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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

第三節 商店数から見た戦後商業の推移①

 敗戦直後の愛媛の商業

 終戦まもない昭和二二年(一九四七)の本県の商業についてみてみよう。商業部門(卸売業・小売業・各種物品小売業・露店商・行商・物品販売仲立業・出版業・倉庫業・不動産取引業)における事業所総数は、
一万七、〇六一事業所である。また従業員数では三万六、〇三四人であった。一事業所当たり平均従業員数は二・一人である。事業所当たり平均従業員数二・一人は、本県のすべての業種を含めた事業所当たり平均従業員数四・二人を下まわり、さらに全国平均の四・八人を下回っている。商業部門の零細性がうかがえる。
 本県の各産業部門の中で、一~四人の従業員の事業所はかなりの数に及んでいた。建設工業では、事業所総数のうち八六・六三%が一~四人の事業所であった。同じく製造工業は八〇・二六%、運輸通信業七七・
七七%であった。これらに対して商業は、九三・七九%で圧倒的に一~四人の従業者規模の事業所で占められていた。これら事業所のほとんどが、会社組織というよりも個人経営のものであった。家計と経営の未分離状態の生業店にして、小規模零細的なものであったと言えよう。商業の一万七、〇六一の事業所のうち、構成比率は、卸売業は七・八%を占め、小売業は七三%、露店行商八・四%、物品販売仲立業五・九%といった内訳である。
 昭和二七年の卸売・小売業の商店数は一万九、〇六三店で、内訳は卸売業一、八四四店、小売業一万七、二一九店である。従業者数は卸・小売あわせて四万三、二八六人、つまり卸売に八、六七八人、小売に三万四、六〇八人が従事していた。また卸売業の月間販売額は二四九万四、二二〇円、小売業のそれは一五二万〇、一五九円で合計四〇一万四、三七九円となる。

 昭和三〇年代前半

 昭和三〇年下期から昭和三二年上期にかけて、わが国は神武景気と言われた好況期を迎える。そして三二年下期から三三年下期にかけて、なべ底不況という短い不況期を経験した。この好景気時の昭和三一年度の
商店数(飲食を除く)は二万一、六二八店で、三三年は二万三、四九八店である。また従業者数では、同時期五万六、五七〇人から六万四、九六一人へと増加している。月間販売額は八九四万七、七八八円であった
。神武景気をはさんで昭和二七年と三三年を比較してみると、商店数では二三・三%、従業者数五〇・一%、月間販売額では一二○%以上の増加率を示している。ただ、しかし商店数・従業者数・月間販売額はいず
れも増加しているが、一店当たり月間販売額でみると昭和三三年は三八万円、従業者一人当たりの月間販売額では一三万円であり、一店当たり従業者数は二・七人である。一店当たり月間販売額では、昭和三一年の
全国平均八九万五、〇〇〇円を大きく下回るものであった。
 飲食店を含めた卸・小売別法人、個人別商店数を示したのが表商4-11である。法人形態の商店は卸売業に多く、小売業では個人形態をとるものが昭和三三年で九三・六%という高率を示している。小売業について示した数字から言えることは、経営規模が小規模で、生業店の性格を持ち、経営と家計が未分離という前近代的経営状況であったことである。小規模零細の特徴は、その後も長く存続し続けていく。この傾向は本県だけでなく、わが国小売業の共通の現象でもあった。
 昭和三一年(一九五六)と三三年の業種別商店数は表商4-12のとおりである。産業分類適用の変化から、各種商品小売業の大きな増加率となったが、これは例外である。これ以外で大きな増加率を示したのは、
飲食店・小売業で二一・二%の増加であった。
 昭和三一年と三三年の地域別商店数についてみてみよう。昭和三一年の商店数二万四、〇四九店のうち市部に六一・四%、一万四、七六六店が集中、残り三八・六%の九、二八三店が郡部にあった。市部では松山市に四、八八二店で全体の二〇・三%を占め、次いで今治市二、三五二店(九・八%)、新居浜市一、六五三店(六・九%)、宇和島市一、五八四店(六・六%)の順で続く。昭和三三年では商店総数二万六、四三八店のうち市部が六二・二%、つまり一万六、四四九店があり、郡部に三七・八%、九、九八九店があった。市部では松山市に五、七四三店があり全体の中でそのシェアーは二一・七%、次いで今治二、一七三(八・二%)、新居浜一、九一六(七・二%)、宇和島一、六七七(六・三%)の順であり、三一年のそれとあまり変わらない。
 一平方メートル当たり商店数でみると、県では四・七店、市部一一・七店、郡部は二・四店となっている。市部の店舗密度は郡部に比べて高いことが分かる。市部の中では今治市の店舗密度が一番高く、二九・四店であり、松山市の二八・六店を〇・八ポイント上回っている。店舗密度の最も小さい地区は上浮穴郡で、〇・八店であった。
 人口一、○○○人当たりの商店数は県でみると一七・二店で、市部で二二・三店、郡部で一二・五店となっている。市部の中では松山市が二七店で最も高く、次いで宇和島市の二五・四店、八幡浜市の二三・三店
、今治市の二二・四店の順となっている。市部・郡部の一平方メートル当たり商店数、人口一、○○○人当たり商店数を示したのが図商4-3である。
 本県の商品年間販売額は、昭和三三年七月~三四年六月についてみると一、〇九一億九、〇三四万六、〇〇〇円である。このうち卸売業が六八六億円、小売業が四〇五億円、比率では六二・九%が卸売、小売業が
三七・一%となっている。一店当たり販売額でみると卸売業は二、八六五万円、小売業は二八九万六、〇〇〇円となっている。経営形態でみると卸売・小売業の法人企業の年間販売額は、二、七九三万円であるのに
対して個人商店のそれは一五一万円である。
 地域別年間販売額を見ると市部が九四五億二、二五九万九、〇〇〇円で郡部が一四六億六、七七四万七、〇〇〇円で、前者のシェアーは八六・六%、後者は一三・四%となる。市部の中では、松山市が約四三〇億円で全体の三九・四%を占める。次いで今治市・宇和島市・新居浜市と続いている。これら市部・郡部毎に示したのが図商4-4である。
 仕入先状況をみてみよう。本県の仕入先は県内が三三・六%、県外が六六・四%であった(但しこの場合の商店数は、甲調査つまり法人組織の商店及び常用労働者を使用している飲食店を除く個人商店で、四、八
一一店についてみたものである)。県外の中では大阪が三五・九%を占め、関西依存の傾向があった。また東京を仕入先とするものはわずか四%にしかすぎない。
 業種別でみると卸売業の仕入先の中では大阪が大きなウエイトを持っている。小売業では県内仕入と大阪仕入がほぼ同じウエイトを示している(表商4-13)。

 昭和三五年から四〇年代

 昭和三一年(一九五六)の経済白書は「もはや戦後ではない」と述べ、戦後復興の時代からの脱出を告げた。三〇年代から四〇年代にかけては、技術革新などにより高度経済成長時代を生み出すことになる。投資が投資を呼ぶ時代である。また耐久消費財産業の発展、所得上昇に伴う消費の増大などから前例のない大量生産、大量消費の時代が到来した。人々の生活の隅々にまで洋風化の波が押し寄せ、電気洗濯機・電気冷蔵庫・テレビの三種の神器に加えて、電気炊飯器・電気掃除機などが家庭の中に姿を見せ始め、戦前とは全く違ったライフスタイルが生み出されていた。この意味で、昭和三五年前後を「消費革命」の時代と位置付けることも出来よう。高度経済成長過程において、戦前期におけるような身分差・職業差、さらには地域差は次第に薄くなり、消費スタイルは標準化、あるいは画一化されていくことになる。テレビ・ラジオなどのマスコミュニケーションを媒体として、企業は激しい広告宣伝を繰り返し、大衆の消費は一層促進された。他人が持てば自分もそれと同じ、あるいはそれ以上の商品を持とうとするデモンストレーション効果がみられた。まさに消費が消費を呼ぶ時代でもあったのである。
 大量生産・大量消費時代到来により、大量生産と大量消費を結びつけるスーパーの登場をみた。スーパーは大量仕入・大量販売・低価格販売を売りものとして消費者の人気を博した。そのパイオニアが価格破壊者
ダイエーであった。ダイエーに続いて三〇年代は多くのスーパー業者が登場し、小売業界にさまざまな波紋を投げかけた。近代流通革新の波の中、流通業界で一大センセーションを引き起こすことになる流通革命論
(あるいは一般に問屋無用論)が、昭和三七年に登場した。流通革命論はスーパーの発展過程の中で、小規模零細な小売店はその数を減じていき、流通経路の短縮化が引き起こされ、中間商人は排除されるであろう
という内容のものである。しかし現実は、流通革命論とは逆の方向に向かっていった。つまり小売商と卸売商は増加し続けていった。小規模零細な小売業・過多性・生業店・細くて長い流通経路・多段階性といった
日本型流通システムの特徴は、スーパーの登場によって簡単に解消されるものではなかった。
 さて昭和三五年の商店数(飲食店を含む)は二万七、六七五店、常時従業員数七万八、三二三人、年間販売額は一、二六三億六、四〇〇万円の規模であった。昭和三七年は構造不況のためか商店数は二万七、五五
八店とわずかばかり減少している。しかし常時従業者数・年間販売額については伸びをみていた。構造不況のあとオリンピック景気が生まれ、経済は再び活気を呈する。
 オリンピック景気の中、次第に不況の声が聞かれ始めた昭和四〇年前半に証券不況が発生した。しかしそれも短期で終熄し、昭和四一年からは、「いざなぎ景気」と呼ばれる長い好況時代をわが国は謳歌すること
になる。昭和四一年、本県の商店数二万九、六三二店、常時従業者数九万七、八八〇人、年間販売額三、一四三億〇、八〇〇万円である。四三年には商店数二万九、九九五店、常時従業者数一〇万一、七六〇人、年間商品販売額四、三〇七億一、九〇〇万円である。三九年のそれと比較して、昭和四三年の商店数増加率は七%、常時従業者数では一七%の増加率であり、年間商品販売額では八一・七%の増加をみた。
 地域別商店数を示したのが表商4-14・図商4-6である。昭和四一年の商店数二万九、六三二店のうち東予地区に三七・四%、中予地区に三八・九%、南予地区に二三・七%という割合で存在している。市の中では松山市が六、三九三店の商店があって、そのシェアは二一・六%と最も高い。一平方メートル当たり商店数では今治市が三七・四店と最も高く、次いで松山市の二六・三店である。店舗密度が低い地区は、上浮穴郡で一平方メートル当たり〇・九店であった。人口一、○○○人当たり店舗数では、宇和島市の二九店が最も高く、次いで今治市・川之江市・伊予三島市などが続く。
 経営組織別でみると図商4-8のとおりである。法人組織のものが一二・四%で、個人組織のものが八七・六%となっている。昭和三九年(卸・小売業商店数二万八、〇一四店)の法人組織のものが一一・二%、個人組織のものが八八・八%であったから、わずかに法人組織の商店が増え、個人組織のものが少し減少していた。しかし、いずれにしても商業の小規模零細の特徴は変わらない。これは従業者規模別商店数からもうかがえる(図商4-7)。愛媛県の場合一人から二人の従業者規模の商店が七〇・一%の高い割合を示し、三~四人の従業者数規模の商店を含めると八六%で、小規模商店の多さが目につく。
 昭和四一年の年間商品販売額は、三、一四三億〇、八〇〇万円であるが、これを地区別構成比でみると東予地区三八%(一、一九五億六、八〇〇万円)、中予地区四五・七%(一、四三七億七〇〇万円)、南予地
区一六・三%(五一〇億三、三〇〇万円)となる。市郡別でみると松山市が三八・九%と最も高く、次いで今治市・新居浜市の順となる。一店当たり年間商品販売額は、昭和四一年の県平均一、〇六〇万円であった
。県平均を上回る地区には松山市(一、九〇〇万円)、伊予三島市(一、六五〇万円)、今治市(一、六二〇万円)、宇和島市(一、三二〇万円)、新居浜市(一、二九〇万円)、八幡浜市(一、〇九〇万円)であった。その他の市及び郡部は県平均を下回るものであった。
 従業者一人当たり年間販売額では県平均が三二〇万円であった。一人当たり年間販売額では今治市が四八〇万円と最も高く、次いで伊予三島市の四七〇万円、松山市の三九〇万円、新居浜市の三六〇万円、宇和島
市の三四〇万円、伊予市の三三〇万円である。他の市・郡部は県平均を下回っていた。
 昭和四一年の年間商品販売額を業種別でみると卸売業が六一・六%、小売業が三五・六%、飲食店は二・六%という構成比である。卸売業の中で年間商品販売額の大きなものは、機械・器具卸売業・食料・飲料卸
売業・農畜産物・水産物卸売業である。小売業では飲食料品小売業・織物衣服身のまわり品小売業があげられる。
 本県の卸・小売業の仕入状況をみてみよう。対象となるのは常時従業者を使用する商店(甲調査による)五、九〇九店である。仕入総額は二、六三四億八、〇〇〇万円である。このうち三五・一%、額にして九二三億八、〇〇〇万円が県内仕入額である。そして六一・八%が県外仕入で、額にして一、六二八億七、〇〇〇万円である。残り三・一%額にして八二億二、九〇〇万円が自己製品となっている。やはり本県の状況は県外仕入が高い割合を占めている。県外仕入の中では、近畿とりわけ大阪からの仕入が大きなウエイトを持っていた。中国地域では広島からの仕入が多く、四国では香川、関東地域からの仕入は主として東京からである。このような仕入先傾向は、卸売業・小売業ともに共通していることが分かる(図商4-10)。
 高度経済成長は国民所得の上昇をもたらした。しかし重化学工業を中心にした経済活動は、公害などの社会問題をも生み出していた。昭和四五年七月には、東京で光化学スモッグの発生をみた。この年、全国で公害問題が論じられ、高度経済成長のツケが公害という形でもたらされたとも言えよう。それでも企業の設備投資は依然として旺盛であった。活発な経済活動と賃金の上昇がみられ、大衆の消費も拡大していた。わが国の高度経済成長時代も昭和四六年夏のドルショック、四八年の第一次石油危機に見舞われて終わりを告げることになる。その意味で昭和四五年という年は、高度経済成長時代から低成長時代へのひとつの分水嶺(あるいは大転換)の年とも言えよう。
 昭和四五年の本県の商店数は三万〇、五三二店である。常時従業者数一〇万六、二七〇人、年間商品販売額は五、七五九億一、〇五七万円である。昭和四三年に対して商店数は一・八%の伸びを示し、常時従業者
数では四・四%、年間販売額では三三・七%という伸び率であった。年間販売額の伸びは、高度経済成長による所得の上昇と、それによる消費の拡大に基づくものであろう。このころカラーテレビ・ルームクーラー
・乗用車など3Cブームをみた時代である。
 地域別商店数では東予地区三七・六%、中予地区三九・三%、南予地区二三・一%の構成比である。市郡別でみると松山市の二三%が最も高く、次いで今治市・新居浜市・宇和島市の順となっている。(表商4-
15・図商4-11)。商店集中度を一平方メートル当たりでみると県平均五・四店である。県平均を上回っているのは今治市の四〇・八店、松山市の二四・三店、宇和島市の一七・三店、新居浜市の一六・五店、八幡浜市
の一三・三店、川之江市の一二・一店、伊予市の一一・六店などである。郡部は県平均を下回っている。昭和四一年のそれと比べてみると、川之江市の増加に著しいものがある。昭和四五年商店総数三万五三二店を業種別でみると卸売業が八・七%を占め、その数二、六四五店である。小売業は全体の七三・四%を占め、その数二万二、四〇八店である。飲食店は一八%で五、四七九店である(図商4-12)。経営組織形態でみると卸・小売業商店総数のうち法人組織のものが一三・五%、個人経営のものが八六・五%となっている。昭和四一年のそれと比べてわずかに法人組織が増え、個人経営の商店が少し低下をみた。それでも個人経営のウエイトの高さの点では大きな変化はみられない。
 従業者規模でみると本県の場合、一~二人のパパママストア的性格の商店が六六・八%、これに三~四人の規模を含めると八四・九%となり、小規模小売業のウエイトの高さがみられる。一~四人規模の商店を地区別でみると、東予地区八五・三%、中予地区八二・九%、南予地区八七・一%となっている。
 昭和四五年の年間商品販売額は、五、七五九億一、一〇〇万円で、昭和四三年のそれが四、三〇七億一、九〇〇万円であるから、三三・七%の伸びをみたことになる。四五年の年間販売額を地区別にみると、東予
地区が二、一九九億九、二〇〇万円、中予地区が二、七五五億〇、二〇〇万円、南予地区が八〇四億一、六〇〇万円で、構成比では東予地区三八・二%、中予地区四七・八%、南予地区一三・九%となっている。東
予地区では今治市、中予地区では松山市、南予地区では宇和島市が年間販売額で高い実績を持っている。
 一店当たり年間商品販売額では、県平均一、八九〇万円となるが、東予地区は一、九二〇万円、中予地区二、三〇〇万円、南予地区一、一三〇万円で、南予地区が県平均を下回っていた。さらに東予地区で県平均
一、八九〇万円を上回ったのは今治市(二、九四〇万円)、伊予三島市(二、四九〇万円)、新居浜市(二、三七〇万円)である。中予地区では松山市(三、四三〇万円)のみで、南予地区では八幡浜市(一、九四
〇万円)のみであった。
 従業者一人当たり年間商品販売額では、県平均五四〇万円であるのに対して、東予地区・中予地区ともに五八〇万円、これに対して南予地区は三八〇万円と、やはりここでも県平均を下回る結果となっている。さ
らに市部でみると県平均五四〇万円を上回るのは、今治市・新居浜市・伊予三島市・松山市で、他の市・郡部は県平均を下回っていた。
 業種別年間商品販売額は(図商4-15)のとおりである。
 第一次石油危機による経済危機は、昭和五〇年(一九七五)になっても続いていた。こうした中、本県の商業は、どのような状況であったのかみてみよう。昭和五一年本県の商店数三万四、一四四店、従業者数一
二万五、八三一人、年間商品販売額一兆六、二六二億三、〇八三万円であった。昭和四九年の年間商品販売額は、一兆〇、七七二億七、五〇〇万円であったから五一%の増加であった。これはしかし狂乱物価を反映
しており、従って実質の増加はかなり低いものであったろう。
 昭和五一年の商店数三万四、一四四店のうち、業種別でみると卸売が三、四六一店で一〇・一%、小売が二万三、一一四店で六七・七%、飲食店が七、五六九店で二二・二%となる。本県商店数を地区別でみると
東予地区一万二、八七一店(三七・七%)、中予地区一万一、八九〇店(三五・二%)、南予地区九、三八三店(三五・二%)となる(表商4-16・図商4-16)。
 従業者規模別商店数についてみてみよう。商店数二万六、五七五店(飲食店を除く)のうち卸売業三、四六一店、小売業二万三、一一四店が分布していた。地区別分布では東予地区三八・二%、中予地区三二・九%、南予地区二八・九%である。従業者規模別商店では、一~二人の零細経営のものが六二・二%であった。昭和四一年からみると一~二人の商店は漸減傾向にある。それでも一~四人クラスの商店数の割合は八二・八%に達している。昭和五〇年段階でも、流通業における小規模零細性の特徴は消えておらず、商業の近代化にはほど遠いものがある(表商4-17)。
 年間商品販売額は昭和五一年一兆六、二六二億円であった。これを地区別でとらえると、東予地区三五・二%、金額にして五、七三四億三、四〇〇万円、中予地区四七・七%で、その額七、七五二億円、南予地区
一七・一%で額にして二、七七五億九、五〇〇万円であった。また年間商品販売額を卸売・小売・飲食の業種別でみると、卸売業が全体の五九・二%を占めてその額九、六一九億四、四〇〇万円、小売業が三七・三%を占め販売額は六七三億五、五〇〇万円、飲食店は全体売上額の三・五%を占めて五六九億三、一三〇万円であった。
 業種別年間商品販売額では卸売業では機械器具卸売業、食料・飲料卸売業、農畜産物水産物卸売業などが上位を占めていた。小売業では飲食料品小売業・その他小売業・各種商品小売業が上位を占めた(図商4-17)。
 一店当たり年間商品販売額は県平均で四、七六三万円であった。業種別では卸売業が二億七、七九三万円で、小売業が二、六二七万円である。飲食店は七五二万円であった。
 一人当たり従業者の販売額は県平均一、二九二万円である。業種別でみると卸売業三、一八八万円、小売業八四九万円である。飲食店は二三六万円であった。
 従業者数は昭和五一年一二万五、八三一人で、東予地区四万四、〇八二人(三五%)、中予地区五万二、八七九人(四二%)、南予地区二万八、八七〇人(二三%)であった。また業種別でみると卸売業に三万〇
、一七三人(二四%)、小売業七万一、五〇四人(五六・八%)、飲食店二万四、一五四人(一九・二%)が従事していた。
 本県の仕入状況は卸売業の場合県外依存度が高い。昭和五一年の卸売業の県内仕入は二九・九%、これに対して県外仕入は七〇・一%であった。中でも近畿からの仕入は三三・五%であった。また小売業では県内
仕入が五一%、県外仕入が四九%で少し県内が上回っている。県外からの仕入先は、やはり近畿からが強く、県外仕入の中で二三・六%のシェアーであった。
 昭和五一年の本県の一平方メートル当たり商店数についてみてみよう。県平均は六店で、東予地区八店、中予地区七・一店、南予は三・九店となっている。市郡別では今治市の四八・三店が最も高く、次いで松山市の三〇・四店である。次に新居浜市・宇和島市・八幡浜市がこれに続き従来と比べて変化はみられない。
 昭和四〇年(一九六五)代に本県でも大型スーパーが進出して、スーパー時代が現出した。昭和四九年のスーパー店の数は三一五店であった。また百貨店は二八店である。スーパーの年間商品売上額は六〇一億五、〇〇〇万円であったのに対して、百貨店のそれは六四四億一、六〇〇万円でまだ百貨店の売上が大きかった。しかし、昭和五一年になるとスーパーの売上高は九四五億九、七一五万円、百貨店八八一億二、九四九万円となりスーパーが百貨店を抜き、本県小売業の中で最大の小売機関となった。この年のスーパー店三四七店・百貨店二六店である。
 昭和五一年スーパー一店当たりの年間商品販売高は二億七、二六一万円である。同年の従業者総数五、二一一人で一店当たり一五人となる。他方、百貨店の一店当たりの年間商品販売額は三三億八、九五九万円で
ある。百貨店従業者総数三、九九四人で一店当たり従業者数一五三人であった。

表商4-11 本県の卸・小売別、法人・個人別商店数(飲食店を含む)

表商4-11 本県の卸・小売別、法人・個人別商店数(飲食店を含む)


表商4-12 本県の業種別商店数

表商4-12 本県の業種別商店数


図商4-3 1㎡当たり商店数と人口千人当たり商店数

図商4-3 1㎡当たり商店数と人口千人当たり商店数


図商4-4 地域別1店当たり年間販売額

図商4-4 地域別1店当たり年間販売額


表商4-13 業種別商品の仕入れ先状況(甲調査のみ)

表商4-13 業種別商品の仕入れ先状況(甲調査のみ)


図商4-5 商店数・従業員数・年間商品販売額の動向

図商4-5 商店数・従業員数・年間商品販売額の動向


表商4-14 地域別商店数 (1)

表商4-14 地域別商店数 (1)


図商4-6 市郡別商店数及び商店集中度(人口千人当たり)

図商4-6 市郡別商店数及び商店集中度(人口千人当たり)


図商4-7 商店数(除飲食店)の規模別構造

図商4-7 商店数(除飲食店)の規模別構造


図商4-8 経営組織別・卸小売別商店数

図商4-8 経営組織別・卸小売別商店数