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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 昭和二〇年代の経済状況

 敗戦後の社会の混乱

戦況の悪化につれ、わが国は軍需物資の枯渇・食糧の不足に直面していた。というのも連合軍により海上輸送ルートは断たれ、外地からの食糧・軍需用資源の輸入が妨げられたためである。しかも限られた船舶を食糧輸送、兵器輸送のどちらに当てるかという配船上の問題が常につきまとっていた。
 国内では外地米の流入の減少傾向の中で食糧増産を迫られ、代替食の増産に重点がおかれる。食糧事情の悪化に伴い国民の栄養摂取率は、昭和一六年(一九四一)の二、一〇五カロリー(必要量の九八%)から同二〇年には、一、七九三カロリー(必要量の八三%)へと低下している。戦争末期は国民全体が餓死の一歩手前にあったと言えよう。人々は空襲と食糧買出しで疲れきり、戦略物資である石油は、枯渇した松根油を代替エネルギーとする有様で、もう勝敗は決まったようなものであった。ただ大本営発表だけが勇ましく「転戦」、「転進」、「玉砕」と国民に戦況を報じていた。しかし兵士の間では実際の戦況を前にして、「日本の軍隊、夜店のバナナ、買(勝)った、買(勝)ったと、ま(負)けてゆく」(古茂田信男編、『日本流行歌史』 戦前編より)といった自棄半分の歌が歌われていた。もう敗戦も時間の問題となっていたのである。
 昭和二〇年(一九四五)八月一五日、わが国は連合国に降伏、新しい時代へ向けてのスタートがここに始まる。戦争による人的・物的損失は甚大なものであった。わが国船舶の八〇%が海の藻屑と消え、工業用機
械器具の三四%が鉄クズに、都市住宅の三三%が灰となった。当時の経済安定本部の試算によれば、太平洋戦争による国富の消失四分の一、敗戦時の額にして六四〇億円を上回るものであった。この惨たんなる状況の中、復興の動きが始まり、一〇年後には高度経済成長時代を現出するまでに至るのである。今、わが国の経済の歩みをみると、第一期、昭和二〇年代の戦後復興期、第二期・昭和三〇年代から四〇年代半ばにかけての高度成長期、第三期・四〇年代半ばから五〇年代へ続く安定成長期に大別できよう。またわが国の力強い経済の歩みと、各時代の経済課題
は経済白書のサブタイトルから読みとることもできる。
 敗戦後、平時経済に戻っても戦時経済の影響は強く影を落としていた。軍需生産の停止に伴う離職者や復員・海外引揚げ者に対する雇用機会の創出が問題となった。かなりの人々が農業部門に吸収されたり、露店商などの商業に吸収されたのではないだろうか。
 戦前愛媛県の人口は、昭和一五年一一七万八、七〇〇人であったが、敗戦の年昭和二〇年一一月、一三六万〇、九〇〇人、翌二一年、一三八万〇、七〇〇人に、さらに同二五年一五二万人に増加している。明らか
に本県人口の増加が、人口の自然増加によるよりも急激な人口流入に基づいていたことが分かる。もちろん失業者の数も多く、昭和二一年四月現在、松山市には五万人以上の失業者がいたとされる。
 戦争による農地の荒廃、急激な人口増加などから過度な食糧不足をもたらし、大量餓死の恐れがもらわれたが、アメリカの緊急食糧放出でなんとか助けられることになる。それでも大衆の空腹感はなくならなかっ
た。しかも驚くほどのインフレーション、大衆は戦中とはまた異なった生活の苦しさを経験させられ、ヤミ市だけが繁栄していた。
 食糧事情についてみてみよう。米の配給は都会では遅配・欠配しがちであったが、地方ではその傾向は更に悪化する傾向にあった。昭和二〇年一一月一五日から本県では、大人一日の主食配給量を二合三勺に増や
されたにもかかわらず、配給の欠配が目立っていた。喜多郡自瀧村では二合一勺の配給すら行われていない有様であった。この村の人の『愛媛新聞』への投書(昭和二〇年一二月二二日)から食糧事情をみてみよう
。内容はこうである。「十五日分の主食として米、麦のほか三人家族で藷十二貫の配給を受けて二合一勺の率になるが、配給日に貰うのは僅か米麦のみで藷は供出の遅れから配給の見透しはつかないということである。今月の場合、去る五日が配給日であったものの藷は期日を過ぎること約二週間、一八日に配給量の半分六貫を受けとるにすぎなかった。残り六貫の配給見透しは判らない。第二回の配給日にも藷は全然配給されず、結局、二合一勺の配給量は事実上、行われていない」という不満の声である。この投稿者は続けて「供給遅れの藷を貰うまでの間を生きてゆこうとすれば一日二回の粥食すら毎日つづけられないのである。先月は闇買の藷で急場を凌いだ。……こうした食生活の結果、私は発病し、欠勤二〇日に及んだし、妻は未だに栄養失調的症状に悩んでいる」と生活の苦しさを訴えている。農村地域にしてこの有様である。大衆は生きるために高い食糧をヤミ市で買わざるを得なかった。買える人はまだましだった。「松山市のヤミ市では一杯四円のぞう煮を三人の子供がすすりあうのを、母親がやつれた姿で見守っている」というなんとも悲しい光景がみられ、この敗戦の年も「灰色の空と、ため息の中に暮れていく、焼け野が原の松山にできた店には歳暮色の光彩もなく、正月用の食品等も入荷難らしい。この頃多いのはヤミ市と犯罪事件。……夜ともなれば師走の街はバッタリと人足がとだえ、空ッ風が吹いているばかり。……昭和二〇年の冬は、書店の店頭に、来るべき〝昭和二十一年
〟の日記も新年号の雑誌も未だ出ないままに寒く冷たく暮れて行く」(客野澄博著、明治百年歴史の証言台、昭和四二年より)と当時の街の様子を『愛媛新聞』は伝えている。

 物不足と物価上昇

 食糧をはじめ多くの物不足は、直ちに商品価格の騰貴につながった。米についてみると、農業の不作が食糧難と米価の騰貴につながっている。昭和二〇年夏の冷害と秋の風水害に加えて、戦時中における農地への肥料投入不足から全国的な収穫量の減少をみた。本県では昭和二〇年の来の収穫量は、四四万五、五〇〇石で前年より三二万石以上の収穫量の減少である。米の供給不足に加えて、同二〇年一一月に生鮮食品価格統制撤廃がなされ、生鮮食糧品価格と米との間に大きな価格差を生んだ。米一斗が魚一尾と言われるほどで、米一斗を一五円としても一〇〇匁の魚一匹も買えない有様である。また県外・県内の悪質ブローカーの
買い出し、価格操作がまた食糧需給関係を著しく乱していた。
 一四〇万県民の生命を左右するものは農家の米の供出如何にかかっていた。しかし米の供出は遅々として進まず、上浮穴郡・西宇和郡・北宇和郡・南宇和郡・宇和島・八幡浜・新居浜市では昭和二〇年一二月現在
調べでゼロ%であった。全体的に米の供出率は悪く、全県供出率は九・七%である。これに対して生甘藷の全県供出率は四九・九%である(表商4-2参照)。米の供出率の悪さの理由のひとつに、阪神方面からの
闇の買い付けの動きを指摘できる。

 ヤミ屋の繁昌と新円切換え

 物がなくてもヤミ市場に行けば、お金さえ出せば必要なものは手に入れることができた。ヤミ市場は戦後焼け野原の中、瞬く間にあらわれ、連日、買う者も買わない者も大勢押し寄せて賑わった。宇和島の町では
内港付近に一二軒あまりのヤミ市があらわれ、一般市場に出回らない商品がここでは販売され、値段は高いが連日、羽根が生えたような勢いで売れていたとは『愛媛新聞』の伝えるところである。ヤミ商人の中には
、一日で、四〇〇~五〇〇円の売上げをする者もあらわれ、大変なボロ儲けぶりであった。ヤミ商人の中には関西方面から流れて来た者が多く、彼らの商い期間は大体五日間ぐらいの短斯間であった。同じ場所で商売をしていると同業者が増え、商品価格の低下、利益率の低下へとつながるからである。こうしてヤミ商人はボロい儲け口を求めて場所を移動していくのである。昭和二〇年師走の宇和島ヤミ市の商品価格をみると、包丁五円、障子紙五〇枚一五円、弁当箱(アルマイト)一五円、フライパン六寸物一四円、ハサミ三円であった。
 昭和二〇年秋、公定価格の撤廃が実施されたが、物が極度に不足している時期であったため、生鮮食糧品をはじめ他の日用品までが便乗値上げをする始末である。同年師走の松山では、人参一貫が二〇円、大根一
貫八円という高値で、しかも物価の騰貴は日に日に激しくなっていた。ヤミ値はマル公の三〇~四〇倍に騰貴し、市民はそれでも生活のため限られた給与・貯金・財産の処分・質入れをしてでも必需品を買おうとし
た。
 昭和二〇年敗戦とともに市民は悪性インフレに悩まされ、当局が取引の防止、食糧供出の促進を叫んでみたところで、どうにもならない状況にあった。ここに政府は抜本的な物価対策を迫られ、時の大蔵大臣渋沢
敬三は、昭和二一年二月一七日「国民各位ニ訴フ」という大臣声明を出し、悪性インフレを終熄させるために重大措置を断行することを明らかにした。つまり

 「……食糧緊急対策等ニ呼応シ国民ガ米麦及生鮮食料品等ノ供出及増産ニ積極的ニ尽力スルコトヲ期待シツツ過剰購買力ノ主要源泉タル既存ノ現金及預金等ノ封鎖ヲ行フト共ニ物価ノ安定ト新物価体系ノ形成ニ凡
ユル努カヲ傾注スル……現行ノ十円以上ノ日本銀行券ハ之ヲ来ル三月七日迄ニ総テ封鎖預金等ニ預入セシメテ、全面的ニ封鎖スルコトトシ唯僅少ナル一定金額ノミヲ限ッテ新券ニ依ル引換ヲ認メルコトトシクノデア
ルガ、此ノコトハ『インフレーション』ノ進行ヲ顕著ニ食ヒ止メル為多大ノ効果ヲ発揮スルモノト信ズル。尚本措置実施後ニ於テ新タ ニ造成セラレル新券ヲ以テスル預金等ハ謂ハバ自由預金トモ称スベク何等ノ拘束ナク自由ニ使用セラレルモノデアル……」
(『昭和財政史』第十七巻、三〇四ページ)という内容である。
 渋沢蔵相の経済危急対策に関する大臣声明発表の二月一七日金融緊急措置令、日本銀行券預入令が公布施行された。金融緊急措置令は、二月一七日以降預金を「封鎖」し、その払出制限を指令したものである。日
本銀行券預入令は二一年三月二日をもって、現行日銀券の「強制通用力」の失効を宜し、その所持者に対して三月七日までの間に預け入れることを指令し、一方では預貯金の新券での支払を法的に規制したものである(原薫著『日本の戦後インフレーション』、九二ページ)。この金融緊急措置令による県下封鎖預金高は一三億〇、六〇五万円であった。
 政府発表の第一日目は、松山市内のヤミ市場ではいつもの賑わい振りであったが、翌日のヤミ市場では新円切換が一人一〇〇円で旧紙幣をいくら貯めたところで意味がないと、物で残そうとしたため市場から品物
が姿を消し始めたと言われる。また一〇円以上の紙幣がすべて無効となるため、市民の間から「小額紙幣獲得運動」が始まった。ヤミ商人の中には、このことを知らなかったばかりに政府発表第一日目に用意してい
た多くの釣銭がその日のうちに出てしまい、あとから新円登場を知ってアッと驚く者もいたという笑えぬエピソードもある。こうして商店やヤミ市場には、小額紙幣獲得を目当に大勢の市民が訪れ、僅か一円足らず
の買い物までも一〇円札、二〇円札を出して釣銭を求める光景が見られた。松山市内の風呂屋でも一五銭の風呂代に一〇円札、二〇円札が出されて釣銭を求める客の姿が見られたと当時の『愛媛新聞』は報じている


 三越その他百貨店

 ヤミ市場が賑わいをみていたころ、松山市内では百貨店の登場をみた。敗戦まもなく松山商業学校前にユニオンが設立された。ユニオンは「生産者から消費者へ」をモットーに、松山市内の商品生産者達が株主となって設立されたものであった。販売商品は、鍋・紙製品・木製品・竹製品などであったとされる。また湊町・大街道の商店経営者達も、伊予屋を設立して呉服・玩具販売のほか食堂経営を始めている。ヤママンは、京阪神からの商品仕入れに力を入れていた。他方、先代の屋号を継承した天狗屋百貨店は、化粧品の製造販売や理髪店・洋品部・家具などの商品部門を設けて、市民の消費生活に応えようとしていた。昭和二一年一〇月には、東京の三越が松山市一番町に支店を開設当時、米一合と一〇円にてスシを一折売っていたそうである。当時の物資欠乏状況を如実に物語るケースとして興味深い。なお三越は、昭和三一年(一九五六)、鉄筋三階建へと姿を変え松山の名所の一つとなる。

 止まらない物価

 昭和二二年に入っても食糧不足と物価の上昇は依然として続いていた。当時の新聞には連日、米・その他食糧の供出に関する記事やヤミ商人検挙の記事が掲載されていた。同二二年八月の松山の米一升の値段は一七〇~二〇〇円の高値であった(表商4-3参照)。この時期、愛媛県内のヤミ値は、公定価格と比べて縫糸は二五倍、石けん二一倍、米一三倍、いわし一二倍の高さであった。
 ヤミ商人が跋こする中、松山経済専門学校(現松山商大)の学生達による廉売店の開設は市民の人気を呼んだ。彼らは「本高商商店は現下の経済社会を憂うる学生の情熱が市民各位の消費生活を少しでもお援けし
ようと浅才を顧みず開店致しました」(『愛媛新聞』昭和二二年八月六日付)と店先に書き記していた。店は日用雑貨部と喫茶部から成り、日用品は市価よりも二~三割安く販売された。このような動きも当時の社
会状況がなさしめたものであると言えよう。

 竹の子生活

 ところでヤミ価格の上昇によって一般の家庭は苦しい生活を余儀なくされていた。例えば昭和二一年当時、愛媛県の勤労者の給与が五五〇円前後であったとされるが、これに対して一般家庭の平均支出額は一、〇〇〇円を大幅に超えており、完全に家計は破綻をきたしていた。それでも市民は食べて生きねばならず、市民は自分達の衣料を一枚一枚ぬぎとりながら、それを農村にて食料と交換するという「竹の子生活」を強いられた。消費者と農家との物々交換は、物資欠乏期・配給不足が続く昭和二三年ごろまで盛んに見られた。
 総理府統計局の調査によると、松山では昭和二一年九月から、一一月の三か月平均による一世帯当たりの支出額は一、七三八円である。また昭和二二年の一世帯当たりの松山の年平均支出額往二、七四二円で、翌
二三年、六、七四三円、そして二四年には九、八六二円となっている。消費者物価の地域差指数で東京を一〇〇として松山をみると、昭和二二年七六・五、翌二三年七七・三、そして二四年八四・四と次第に東京と
の物価差が縮小していく傾向にあった。
 松山商工会議所の昭和二三年の物価調査によると松山の自由物価は白米一升が一三五円~一八〇円の間で推移し、小豆一升一五〇円~二五○円の価格で推移していた。塩(三等)は一升四〇円~六〇円、砂糖(白
)一斤で二七〇円~三五〇円、大人用靴は一足二、〇〇〇円~三、七〇〇円の間で売られていた。昭和二二年一〇月を一〇〇として、昭和二五年の松山の自由物価指数は、内地白米一升が三五一、小豆二九一、塩一
二○、砂糖一二九、大人用靴五三二であった(詳細は『愛媛県史資料編社会経済下』商業参照)。

 ドッジラインと物価の収束

 戦後、市民生活を悩まし続けたインフレも昭和二四年二月、デトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジによるドッジ政策の実施で、一応の終熄を遂げることになる。ドッジは同年三月七日のドッジ声明の中で、「イン
フレーションの栓を開くのも政府であるが、その栓を閉めねばならぬのもまた政府である。インフレーションは何よりもまずその根源においてたち切らねばならない」(『昭和財政史』第十八巻三八ページ)と政府
支出の削減の断行などを示唆、政府の緊縮財政への方向転換を強く求めた。かくてジョセフ・ドッジは、超均衡予算の編成を行い、徹底したデフレ政策を実施に移した。これは当時のインフレを急速に終熄させてい
くが、それはまたわが国経済を深刻な不況へと向かわしめることにもなる。ドッジのデフレ政策はわが国政策史上、松方デフレに匹敵あるいはそれをも凌ぐ徹底したものであった。またドッジは古典的自由主義経済
の信奉者であり、当然のことながら国家の介入を極力回避させようとする考えの持ち主であった。そうした政策思想を反映してか、彼はわが国の物資統制や物価統制を一挙に削減している。昭和二四年四月からの一
か年間に物資統制は、二九〇件から六三件に、物価統制は、二、一二八件から五三一件へと、その数を減らすに至るのである。

 戦災からの立ち上がり

 松山市は三万二、五〇〇戸のうち一万三、五八八戸、実に四一%を戦災によって焼失してしまった。今治市は一万一二、〇〇戸中、八、一九九戸を焼失、その割合は七三%である。宇和島市では一万二、七〇〇戸
のうち五〇%に当たる六、四六八戸を焼失している。壊滅的打撃を受けた中、戦災復旧事業も徐々に進められ、敗戦から二年目の昭和二二年七月、松山市での復旧率は三二%に達していた。他方個人による住宅建設
も資材不足、インフレの悪条件の中で敗戦と同時に始まっていた。
 戦災復興の進展とともに市民の間では大衆娯楽を求める動きもみられた。大衆娯楽の最たるものは映画であろう。松山市内には昭和二〇年秋には、もう「新栄座」に市民がおしよせ、翌二一年には「松山東宝」、「松山劇場」がオープンし、二二年には「国際劇場」が登場している。県内における映画館は昭和二二年、常設・仮設をあわせて九四館、昭和二七年には一四七館、昭和三二年には二〇一館の多きに及んでいた。

表商4-1 経済白書サブタイトル

表商4-1 経済白書サブタイトル


表商4-2 県内米・生甘藷供出率(%)

表商4-2 県内米・生甘藷供出率(%)


表商4-3 愛媛県のヤミ値

表商4-3 愛媛県のヤミ値