データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)
一 商工会、商法会議所から商業会議所への移行
商業会議所条例の制定
商法会議所、商工会も時代の流れの中で十分に機能することが出来なくなり官民両方から改組の声が持ち上がっていた。当時、商工会側からは、時代の要求に応えることが出来なくなっている、やはり、欧米諸国の商業会議所に匹敵するような組織をつくらねばならないという意見が出ていた。また官界も同様の考えを持っていた。事実、農商務局では欧米諸国の商業会議所(チェンバー・オフ・コンマース)組織の研究に着手しており、明治二一年一〇月には、商業会議所条例の草案が出来、明治二二年(一八八九)八月には成案が出来上がるまでに至った。時の農商務大臣井上馨は法案提出に先立って、各商工会及び商法会議所の意見を聞くために諮問会を開催、これに東京・大阪・京都・横浜・堺・長崎・名古屋・大津・福岡から代表二名が招集され参加した。農商務省内で諮問会は明治二二年九月二三日から二八日の五日間にわたり、非公開で開かれた。議事に先立ち岩村農商務次官は、参集者に対して諮問会開催趣旨を述べた。すなわち「今搬本省ニ於テ商業会議所条例ヲ制定セントスルハ、近来実業ノ進歩ニ由リ特ニ会議所ヲ改良シ有益ノ機関タラシメント欲スルモノニテ、各会議所委員ヲ招集シタルハ、此法律ヲ実地ニ適合セシメンニハ先ツ諸氏ノ意見ヲ聞キ、完全ナル規制ヲ制定セント欲スレバナリ……」。
諮問会では各条項をめぐって意見が出され、これらを参考に条例が修正された。そして出来上がった商業会議所条例が議会に提出される段階になって井上大臣が交迭され、事態は一時頓挫したが、後任に岩村通俊が就任、草案は閣議に提出された。しかし法制局が難色を示し、廃案になるかと思われた。明治二三年四月、岩村の後任陸奥宗光は、岩村案に修正を加えて再び閣議に提出したが、ここでも否決された。事態の進展を重視した東京商工会は、商業会議所条例制定促進の建議書を明治二三年八月、政府に提出、大阪商法会議所・京都商工会議所も同様の動きをみせていた。東京・大阪・京都の三会議所は、商業会議所条例の制定を急務として、全国の会議所と連合して政府に条例制定を求める一大運動を起こそうとしていた。農商務省当局においては、現在の会議所が有志商業者の集会にすぎず、組織は薄弱、自治の機能もないような私設団体を、欧米のように法律上組織された法人団体に強化しようと考えていた。
迂余曲折を経て明治二三年九月一一日、法律第八十一号を以て商業会議所条例が制定された。同条例は二十二か条から成るもので、第一条で商業者の定義がなされ、第二条で商業会議所設立手続きが定められていた。そして第三条は会議所の地区の規定がなされ、第十六条では会議所の法人格について規定がなされた。第一条では「此条例ニ商業者ト称スルハ商法第四条ニ掲ゲタル商取引ノ各部類ニ属スル商人及作業人ヲ謂フ」と規定されている。商法第四条による商業者とは、産物の交換販売・製造工業及び毛織業・人物及び物の運送・航漕・建築・銀行営業・証券業・寄託業・船舶の売買質入修繕等、取引所・保険に係る作業及び取引にたずさわる者である。ただここであげられた商人及び作業人とは個人のみを意味しているのか、それとも商事会社などを含むものなのかについて、疑問が出されていた。しかし商業会議所条例では、個人商人のみを商業会議所の構成者とみなし、法人商業者を除外するという重大な欠陥を有していた。
商業会議所の設立
商業会議所条例の制定とともに全国各地で商業会議所の設立ラッシュがみられた。明治二三年(一八九〇)一二月九日、神戸商業会議所が全国のトップを切って設立され、同月二六日には名古屋・岐阜で商業会議所の設立をみた。明治三〇年まで全国で四七か所にて商業会議所が設立されるに至った。明治年間に設立された商業会議所を一覧にしたのが表商5-4である。
商業会議所連合会
全国主要都市で商業会議所が設立されていく中、商業会議所条例の不備が問題になっていた。そのひとつに近代経済発展の上で、大きな役割を演じようとする法人商業者が除外されているという重大な不備がある。こうした問題を解決するため、全国の商業会議所は「商業会議所連合会」を結成、第一回商業会議所連合会を明治二五年九月二五日から五日間にわたって開催した。出席した商業会議所は東京・大阪・神戸をはじめ一五会議所であった。提出された議案中、重要議案に商業会議所条例の改正問題が含まれていた。商業会議所連合会の条例改正の要求もあって、明治二八年三月二七日法律第二十三号をもって会議所条例の改正が公布された。これにより法人企業にも商業会議所の会員資格が与えられ、商業会議所組織は一段と強化されることになる。しかし明治二八年の条例改正後、わが国経済の発展が目ざましく、それにつれて条例の不備・欠陥もあらわれ始めた。商業連合会は、そのため条例改正運動を行い、これが効を奏して明治三五年(一九〇二)三月二五日「商業会議所法」が公布された。同法の附則(明治三五年七月一日ヨリ施行)に従って、旧商業会議所条例によって設立された商業会議所は法人組織へと組織変更され、定款の改定を行うことになり、同時に議員・役員の改選を実施した。こうして従来の商業会議所は、新しい商業会議所として生まれ変わることになる。
松山商法会議所の解散と商業会議所空白時代
明治一五年(一八八二)に設立された松山商法会議所は、明治二二年一一月に解散した。設立以来、わずか七年という短い運命であった。解散の最大理由は、明治二三年の商業会議所条例施行に伴うものであると考えられるが、そのほかに明治二二年一二月から松山市制がしかれ、松山市の商工行政の中に、商法会議所の行ってきた事業が含まれていたこと、さらには、小林信近ら会議所役員の個人的理由から解散に至った。商法会議所解散後、商業会議所条例に基づいて松山でも商業会議所が創立されると思われたが、松山市では、全国主要都市での商業会議所設立の動きに反して設立されなかった。商業会議所が松山で設立されるのは明治三一年になってからで、商法会議所解散以来、一〇年間の空白時代があったことになる。
商業会議所空白期間中も、地方商工業の発展は目ざましいものがあった。明治二五年に松山紡績会社の設立、翌二六年、道後鉄道会社が創設され、この年、松山興産会社が松山興産銀行へと生まれ変わり、日清戦争勃発の年の二七年に松山米穀取引所の開設、二八年に道後鉄道の開通、さらには、小林信近・仲田伝之<長公>らによる電灯事業分野への進出の動き、明治二九年には松山貯蓄銀行・松山商業銀行・松山織物会社の創設がみられた。商業会議所空白時代の商工業界は、活気に満ちていたと言えるかもしれない。空白時代の明治二九年、営業税法の公布と翌三〇年一月施行に対して、全国の商工業者達から営業税の廃止・改正運動が起こり始めた。松山の地元商工業者の間からも、営業税法に対する不満の声があがり始めた。このような地元商工業者の意見を反映する機関として、商業会議所設立の動きがにわかにあがり始めることになる。
松山商業会議所設立
そして明治三〇年(一八九七)九月、松山商業会議所設立協議会が開催され、翌三一年五月会員選挙が行われる。選挙の結果、会員選挙当選者は、株式会社松山商業銀行・株式会社五十二銀行・株式会社興産銀行・伊予鉄道株式会社・松山織物株式会社・株式会社松山米穀取引所・栄松合資会社の法人七社と有力商工業者一八名、すなわち堀内熊太郎・宮崎新次郎・栗田卯三郎・山本盛信・津守虎太郎・八束喜蔵・小田喜八郎・瀬川喜七・藤岡勘左衛門・小林信近・竹田博文・木村直四郎・佐賀金吾・仲田伝之<長公>・玉井重吉・福田新十郎・世良藤蔵・大森豊次郎である。商業会議所条例に基づき設立された松山商業会議所は、農商務省から明治三一年七月二六日に正式に認可される。明治三一年八月一八日、松山公会堂で第一回商業会議所会員総会が開かれ役員の選出がなされる。初代会頭仲田伝之<長公>(先代)、副会頭木村利武・藤岡勘左衛門、常議員山本盛信・小林信近・瀬川喜七・栗田卯三郎・堀内熊太郎という陣容である。仲田は興産銀行頭取であり、木村は松山商業銀行頭取、藤岡は銀行創設、伊予絣の市場拡大、伊予鉄創業に貢献した人物である。また常議員の山本は常陽社の設立、愛媛新報の発行などにたずさわり、小林は地方産業界でつとに有名である。瀬川は松山紡績・松山織物会社の創設者として知られ、栗田は松山織物会社の初代社長である。
松山商業会議所の活動
松山商業会議所は松山市末広町に設置され、会議所内に商業・工業・理財・運輸・統計の五部が設けられた。会議所の活動も多岐に及ぶが、全国的な観点からみると、やはり営業税改正運動があげられる。松山商業会議所も全国の商業会議所と同一の歩調をとっていた。
営業税法とは、日清戦争に伴う財政支出の膨張のため政府が歳入増加策として国税の営業税を新設しようとするもので、明治二九年(一八九六)三月に制定され、翌三〇年一月をもって施行となる。商工業界は、業者間で税負担の不均衡、煩雑な課税手続、高い税率など商工業者にとって受け入れ難いものであるばかりか、且つ商工業の発達をも妨げるものであるとして、同法の改正を強く求めていた。改正運動にもかかわらず、政府は営業税法の施行に踏み切ったため、全国商業会議所の間で、営業税廃止運動が展開されることになった。しかし政府は同法を固守し続けた。商業会議所の間では依然、反対運動を展開し続けたが、政府はむしろ日露戦争勃発による戦費調達のため営業税を微増した。営業税法反対運動はその後も続くが、これと並んでもうひとつの税反対運動にも取り組んでいた。それは市街宅地租引上げ反対運動である。これは政府の明治三二年度予算編成に当たって、国庫歳入不足を所得税や酒税の引上げとともに、市街宅地租も同時に引上げることで補填しようとしたところからおこっている。松山商業会議所は、明治三一年一〇月に内閣総理大臣と大蔵大臣に対して、「市街宅地租増課を非とするの請願書」を送付している。つまりそれは商工業者が営業税を課せられ、今回、市街宅地租が課せられることになれば、商工業者は二重の租税を負うもので不理不法も甚だしいというものである。このほか衆議員選挙法の改正運動に参加し、また大阪商業会議所から出された「経済社会の回復に関する意見書」に賛同して、政府に対して財政政策の建議を行った。
松山商業会議所解散
明治三五年(一九〇二)七月一日、商業会議所法が公布されると全国の商業会議所では組織を改編していたが、松山では明治三五年九月をもって解散する方針をとった。しかし急きょ、会議所存続が決定され明治三六年三月一〇日、議員選挙候補者予選会を開催、法人・個人合わせて四〇名の候補者が決まった。商業会議所の議員選挙は三月二一日、松山公会堂で行われたが、当時、愛媛県では政友会派と憲政本党派の激しい政争が繰り広げられており、これがそのまま商業会議所選挙の中に持ち込まれた。三月二一日の商業会議所議員選挙では重複投票が行われ、当選者の中一四名が無効者となる有様で、このため不足議員四名の選挙が四月二〇日に行われることになる。四月二〇日の第二回選挙でも疑義が生じ、県当局は農商務省に調査を依頼するという由々しき事態に発展していく。第一回選挙では一八名が無効、第二回選挙では農商務省は一四名全員が無効であると断定し、ここに第三回の議員選挙が行われることになる。第三回選挙でも政友・憲政両派の対立は明らかであるため、藤岡勘左衛門は、両派から同数の候補者を立たせることによって、議員選挙を有効なものにしようとした。九月一五日の議員選挙では両派の候補者全員が当選した。当選者名は次のとおりである。井門 貞七・林 吉次郎・松山米穀株式取引所・松山織物株式会社・小田喜八郎・小笠原
薫・渡部豊三郎・柏井 龍蔵・横山寛三郎・武智 政造・田内栄三郎・長坂称三郎・村井大次郎・村上房太郎・愛媛県農工銀行・黒田此太郎・八束 喜蔵・前田竹次郎・福田新十郎・二神 数代・佐賀 喜平・桜井 瀞・木村 和市・水口 通義・宮崎新次郎・三好藤次郎・白井半吉郎・平野徳五郎・世良 藤蔵・瀬川 喜七(『海南新聞』明治三六年九月一七日付より)
第三回議員選挙のあと一〇月二一日、役員選挙が行われることになる。会頭に木村利武、副会頭に藤野漸・瀬川喜七の両名が選ばれ、常議員には八束喜蔵・田内栄三郎・宮崎新次郎・佐賀金吾・渡部太平・栗田幸次郎・大西和一郎が選出された。この陣容の中、木村利武のみが中立で、他の役員は憲政派という極めて政治色の強いものであった。政治的対立を残したまま新役員のもと、商業会議所の運営がなされるわけであるが、事実上はほとんど機能していなかったと言われている。明治三八年(一九〇五)九月の役員改選時期を間近にひかえて関係者の間から解散の声があがり始めていた。そして同三八年七月の議員総会で、「松山商業会議所解散の件」が議題として出された。解散理由は、商業会議所の存続は必要だとしながらも、現在の会議所内の政争の状態で九月の役員選挙を行うことは困難で、八月をもって解散するという内容であった。そして七月の総会で解散が承認される。
松山商業会議所解散と商工会
松山商業会議所解散のあと、これに代わる商業団体として商工会があった。商工会は明治三○年一一月に創立されていた。商工会は、商業部・工業部・理財部・運輸部・統計部の五部が置かれていた。商業部は、商業の状況・市場価格の変化とその原因調査などを究明するのを目的とする。
大正五年(一九一六)六月、松山商工会は「愛媛県商工団体連合会」を結成した。この連合会には、今治商工会・八幡浜商工会・三津浜商工会・西条商工会など県下の商工会が参加した。
商工会は私的団体で、組織面からも十分な活動は出来なかった。そのためにも、商業会議所の設立の必要がまたれるところであった。既に明治四二年一一月には、高知・高松・徳島の商業会議所で構成された「四国会議所連合会」から、松山に商業会議所を設立するようにとの勧告書が松山市勧業協会に送られていた。しかし松山では、明治四〇年ごろから県の土木計画をめぐって、進歩党と政友党が激しい政争を繰り広げていた。土木計画をめぐって井上要を中心にした進歩党は、安藤知事と政友会に激しい攻撃をかけていた。井上自身、『愛媛新報』に「安藤知事横暴史」、「続安藤知事横暴史」を執筆して徹底的攻撃を展開していた。対する政友会でも彼らの機関紙『海南新聞』に反論をのせて争っていた。このような状況で商業会議所設立を望むことは出来なかった。
大正時代に入って商業会議所設立の機運は高まりをみせる。大正六年六月六日付の『愛媛新報』には
「地方商工業の振興を図る上において又官庁の諮問機関として商業会議所の必要なることは今更云うまでもなし、さればやや商工業の発達せる都市には大抵商業会議所の設立をみる。松山市とほぼ同一の事情の下にある高松・徳島・高知の各市にも現にこれを設置しおれるにあらずや……」
として商業会議所の設立を促す記事を見ることが出来る。大正八年五月には、松山商工会総会において会議所設立の議案が提出され可決された。直ちに設立準備が進められ、大正八年(一九一九)九月一日付で、設立発起認可申請を主務省に提出する。この時の設立理由書とは次のとおりである。
「……松山市はさきに二回商業会議所を設立したるも、時利ならずして逆に解散するのやむなきに至れり。爾来松山商工 会をして専ら商工業の指導奨励をなすこととせしが、近時産業界著しく発展し、特産品たる伊予絣、竹器、陶器を主とし 各種工業遂年其産額を増加し、数年の後には予讃鉄道連絡の便開け、運輸交通機関亦面目を一新せんとするのみならず、一面に於いては欧州戦後世界の大勢一変し、産業界の益々其発展を要する機運に際会せるにより、地方の現状独り一私設団体にのみ期待すべからざるにつき、此時にあたり商業会議所を起こし、一層商工業の福利増進を図らんと欲し、吾人発起人となり、茲に設立を企つる所以なり」(『愛媛新報』大正八年九月七日付より)というものである。
松山商業会議所設立認可と混乱
大正一〇年(一九二一)一一月に設立認可を受けて、これにより議員選挙が行われることになる。しかし議員選挙をめぐって、政友会派と憲政両派の間で対立が激しくなっていた。宮崎知事は「商業会議所は商工業のことで政治ではない……この問題(議員選挙)で騒ぐのは松山の不利益である。松山人も大きな心を持ってほしい」(『愛媛新報』大正一一年二月一六日付夕刊)と談話を述べたが、これがさらに両派の対立を激しくすることになった。
既に設立認可を受けながら二年を経過しても会議所設立は未だ行われない有様だった。この異常事態は、大正一二年五月東京で開催された全国商業連合会で議題としてとり上げられ、会議所の早急な設立を要望される。
かくて大正一二年八月一三日に議員選挙が実施され、その選挙結果、当選者は次のとおりである。吉田勘次郎・神山 充穂・山本 義晴・福島忠太郎・小崎 寅吉・玉井合名会社・山田梅太郎・尾崎豊次郎・井上合名会社・関 定・田内栄三郎・垂水幾太郎・大本貞太郎・愛媛県農工銀行・山崎助次郎・伊予製氷株式会社・伊予鉄道電気株式会社・森 亮太郎・株式会社愛媛銀行・高松 岩蔵・香川熊太郎・株式会社五十二銀行・相原槌太郎・小倉長太郎・株式会社小倉薬館・桜井 清與・岸 節三郎・大森 寿吉・堀田 八郎・島村 米次郎・次点八票 松山醤油株式会社・五票 藤崎栄三郎・一票 越智常二郎(『愛媛新報』大正一二年八月一四日より)
議員選挙後の九月一日、松山商業会議所の役員選挙が行われる。その結果、会頭に仲田伝之<長公>(二代目)、副会頭に山本義晴・香川熊太郎が就任した。常議員には、田内栄三郎・垂水幾太郎・小倉長太郎・大本貞太郎・吉田勘次郎が選ばれた。また地方長官が任命する特別会員には、内務部長中野邦一・松山市長岩崎一高・松山高商校長加藤彰廉・松山商工会長桜井瀞・工業試験場長山口時之輔の六名が選ばれた。
松山商業会議所は、新役員のもと地域社会の発展のために本格的な活動を始める。大正一三年には、愛媛県商工団体連合会に加入し、第八回総会より出席をすることになる。翌一四年の第九回総会は、松山商業会議所の主催で行われ、県下商工会が一同に集まり、各商工会提出議案の審議を行った。この時の各団体提出議案は次のとおりである。
愛媛県商工団体連合会第九回総会提出議案
[各団体提出案]
議案第一号 (久万商工会提出) 現今補助貨種類区々にして不便不尠、是れが急速統一方をその筋へ建議すること
議案第二号 (郡中商工会提出) 商業税全廃案
追加議案 (郡中商工会提出) 掛売代金回収の期を一定すること
議案第三号 (郡中商工会提出) 電話区域拡張を其の筋へ請願の件
議案第四号 (八幡浜商工会提出) 印紙税法中印紙を貼用すべき書類の内、売買仕切書送状、受取書記載金額拾円以上とあるを参拾円以上と訂正あらんことを請願するの件
議案第五号 (八幡浜商工会提出) 県下に於ける電動力使用料および点灯料金を統一せしめる様各営業者に交渉の件
議案第六号 (壬生川商工会提出) 東予に商業学校の創立あらんことを本会の決議をもって知事に建議すること
議案第七号 (大洲商工会提出) 商工会を法にて認むべく、其の筋へ建議の件
議案第八号 (大洲商工会提出) 大阪松山間直通電話線開通請願の件
議案第九号 (松山商業会議所提出) 其の地方産業統計を商工団体より連合会事務所取纒めの件
議案第一〇号(松山商業会議所提出) 県営倉庫施設請願に関する件
議案第一一号(松山商業会議所提出) 貨物の船車連帯輸送速成要望の件
議案第一二号(松山商業会議所提出) 高松、松山間電話回線増設の件
議案第一三号(三津浜商工会提出) 私法人使用建物税を軽減し、尚之に対する付加税率の引き下げ又は付加制限を設けられんことを県へ陳情の件
議案第一四号(内子商工会提出) 商店より購買組合へ商品納入の場合、営業税標準価格は之れを卸売として本県下一定する様広島税務監督局に交渉の件
議案第一五号(松山商業会議所提出) 所得税及営業税調査委員の任期中において、その地区の変更(市村合併・分割等の場合)ありたる場合改選する現今法規を改正し任期中は改選せざるよう法の改正を其の筋へ建議の件
議案第一六号(松山商業会議所提出) 本連合会の機能振作上県へ相当の補助を申請する件
議案第一七号(吉田商工会提出) 貨物海産連絡速成及運賃率の統一に関し和船航海業者に交渉の件
議案第一八号(吉田商工会提出) 綿織物税全廃されんことを此際其の筋へ要望する件
議案第一九号(松山商業会議所提出) 県下適当の地に県立工業学校創立を県当局に建議する件
議案第二〇号(今治商工会提出) 今治尾道間直通電話開設の件
議案第二一号(三津浜商工会提出) 全国各地の都市に散在する愛媛県人会に照会して会員名簿を取纒之を編纂印刷して各商工会に配布すること(『松山商業会議所月報』大正一四年六月一日、第十三号 六~七ページより)
第九回総会では、商工業者に対して大きな負担となっている営業税に対して全廃するよう、大蔵大臣浜口雄幸に対して請願書を提出している。この営業税全廃に関する請願のほか、大蔵大臣に対して同時に提出された請願・建議には、補助貨統一に関する建議、所得税及び営業税調査委員任期に関する件、印紙税法中改正の件がある。商工大臣片岡直温に対しては、商工会法制定に関する建議、逓信大臣安達謙蔵に対しては、電話問題に関して請願書を提出している。このほか愛媛県知事佐竹義文に対しても、商業及び工業学校設立に関する建議などを行っている。松山商業会議所の活動を大正一三年から昭和二年にかけてみると、大正一三年の県立工業試験場移転問題がある。工業試験場を今治に移転させようとする県当局に対して、「工業試験場移転取消の儀に付陳情」という要望書を愛媛県知事佐竹義文に提出した。これより先、松山市長岩崎一高に対しても松山商業会議所は、県下の工業が多く集中する松山市に試験場が置かれるべきで、また県庁所在地でもあるところから工業試験場の松山存続は当然であるとして、工業試験場存続の懇願書を提出している。この工業試験場移転問題は、県会に議案として提出された。投票結果は、二五票対一五票で廃案となり松山存続が決まった。このほか電話・予土横断鉄道・日本銀行松山支店設置問題をはじめ多くの建議・陳情・請願運動を行っている。