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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 敗戦と商工経済会の解体

 商工経済会解散の動き

 昭和二〇年(一九四五)八月わが国は敗戦、この戦争による国富の被害総額は経済安定本部の推計によると六五三億一二、〇〇〇万円(終戦時価格換算額)という甚大な被害を被った。空襲により工場や住宅などを焼失したわが国は、まさに瀕死の状態であり、こうした中で緊急の経済再建策が打ち出されていった。
 戦時下に統制経済の中に組み込まれてきた商工経済会は、平時経済の到来とともに、新たな組織変更を必要とした。商工経済会の解体と、それにかわる新しい商業団体の創設へと進むのであるが、しかし連合軍総司令部は、占領政策に全力を注ぎ、商工会議所問題にまで手が回らない状況であった。そのため商工経済会は当面、組織はそのままにして運営方針は平時体制に対応した民主的運営方針をとることにした。
 全国商工経済会協議会では、商工経済会にかわる民主的商業団体の創設構想を練っていた。それはわが国の商業会議所の長所と、欧米の民主的な商業会議所の長所をとり入れたものであったと言われる。
 敗戦から二か月後の昭和二〇年一〇月、全国商工経済協議会の第三回定期総会で、「商工経済団体機構改革に関する意見」を決定、翌二一年一月にGHQに「商工経済団体組織の再編成に関する意見」を提出した。両者間の交渉の結果、GHQの経済科学局リーバートは、次のような覚書を出した。すなわち、
 一、商工会議所は民間の自主的設立によるべきものであり、法定すべき性質のものではない。
 二、殊に強制加入、過怠金徴収等の非民主的制度を維持し、都道府県に一律に設置すべきものではない。
 三、それ故、法律にもとづく商工会議所は認められないが、法律によらず且つ政府と一体とならない自主的な商工会議所に対しては、支持を与える。

というものであった(『東京商工会議所八十五年史』下巻、一三六ページ)。
 日本商工経済会(既にこの時、全国商工経済協議会は名称を変更)は、この覚書に従って、会員組織で任意団体である米国式商工会議所設立の準備にとりかかった。アメリカの商工会議所組織、定款その他の研究が始められ、これらを参考にして商工会議所定款例を作成し、全国の商工会議所設立の参考のために公表した。また商工省も各県に新商工会議所設立要綱を指示して、設立手続きの準備を促し、同時に商工経済会法の廃止法案の公布を予告した。

 商工経済会法の廃止

 新しい商工会議所時代を迎えることで、戦時立法の「商工経済会法」は昭和二一年九月二三日、法律第二三号「商工経済会法の廃止に関する法律案」の公布で廃止された。この廃止法律案によると、「商工経済会
法ハ之ヲ廃止スル」……附則「コノ法律施行ノ日ニ現ニ存スル商工経済会ハ、コノ法律施行ノ日ニ解散スル……」と規定されていた。