは大分県(三重町)へと進出する。資金を必要とする者があれば、千里の道も遠しとせずに資金を運用する者が現れる。これを仲介したのはもちろん商人であるが、当時既にかなりの遠距離と不便を乗り越えて資金の融通が行われていたことが判明する。不便な場所・遠距離の地はまた金利が高いからであった。現金の輸送には絶えず危険が伴っているが、社員で信頼できる者に現金輸送の大任を託するのである。輸送の責任をおった社員は数日の間、片時も現金を身辺から手離さない。夜は現金を胴巻に包み身体に巻きつけて横になる。八幡浜から船便で大分へ渡り、さらに街道筋を経て三重町に達する。思うはただ現金の安全のみ、やっとの思いで現金を相手先に届け、領収証を手にして初めて安堵の胸をなでおろすのであった。そこで先方から受取った証文を確かめた上で、これを懐にして帰途につくことになるが、その時ふと思い出すことは、周囲を山に囲まれた盆地の一商業中心地である大分県の三重町が、故郷の卯之町の地勢によく似ていることだった。また思うことはこの地が一〇年程前の西南戦争の折に、西郷軍の一隊がこの町に進入し、近くの高台において政府軍と戦って撤退した歴史ある場所であることだった。
 明治二六年(一八九三)には種生会社の金融活動の舞台は大分県からさらに宮崎県へと広がった。およそ商道のある所に金融道が必ず開かれるは自然の流れであって、水の流れは低きを求めておもむくが、金の流れはあくまでも高きを求めてさかのぼって行く。古今変わらぬ真理がこの地においても実現されていた。同年六月には、合資会社種生会社は株式種生会社と改称して改組を終わっていた。社長は引き続いて清水静十郎であり、資本金は一〇万円であった。その後になるが、明治四四年末の同社の状況は次のとおりであった。
  資本金高  三〇万〇、〇〇〇円
  預金高   一四万五、五二九円○二銭三厘
  貸付金高  四八万四、五一三円八九銭
  積立金高   六万四、六〇〇円
 株式種生会社はこのようにして営業を続けていたが、大正八年(一九一九)四月には株式会社卯之町銀行と改組して、ようやく近代的な商業銀行へと衣更えを実現した。当時社長清水静十郎の勧めによって監査役として入行し、翌九年に取締役となったのが末光千代太郎である。それから二八年の後に同氏が伊豫銀行の頭取になるとは当時誰も予想しなかったであろう。
 卯之町銀行が発足した二年目には、瀬戸内海を距てた広島県では、早くも県内七銀行が大合同して芸備銀行を設立していた。やがて昭和時代に入り芸備銀行は今治に、あるいは東予に。足場を築こうとしていた。
愛媛県の金融界は、これらの動きによって新しい挑戦と刺激を受けて、激しい競争を演ずる時代が訪れることになる。

 県内の私立銀行設立盛ん

 明治政府は西南戦争の勝利、不換紙幣の整理、そして日本銀行の開業と銀行条例の制定を経て、ようやく政権の基礎が安定してきた。また明治一九年(一八八六)の下半期から、全国的な企業の勃興熱を受けて愛媛県の産業界もこの風潮に乗りつつあり、産業界の発展は同時に金融機関の誕生を促す機運を生じた。その後、約一〇年間は愛媛の金融界は多くの私立銀行の開業という忙しい時期を迎える(表金1―5)。もっともその間に、明治二三年に富山県で米騒動が起こり、そのあとで株価の暴落があって一時的に経済恐慌を経験したこと等があったが、産業界では短期間の紡績操短を行う等の方法によって難局を無事に切り抜けている。日本銀行は明治一九年から兌換銀行券を発行したが、同二一年に兌換銀行条例を改正して保証準備屈伸制を採用し、将来の銀行券の発行需要に備えていた。明治二三年には早くもこの条例を適用して、兌換券制限外発行五〇〇万円を行い、さらには社会の資金需要に応じて、担保付手形割引を開始し、通貨価値の安定とあわせて資金の円滑な供給に意を用いた。
 愛媛県においては、私立銀行・銀行類似会社の設立は次のような順序で進行する。まず明治二一年一一月に八幡浜銀行が設立されたが、同じ年に豊後水道に面する愛媛の南端近く城辺町に、西南銀行の城辺支店が開店した。翌二二年六月には、大洲銀行が認可を受けて七月から営業を開始した。次いで明治二三年の銀行条例制定の年には、銀行の設立申請は無かったが、産業界では卯之町に和気製糸場、宇和島町(現宇和島市)には赤松製糸場が設立されていた。翌明治二四年の五月には、伊豫私立銀行会社同盟会の創立総会が開催されるが、この同盟会には郡中銀行・松山興産会社・八幡浜銀行・大洲銀行・宇和島銀行そして株式種生会社の五銀行会社が名を列ねていた。『伊豫私立銀行会社同盟規約』によれば同盟の目的は「本会ハ専ラ本務営業上ノ利害得失ヲ商議スル事ヲ目的トス」(第三条)と定められ、会合の場所は「定時臨時ヲ問ハズ各地輪番ヲ以テ会合ノ地トス 但シ本会ノ決議二依リテハ一時会同ノ地ヲ変換スル事アルベシ」(第三条)と決められた。また「本会ハ定式会ヲ毎年五月(注、明治三〇年五月第一〇回通常会二於テ四月ニ修正)第一土曜日二於テ開ク 臨時会ハ第一〇条二拠り便宜開会スルモノトス」(第四条)とある。同会に出席する者の資格としては「本会二臨席スヘキモノハ頭取、取締役、支配人及其ノ委任ヲ帯ビクルモノニ限ルベシ」(第五条)と定められた。幹事とその任期については「幹事ハ開催地ノ銀行会社ヲ以テス」(第七条)「幹事ノ任期ハ定式臨時ヲ問ハズ前回ノ終ヨリ次回ノ終マデトシ次回二於テ其間経歴セシ事項ヲ談会ノ終二後任幹事二渡スモノトス」(第八条)であり、会合の案内は「開会ノ報告ハ定式臨時ノ別無ク其幹事ヨリ必ズ一〇日以前議件ノ要領オヨビ其期日等ヲ報告スベシ」(第九条)と定めている。また細部にわたり「本会ノ決議ヲ要スル事件アルモ故ラニ会同ノ必要ナキモノハ回文ヲ以テ各行ノ意見ヲ問ヒ其過半数ノ同意ヲ得バ幹事ハ之ヲ本会ノ可決トシテ執行スルモノトス」(第一一条)及び「本会ノ決議ヲ以テ官府二上申ヲ為シ又ハ他二照会ヲナスハ故ラニ同盟中ノ連署ヲ要セス単二会名及幹事銀行ノ名義ヲ以テスベシ 但シ其指令回答ノ旨趣ハ直二同盟中二報告スベシ」(第一二条)と定めた。
 なお、この「伊豫私立銀行会社同盟規約」(明治二四年五月)第一〇条によれば、当時の会議がどのような方法で進められたかをしのぶことができる。

 第一〇条 本会ノ議事ハ左ノ規則二依り之ヲ整理スル事
   第一 議事二係ル一切ノ事務ハ幹事之ヲ整理ス
   第二 議事ハ同盟銀行会社半数以上ノ出席ニアラザレバ始ムルコトヲ得ズ
   第三 会員着席ノ順序ハ毎会抽籤ヲ以テ之ヲ定ムベシ
   第四 発議討論等ハ幹事二向テ陳述シ甲乙相弁論スルコトヲ得ズ
   第五 議事ハ過半数ヲ以テ決議ス 可否ノ点数ハ列場ノ人員二拘ラズ本支店モ各一員ヲ以テ之ヲ算シ若シ可否同数ナレバ幹事ノ可トスル処二拠ル
   第六 決議二因り確定セシ事件ハ各行之二従フベシ
   第七 本会二建議セント欲スル事件アラバ 会期一〇日前幹事銀行へ其議案ヲ出スベシ但シ臨時建議セント欲スル事件アルトキ八本文ノ限リニ有ラズ
   第八 議事ノ書記ハ幹事銀行ノ役員ヲシテ之二従事セシムベシ
   第九 臨時会ハ同盟中三分ノ一以上ノ同意ヲ得 其連署ヲ以テ幹事銀行へ照会スル事ヲ得ベシ

 明治二五年(一八九二)五月に入ると、東予の今治に今治融通株式会社(後の今治銀行)が設立され、翌六月には三島に東豫物産株式会社(後の伊豫三島銀行)が設立された。またこの年に越智郡一円の漆器業者が団結して桜井漆器同業組合を創立している。また中予では一二月に伊豫紡績と松山紡績が設立された。
 次いで明治二六年になると、久万町に久万山融通株式会社(後の久万銀行)が設立され、同年の三月には西宇和郡に朝屋銀行が、七月には西宇和郡喜須来村に漸成銀行がそれぞれ設立された。当時は地理的に最も近い隣国である韓国において、日本と清国との利害関係が複雑にからみあっていて、両国の関係は次第に険悪化し、次第に力による解決を求める動きが潜行していた。今治においては阿部兵助・阿部利三郎らがタオル製造を始めており、その後の同地域の主力産業となる土台はこのころに築かれつつあった。

表金1-5 愛媛県における私立銀行の推移

表金1-5 愛媛県における私立銀行の推移