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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 高度成長下の県下商業

 消費は美徳

 昭和二九年末の「神武景気」から、昭和四八年(一九七三)の石油ショック後の世界不況に至るまでの二〇年間、五つの好景気と四つの不況を交互に経験してきた。つまり神武景気→なべ底不況→岩戸景気→構造不況→オリンピック景気→証券不況→いざなぎ景気→円不況→インフレ景気である。この時期の不況は比較的短いものであった。そしてこの高度成長時代、実質成長率は、年平均一〇%という世界でも例のない驚くべきものであった。急速な成長過程で、労働力の第一次産業部門から第二次・第三次産業部門への移動がみられた。この現象は本県でも同様であった。表商4-6で明らかなように、昭和三〇年代から一貫して第一次産業の就業者数の減少をみた。他方、第二次・第三次産業就業者は増加傾向で今日まで来ている。
 所得の上昇に伴って大幅な消費財需要が生まれ、大量消費時代が現出するに至る。生活はアメリカナイズされ、消費は美徳であるといった風潮が支配的となり、企業もまた時代にこたえるかのように新製品をあい次いで世の中に送り出していった。

 小売業界の革新

 大量生産、大量消費の動きに対応して、流通部門でも近代化の動きがみられるようになる。昭和三二年のスーパー、ダイエーの創業は、わが国の近代的小売業と言えば、百貨店といった旧来のイメージをぬりかえるものであった。スーパーは値段の安さ・大量仕入・大量販売・低マージンを武器に消費者の関心をひきつけた。価格訴求力・薄利多売方式のスーパー経営が、この時期からわが国小売業界に広く浸透していくことになる。スーパーの躍進はめざましいものであった。昭和三五年、日本の小売企業ランキング上位一五社でみると、すべてが百貨店で占められていた。しかし一〇年後の昭和四五年には上位一五社中、ダイエー(四位)、西友ストア(五位)、ジャスコ(八位)、ニチイ(一〇位)などのスーパー七社が進出してきている。二年後の昭和四七年には、ダイエーが三、〇五二億円の売上で小売業界トップにおどり出る。ダイエー創業以来一五年目の快挙であった。ダイエーに首位を奪われた二位の三越は、創業三〇〇年目の記念すべき年での地位転落であった。
 全国各地で昭和三〇年代から四〇年代にかけてスーパー旋風をまきおこし、スーパー進出地域では、中小小売業者との争いが頻発することになる。松山ではダイエーが昭和三九年四月、松山に進出し地元商店街の
脅威となる。そして昭和四三年三月、湊町に「フジ湊町店」と「愛媛いずみ」がオープンし、同四五年一二月に「ダイエー松山店」(現千舟ショッパーズプラザ)が進出し、本格的なスーパー時代が訪れた。また四六年四月に「まつちかタウン」がオープンし、三か月後の七月、伊予鉄と大阪そごう両社は(前者が資本金七、〇〇〇万円、後者が三、〇〇〇万円の出資をして)、「いよてつそごう」を設立している。昭和四〇年代は、松山の流通業界にもこのようなスーパーや百貨店の大型店進出で、新しい流通革新の波がおし寄せてきていた(表商4-7)。なお、本県に資料としてスーパーが紹介されるのは比較的早く昭和一二年二月、『松山商工会議所所報』第一三八号に研究資料「小売配給組織としてのスーパーマーケットに就いて」と題して紹介されている。これはM・M・ジムマーマン(Zimmerman)のスーパーマーケットに関する文献を訳出・掲載したものであった。

 地元商店街と大型店進出

 昭和四〇年代、松山に大型店進出をみる以前について少しみてみよう。大型店進出以前の松山で唯一の近代小売店といえば三越松山支店であろう。松山の小売業の多くは、就業者四人以下の小規模零細小売商である。昭和三三年七月現在、松山市の商店数五、七六二店のうち、就業者四人以下の商店数四、六八六店で全体の八一%を占めていた。また四人以下の商店の一店当たり販売額は一三万八、〇〇〇円、就業者一人当たり販売額では七万円の規模である。これに対して就業者五〇人以上の商店数は、わずか一八店で全体の中で〇・三%を占めるにすぎないが、販売総額では八億八、五二九万五、〇〇〇円、一店当たり販売額では四、九一八万三、〇〇〇円、就業者一人当たり販売額五七万六、〇〇〇円で、四人以下の商店のそれと比べて大きな開きがあった。表商4-8から分かるように松山市の小売業界の特徴は、多数の小規模零細小売商の存在であろう。
 表商4-10は松山市における小学校区別に商店数と従業者数を示したものである。当然ながら本庁区では、湊町・大街道商店街とその周辺地区を持つ番町・東雲校区に商店数と従業者数が多くなっている。三津浜地区でも三津浜商店街を持つ校区は、商店数・従業者数ともに大きい数となっている。
 松山市内主要商店街の店の種類を示したのが表商4-9である。
 昭和三〇年代は、松山小売業界は比較的穏やかな経営環境にあった。しかし、東京・大阪などの都市圏では、「経済の暗黒大陸」と言われていた流通分野、特に小売業部門において、ダイエーなどのスーパー登場
によって流通革命旋風が巻き起こっていた。革新の波は、やがて松山にもおし寄せてくることになる。 昭和三九年四月一八日、松山市大街道に年間一〇億円の売上げを目ざす主婦の店ダイエーが企業進出してくる
。売り場面積一、一〇〇平方対で取扱い商品は、食料品・衣料品・化粧品・日用雑貨から成る。商品構成比でみると食料品五〇%、衣料品三〇%、化粧品・日用雑貨二〇%となっていた。地元商店街では、ダイエーの企業進出により顧客を奪われるといった危機感と、他方では客が集まることで今以上に地元商店の売り上げを伸ばすことができるという楽観的立場の商店もあった。
 ダイエーは昭和四四年に全国で一、〇〇〇億円を超す売上げ高を実現、その翌年の四五年に松山に第二の出店を行う。千舟ショパーズプラザがそれで、その商圏は北条市・温泉郡・伊予市・砥部町・松前町の広範囲なものであり、世帯数にして一五万二、〇〇〇世帯、人口数にして四九万七、〇〇〇人に及ぶものである。その推定年間消費支出額は九八七億円の規模であり、ダイエーは、このうちの四%、四一億円を初年度売上目標額にしていた。
 地元商店街は、昭和四三年三月「いづみ松山店」、「フジ松山店」、翌四月の「ニチイ」の進出で危機意識を強く抱いていた。これら進出店の年間目標売上高あわせて四七億円は、既存商店街にとって大きな脅威
となっていた(ちなみに昭和四一年の松山市衣料小売七六億円である)。その矢先、年商四一億円を目標にしたダイエーの企業進出である。かつての安定した松山の小売業界は、昭和四〇年代になってにわかに戦国時代の様相を呈してくる。

 大型店ラッシュと地元商店街

 湊町四丁目に出店した「フジ松山店」と、一番町に出店した「いづみ」はともに広島資本の大型店である。フジは広島の総合衣料問屋である「十和」の支店として松山に進出してきたものであり、いづみは広島最大の大型量販店いづみの支店として松山に姿を見せた。いづみは昭和四一年現在、わが国量販店ランキング四二位、売上高三四億円の企業(店舗数は二店舗)であった。
 フジは地上五階建の全館完成にさきがけて、衣料品部門をはじめとする三階までを三月一七日にオープンした。当時、同店はキャッチフレーズ、「衣料品の価格革命の新時代」、「衣料品の花ひらく、松山銀天街
の新名所!」で消費者に訴えかけていた。いづみは地下一階、地上六階の大型店として大街道にオープン、「大街道で降りましょう」を松山の新しい合言葉にして打ち出していた。同店の当時の広告には、「大街道
が松山一のショッピングセンターに生まれ変わり、最高級品・専門品なんでも品揃えされ消費者の必要に応えられる、しかもいづみには有名店も入っており、方々を歩くより時間も少なくて思いのままの品が選べる
」とワン・ストップ・ショッピングの楽しさ、便利さが強調されている。
 豊富な品揃え・低価格販売・買い物時間の節約など多くのメリットを売りものにしたスーパーも、その規模においては、まさに百貨店なみのものであった。消費者に平均市価の一五~二〇%安の価格訴求での商品
販売を目ざすフジ・いづみ両店の売上目標額は、前者が一五億円、後者が一七億円であった。両店あわせて三二億円の売上目標額は、昭和四二年の三越松山支店の売上高四〇億円に迫るものであった。
 フジ・いづみの出店に対して、当時の地元商店四五〇店のうち凡そ半分の店が何らかの不安感を持っていたと言われる。地元の危機意識の中、フジは「松山には中級の実用衣料が少なく、衣料品の市価も高いようである」と述べ、同社は、消費者のために大量仕入れで安く商品を販売することを明らかにした。また、いづみは、「地元商店街との共存共栄を目ざすものである。松山の潜在購買力は大きく、我々は消費者の立場に立って安い商品・目玉商品の販売につとめる」と語っている。フジ・いづみ・ニチイの新しいタイプの店の出店は、市民の関心を当然呼ぶところとなる。フジの開店初日には早くから多数の市民が押し寄せ、同店はそのため午前八時半に開店をする有様で、その時には店頭は三、〇〇〇人近くで混雑していた。翌日の松山いづみの開店初日には、約七、〇〇〇人近くの買い物客が殺到し四〇〇メートルの行列ができるほどであった。このように多数の買い物客が押し寄せたのは、群集心理も少なからず働いていたにせよ、やはり低価格販売を売りものにする新しい小売形態のスーパーに対する消費者の期待のあらわれであったと言えよう。
 スーパー進出に伴う地元商店街との間での流通戦争について、記録された資料はほとんどなく、唯一の記録資料と思われる『松山商工会議所百年史』を手がかりに述べてみよう。
 大型スーパー三店の攻勢に対して地元商店街は、松山市商店街連盟・月賦七団体などから成る「疑似百貨店対策協議会」を昭和四三年五月一二日に結成するに至る。同協議会の目的は、大型店フジ・いづみ・ニチ
イの開店以来、不当表示・過大広告が目立ち、これら大型店が定休日を地元商店街のそれにあわせないことなどもあって、既存商店に影響を及ぼしており、大型店に正当なルールに乗った経営を求めようとするとこ
ろにあった。そして同年八月、商店連盟と共同主催で「危機突破中小商業者総決起松山大会」を開催し、自らの体質改善につとめると同時に流通秩序を破壊する疑似百貨店と対決するという方針を決議した。これよ
り先、松山疑似百貨店対策協議会は松山に進出してきた大型店は売り場面積や営業方法で百貨店法に違反しているとして、市内小売業者二、〇〇〇人の署名を持って通産省に陳情した。これを受けて同年一二月二日、通産省の調査団が来松して、調査に乗り出す。調査の結果、調査団は松山商工会議所が地元商店街と大型店の間に入って、話し合いの場を設けることが望ましいと表明した。

 松山商工会議所の調整活動

 松山商工会議所は、地元商店街と大型店三店の間に入って調整活動に当たった。調整会議には地元商店側から代表として、疑似百貨店対策協議会長作道英一ほか副会長二人が出席し、フジ側からは尾山謙造社長、
いづみから山西義政社長、ニチイからは小林敏峰社長らが出席、さらにオブザーバーとして、県の商工労働部長・松山市商工課長が出席している。調整会議で地元商店街とフジ・いづみ・ニチイの三店は「お互いに
共存共栄をはかり、消費者サービスにつとめる」という基本方針のもとに覚え書きを交わすところまでに至る。
 調整会議では、通産省から通達のあった疑似百貨店に関する五項目の指導方針について、大型店側の合意をとりつけることに成功した。五項目指導方針とは、(一)各出店者の商号もしくは商標・包装紙または店
員の服装は相互にまぎらわしくないこと。(二)各出店者の店舗は階を別にするか明確な間仕切りを設けるとともに各店舗には出店者名を明確に表示すること。(三)建て物外部の店名等の看板、ネオンサイン等に
は各出店名または出店者名の親会社等の名称をいずれともまぎらわしくない名称を表示するか、各出店者を店舗床面積に応じて表示すること。(四)各出店者は商品のシール等に自らの商号または商標を明瞭に表示
するとともに、他の出店者の商品を自己のレジで受け付けないこと。(五)広告、宣伝等は各店主または出店者の親会社等のいずれともまぎらわしくない名義で行うか、各出店者の共同の名義で行うこと(松山商工会議所、『松山商工会議所百年史』昭和五七年、三六四-三六五ページ)。
 地元商店街はスーパー側から五項目の合意をとりつけたほか、昭和四四年一月から金曜日休日の採用、軒下販売の自しゅく、午後七時を閉店時刻にするなどの点においても和解が成立した。

 百貨店法をめぐる対立

 松山商工会議所の調整活動によって地元商店街とフジ・いづみ・ニチイのスーパーの両者の問題がすべて円満解決に至ったというものではなかった。すなわち両者の間には、百貨店法の解釈をめぐって厳しい対立
が続いていた。百貨店法では同一店舗の床面積合計が、一、五〇〇平方メートル以上のものを含む物品販売業を百貨店業と規定し、百貨店ということになれば当然、閉店時刻・休業日について規制されることになり、ま
た店舗の新増設や合併について通産大臣の許可が必要とされた。地元商店街では、店舗面積が一、五〇〇平方メートルを超える店は百貨店法の営業許可を受けよと強く主張している。対してスーパー側は、合法的に独立
した数店が営業しているわけだから、百貨店法にはなんら違反するものではないと反論していた。当時、わが国のスーパー業界では、店舗の大規模化を行う上で百貨店法が大きな障害となっていた。そこでスーパー
業界は、百貨店法が企業単位の取締りであるところに着目、これをさけるようにして、同一建物内の売場を複数の法人に分けて法の適用からうまく逃れることとなった。そのため百貨店法は事実上、無力化してしま
った。このため政府は建物単位で規制をする大店法、正式には「大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律」を昭和四八年一〇月に制定した。同法は同一建物内の小売業を営む店舗面積一、五〇
〇平方メートル以上を規制対象とし、対象の中には百貨店・スーパーのほかショッピングセンターなども法の適用を受けることになった。その後、全国各地で一、五〇〇平方メートル以下の小売店舗の進出と、地元商店街と
の紛争が発生し始めたことから政府は大店法を改正して、対象面積を五〇〇平方メートルにまで引下げた。五〇〇平方メートルから一、五〇〇平方メートル未満の店舗を第二種大規模小売店舗、一、五〇〇メートル以上のものを第一種大規模小売店舗とした(図商4-1参照)。大店法による変更勧告・命令は、①店舗面積の削減、②開店日の延期、③閉店時刻、④休業日数の四項目について出されるものである。しかし現実はかなり複雑な利害関係が絡んでいるため、地元商店街と大型店との両者の対立は簡単には解決されるものではなかった。
 今、述べたように百貨店法は、やがて大規模小売店舗法へと姿を変えていくのであるが、昭和四〇年代半ばの松山における地元商店街と、スーパー三社の百貨店法をめぐっての対立関係は続いていた。通産省もこの両者の対立関係を前にして、店舗面積一、五〇〇平方メートル以上の店は、できるだけ百貨店法の営業許可を受けるように、といった消極的な意見を表明するにすぎなかった。

 ダイエーの進出と地元商店街

 価格破壊者ダイエーの小売業界における躍進は、数多くの中小のスーパーの登場を促すことになった。しかし、中小スーパーの中には、過剰投資や乱売によって倒産していくものも少なくなかった。こうした動きを世間では、スーと現れ、パーと消えるからスーパーだと言った。
 松山でフジ・いづみ・ニチイの大型店出店問題のあと、しばらく小康状態に入ったのもつかの間、昭和四四年(一九六九)八月、三越は松山店の増改築計画を発表、その翌月九月には伊予鉄が百貨店新設を明らか
にして、地元商店街に大きな波紋を呼んだ。そのわずか二か月後の一一月二七日、松山を訪れていた主婦の店ダイエーの中内功社長は、松山市千舟町四丁目に出店を計画していると発表した。このダイエー第二店進
出に備えて、直ちに地元商店とダイエー代表による「流通問題懇談会」が設立されることになった。
 地元既存商店街にとって、ロスリーダー(おとり商品)・低価格販売・大規模な広告宣伝で、消費者を吸引しようとする本格的なスーパーダイエーの登場は死活問題であった。
 ダイエー中内社長の千舟町出店構想によると、四五年二月工事に着工して、同年一〇月に開店予定、売り場面積約四、〇〇〇平方メートル、月商約二億円を目ざすというものであった。
 流通問題懇談会の第一回会合が昭和四五年二月六日に開かれた。この会合でダイエー側は中内社長の出店構想を上回る計画を発表した。つまり新店舗は地下一階・地上七階、売り場面積六、六〇〇平方メートルという
内容である。しかし、この構想は第二回流通懇で再び修正され、地下一階・地上八階、店舗面積九、七九五平方メートル、月商三億八、○○○万円であると発表された。ダイエー側の出店計画の拡大化に対して、地元商
店側は危機意識を高めていった。地元商店街は、ダイエーの計画で営業が行われれば、その影響は甚大であるとして、ダイエー側に対して百貨店法による営業許可を申請するように申し入れた。また松山商工会議所
・松山商店街近代化協議会代表らは、通産省に対してもダイエーの千舟町店は実質上百貨店であり、百貨店法による営業許可申請を出させるよう行政指導を求めた。しかしダイエー中内社長は、地元商店街の百貨店
法その他の要望を拒否、「時代は世界経済自由化の方向で流れているので、松山だけが例外ではない」と語った。だが地元との対立関係を解消するため、ダイエー側は松山商工会議所に仲裁を要請している。商工会
議所の仲裁活動によって、昭和四五年五月になって地元側とダイエー側で合意に達するに至った。ここに協定書が交わされることになる。協定書の宇での具体的取決め事項は、(一)売り場面積について、ダイエー
は現在県に提出している建築設計書による地上八階建ての内、地上六階(地下一階)を売り場面積とする。(二)ダイエーは将来、七階・八階を売り場に使用する必要が生じたときは松山商工会議所の了承を得ずに
は使用しない。(三)株式会社ダイエーと松山商店街近代化協議会とは、今後相互理解に努め共存共栄に努力すること(松山商工会議所『松山商工会議所百年史』、昭和五七年三七二ページ)。七・八階凍結については、昭和四六年七月ダイエー側から七階を売り場、八階を食堂に利用したいとの申し入れがあり、松山商工会議所は、これを受けて協議会を開き四七年五月にダイエー側の申し入れに合意、あわせて休日問題に
ついても合意を得ることになった。昭和四五年(一九七〇)二月四日、ダイエー千舟町店がオープンした。取扱い商品は、食料品・衣料品・日用品・家電商品・家具など広範な商品部門から成っていた。師走の時期
の開店であったため、市内の商戦は過熱化の様相を呈した。ダイエーの商圏は市外をも含み、市外の商店街にも客足の減少を懸念させることになった。既存商店街の不安をよそに、ダイエーのオープン日には、午前
七時ごろから買い物客が殺到し、午前一〇時には約四、〇〇〇人が千舟町に行列をなす人気を呼んだ。既存商店街では、このころ、明治以来のL字型の商店街(湊町-大街道)も、千舟町の登場により変化が生じる
であろうと予想する動きもみられた。人の流れで言えば、従来の市駅-湊町銀店街-大街道から市駅-千舟町-大街道へと流れが変わるであろうというものである。

 三越の増築といよてつそごうの誕生

 松山における中心商店街の売り場面積合計約二万七、〇〇〇平方メートル、量販店のそれが一万三、二〇〇平方メートルで合計四万〇、二〇〇平方メートルであった。これにダイエーの千舟町が加わって、一挙に売り場面積が
増加することになる。売り場面積拡大化は、昭和四六年、松山市駅前地下街(売り場面積一、八〇〇平方メートル)、三越の増築(七、六〇〇平方メートル)、いよてつそごうの出店予定(九、六〇〇平方メートル)などでさ
らに激しさを増すことになり、地元商店街にとっては苦しい経営環境が予想された。
 三越松山支店は、昭和四四年八月一二日に四六年一月完成をめざして、現社屋の五五%をこわして地下二階・地上八階、延べ面積一万九、〇〇〇平方メートルの百貨店増改築計画を発表した。総工費二〇億円の事業計画である。他方、伊予鉄は地下一階・地上七階、総面積三万九、三六〇平方メートルのビルを建設、そのうちの三万五、七〇〇平方メートルを百貨店として利用することを発表した。三越の年商目標額は八〇億、伊予鉄のそれが八四億、あわせて一六四億円の年商規模は、地元商業界に大きな危機意識を抱かせることになる。
 松山商工会議所は、百貨店の増改築・新設による既存商店街への影響を考慮して、商業活動調整協議会を発足させた。協議会委員には、学識経験者・百貨店経営者・購買会経営者・卸売商業・小売商業・消費者・
地元公共団体商工会議所役員・参与(四国通産局・県庁・松山市役所)ら二〇名の委員で構成された。調整活動はかなり難航した。消費者代表は百貨店の計画が実現すれば今以上に商品選択の機会が与えられ、ショ
ッピングの楽しさも増すとして百貨店を支持する態度を打ち出した。商店側はフジ・いづみ・ニチイの三店の年間売上額四四億円に加え、三越・伊予鉄の計画通りでの百貨店営業が行われるならば、商店街の受ける打撃は重大なものであると主張した。これに対して百貨店側は伊予鉄が市駅、三越が大街道で商業活動の核となれば、当然地元商店街にも客が押しよせることになり、商店街にも利益はもたらされるはずだと波及効果を強調した。
 地元側と百貨店側の厳しい対立も協議をかさねていく過程で歩みよりが生まれた。最終的には三越七、六一三平方メートル、伊予鉄百貨店九、五九九平方メートルの売り場面積で、前者が四六年一〇月、後者が四六年九月
に開店という形で、四四年一二月一九日通産大臣に答申されている。ただ伊予鉄百貨店は四五年五月、大阪そごうデパートと共同出資で営業を開始することを発表、名称も「いよてつそごう」と変更された。また両百貨店は、営業開始時期を三越は六月、いよてつそごうは七月に繰り上げ地元の合意を得た。

 まつちかタウン

 三越の拡張・いよてつそごうの開店に先立つ昭和四六年四月一日、四国で最初の地下商店街「まつちかタウン」が完成した。これは市駅前・いよてつそごう・銀天街を結びつけるものであり、新しい商業集積地区の誕生を意味していた。まつちかタウン構想は、昭和四〇年ごろから地元関係者の間でねられていた。ただ最初の計画では、市駅と湊町を歩行者用横断陸橋で結ぶというものであったが、計画が具体化していく過程で地下道の選択がなされたのである。昭和四一年三月、「松山市駅前地下商店街期成同盟会」が結成される。ここで「松山市駅前開発株式会社」の設立が決められ、昭和四四年四月、設立総会が開かれ会社設立へと至る。ここに地下街の建設工事が始まる。総工費七億八、〇〇〇万円、地下街面積四、四〇〇平方メートル、テナント面積一、五〇〇平方メートル、テナント数三六店といった規模のものである。当初の計画に比べて縮小されたものの、新しい商業集積地区の誕生であり、市民の間では高い関心を呼んだ。

表商4-6 愛媛県における産業別就業者数

表商4-6 愛媛県における産業別就業者数


表商4-7 松山市における大型店

表商4-7 松山市における大型店


表商4-8 松山市の規模別構造および売上高状況

表商4-8 松山市の規模別構造および売上高状況


表商4-9 松山市の主な商店街の店の種類

表商4-9 松山市の主な商店街の店の種類


表商4-10松山市地区別商店数・従業者数

表商4-10松山市地区別商店数・従業者数


図商4-1 商業活動調整の仕組み

図商4-1 商業活動調整の仕組み