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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 愛媛県の金融恐慌

 県内各地の取付け騒ぎ

 昭和二年(一九二七)に始まる全国的な金融恐慌に先立って、局地的な取付け騒ぎが発生していた。大正一一年(一九二二)夏、第二十九銀行本店、翌一二年一月に今治商業銀行菊間支店で取付け騒動の発生。翌一三年には朝屋銀行の休業、大正一五年には帝国実業貯蓄銀行(本店東京)の今治・西条・角野の各支店で取付け騒ぎを起こしていた。また今治商業銀行新居浜支店でも取付け騒ぎが起こり、共栄貯蓄銀行の西条支店では臨時休業の事態に陥っていた。このような県内の小さな取付け騒ぎは、昭和二年の全国的な昭和金融恐慌の発生に先がけて、今治の今治商業銀行の取付け騒ぎへと至るのである。今治商業銀行の事件は、銀行内部全体に公私混同の経営体質や放漫経営が蔓っていたことから出ていた。さらに言えば、銀行の社会的責任についての認識の欠如から出ていた。

 今治商業銀行

 今治商業銀行(以下今商と略記)は、その前身を明治二五年(一八九二)に設立された今治融通株式会社にもつ。今治融通会社は翌二六年に今治銀行と改称され、同三三年に今治商業銀行と改称された。今商休業
前の資本金は二五〇万円で、同行の経営陣は、地元資産家・機業家で構成されていた。今商は今治地方一帯での有数の銀行で、広範な活動を行っていた。とりわけ地場産業である綿織物業界との金融取引は密であった。綿織業界の金融機関としての今商は、この業界に相当の貸付けを行っていた。しかし大正九年反動恐慌は綿業界に打撃を与え、綿業界という特定分野に対するこれまでの今商の貸付は回収困難を極めていた。そして大正一五年秋の綿糸暴落は、綿織物業者の経営を悪化させ、今商は、そのため資金の回収不能の事態に陥った。そのころ日本銀行広島支店では、今商の整理断行の必要性を感じとっていた。昭和二年一月一四日、新居浜の小学校教員が児童に「今商は危ない銀行だから預金者は預金の引出しをした方がよい」、と言った言葉が火種となって、本支店における預金取付け騒ぎが発生する。一月二四日支払い停止、臨時休業の事態になった。以下、今商について唯一の調査資料と思われる『日本銀行調査局報告書・今治商業銀行の破綻原因及其整理』に基づき述べてみよう。
 反動恐慌以来、綿業界の不振は、今商の貸付金回収を難しくさせていた。他方、預金は伸びず、貸出しは漸増且つ固定化していた。そのため、借入金により資金繰りをせざるを得なかった。そして利益金も大正一二年下期の二七万円から昭和元年には一九万円に漸減している。同行の重役陣(表商3-1参照)は資産家・事業家から成り、自己の関係事業資金調達のために銀行を利用する傾向にあった。彼らに対する資金融通
の損失が同行破綻の一因となった。また重役陣の他人まかせの銀行経営にも問題があった。

 取付け騒ぎから臨時休業

 大正一五年(一九二六)秋の綿糸暴落は、綿業界への資金回収難に至る。そしてこの時、問題になるのが今商取締役岡田恒太である。岡田取締役は、自己の経営する岡田織布株式会社の経営不振から窮余の策とし
て、大阪三品取引所で綿糸相場に手を出したが、大阪市場での綿糸投機の失敗で八〇万円もの損失を被った。このため彼に融通していた今商は窮地に立たされ、投機失敗の噂は預金者の預金引出しへと至った。しか
し預金引出しも一応終息して窮状を切り抜けたが、昭和二年一月、新居浜の教員の話が発端となって再び取付け騒ぎが起こった。この時、同行から四五万円の預金引出しがなされた。今商は、資金不足のために仲田
銀行・伊予相互銀行から合わせて八〇万円を借り入れ、さらに芸備銀行にも借入れを依頼した。しかし既にこれまで芸備、藤本B・Bから手一杯の融通を受け、担保物件もなかったため芸備からの借入れに失敗した
。そこで今商は愛媛県農工銀行・第五十二銀行にも依頼したが拒絶され、日本銀行広島支店にも今商重役個人の信用で、一〇〇万円の借入れを依頼したが拒絶された。仲田伝之<長公>ら県銀行業者達の意見は、平素の放漫経営が今商の行詰まり原因であるとして、今商の整理断行の必要ありとみていた。借入れをことごとく断られた今商は一月二四日、帳簿整理を理由として三週間の臨時休業に入った。日銀調査局によると今商行詰まりは、預金総頓と引出し額からみて激烈な取付けが原因であるというよりも、むしろ平素の支払準備の不用意と、資産状態の流動性の不足にあったとしている。

 臨時休業による社会的影響

 休業直後、今治商業銀行の預金総額は一、二六五万円、口数七万に及び、多数の預金者に影響を与えた。また今商から融資を受けていた綿業者の中には、臨時休業によって金融の途を絶たれ、経営困難に陥る業者
もあらわれた。綿業は職工数六、〇〇〇人を抱える地方の中心産業でその影響が心配された。また今商休業は、第五十二銀行今治支店や西条銀行の取付け騒ぎを誘発した。
 今商休業により懸念された点は、今商の営業範囲が広域であり、同行松山支店の閉店が第五十二銀行その他の銀行に波及するおそれ、旧節季を控えて資金繁忙期にあること、第五十二銀行を除いて県内銀行の信用力が小さいこと、愛媛と広島は海を隔てているため危急の場合、日銀広島支店の介入が間にあわないことなどである。これらの事情のため愛媛県知事は、「地方財界安定に関する声明書」を発表し、今商重役も私財
提供により預金者に迷惑をかけないという「誓約書」を発表した。

 今治商業銀行誓約書

 本行は業務整理の為め臨時休業を為したりと雖も速かに復興策を講じて世間に対する不便を尠からしむべし而して万一予期に反し復興し得ざる場合ありとするも預金者に対しては厘毛の迷惑を及ぼさざるものとす
即ち本行資産を以て万一預金払戻に不足を生ずるが如き場合に於ては取締役一同連帯の責任を以て私財を銀行に提供し補償するものとす取締役の私財を以てするも尚不足を来す場合に於ては監査役一同に於ても徳義
上相当の責任を負ぶべし茲に本縣知事に対し相違無きことを誓ふ
 昭和二年一月二十五日
       株式会社今治商業銀行
 取締役頭取 八木亀三郎     監査役   越智 俊逸
常務取締役 八木 春樹     同     柳瀬  存
取締役   矢野 通保     同     八木栄十郎
同     長島 常一
同     岡田 恒太(愛媛新聞、昭和二年一月二七日記事より)
また商工団体関係者は、今商復活存続決議を出して預金者の不安鎮静に努めた。他方、日銀広島支店は今商に対して貸出し額を増加させ、一月二七日には五三七万円に及んでいた。

 今商の経営状態

 今商行詰りも、平素の経営の方法に問題があった。今商の預金についてみると、預金総額は大正一二年下期、一、二〇〇万円から大正一五年(昭和元年)下期に一、三六八万円と増加している。しかしこの増加は
、定期預金の増加によるもので、当座預金はほとんど伸びていない。預金総額の中で定期の%は、同時期五一%から七二%に上昇していた。定期預金は、預入期間が長期であるため今商は、これら資金を不良な貸出しに当てたと思われる。また定期利率も年七分を最低として、大口預金者に対しては定期の利率を九歩に設定していた。また貸出しについては、国債・社債・株券・商品などの担保による貸出しに加えて無担保貸出しが目立った。大正一二年下半期から昭和元年下期の貸出総額中、無担保貸出しが五一・六%を占めている。また担保貸出しでは、土地建物担保が二八・四%を占め、地方銀行の中でも高率で、優良担保(国債など)による貸出しは極めて低率であった。同行の借入金も増加し大正一二年下期の六〇万円から、昭和元年下期に一六一万円に達していた。つまり借入金は、今商が預金受入れ以上の貸出しを行い、しかも固定貸しの累積から年々拡大していった。増加する借入金と定期預金に対する利子支払いは今商の収益を低下させ、業績不振の一因となる。利益金処分についても不健全さを示し、同行窮状期にあって株主配当は一〇%を維持し、日銀広島支店の不評を招いていた。今商の資産・負債を表商3-2に示すと換価容易の資産は負債を超過している。これは直ちに取付けられるべき負債に定期預金が除かれているためである。また資産の余裕額は定期預金額に対して少額であり、もし預金者の動揺から定期預金の引出しが行われれば、たちまち行きづまることは明らかである。また預金支払い準備も今商の場合、極めて低率で昭和元年下期で一割であった。

 今商貸出しの状況

 今治商業銀行のずさんな貸付業務は、同行破綻の一因となっていた。満期日経過後の貸付金について、書替えを行わず未収利子も放置したままのケースが目立っていた。また貸付金の延滞が目立ち、書替え四九回
というのもあった。おそらく回収不能と思われる貸付金額は相当な額に及んだであろう。さらに担保価額以上の貸出しが行われていたこと。割引手形中、融通手形と思われるものが多かった(例えば依頼人阿部株式
会社、支払人同社常務阿部某一五万三四円のケース)。当座貸越中、貸越極度を超過するもの、根抵当の差入なく信用により貸越をするものなど不規律が目立っていた。例えば八木酒造(今商八木常務関係)に対して極度額五万円、貸越額二二万六、一二八円根抵当は信用であった。今商の貸出しに際して担保の評価に問題があった。地方株で一株一〇〇円を単価二七五円として担保価額を算定、あるいは織機一台三五〇円を七〇〇円と見積もっていた。信用貸しの多さが目立っていた。
 貸出しに当たって危険分散は業務経営にとって不可欠である。しかし今商はこの原則を侵していた。同行貸出しの大部分が少数の大口貸出しに集中している。つまり五万円以上の大口貸出しは、四四口数で、その
額七八一万七、〇〇〇円に及び、今商貸出総額の四五%を占め、その大半が無担保貸しであった(『愛媛県史資料編社会経済下』商業参照)、しかも大口貸出しの多くが、今商重役及びその関係のものであった。貸
出し先は昭和二年二月現在、綿業関係が多くを占め、貸出し総額七九一万六、〇〇〇円のうち四五三万一、〇〇〇円で、その割合は五七%であった。綿業家に対する貸出しも業界不振のため、回収不能高は二八六万九四一円に及んでいた。重役に対する貸付けに加えて今商の行員に対する貸付けも目立っていた。昭和二年二月現在、行員数二〇三人であるが、貸出し数は一三五に及んでいた。銀行内での乱脈ぶりがうかがえる。副支配人の場合、同行取締役と共同で共栄舎をつくって綿糸投機を行い、その投機資金に銀行資金を流用するなどの公私混同が平然と行われていた。また出納係員の誤算の弁償を貸付金に振替えたり、洋服の立替えをするなどの乱脈がはびこっていた。

 今商経営再開

 今治商業銀行重役陣は、休業後、業務再開に向けて関係当局に運動を行った。昭和二年五月、全国的な金融恐慌の善後措置として法律第五五号、日本銀行特別融通損失補償法が発布され、これにより不動産その他
担保品をもって、支払準備資金の融通を受けられることになった。今商もこの法律によって業務再開の途が開かれた。日本銀行は直ちに今商の整理案の立案にとりかかり、その基礎として今商の欠損査定調査に乗り出した。そして重役関係貸出しについては、私財を提供させて貸出しの回収に努めた。重役陣は、私財提供という多大の犠牲を払わなければならなかった。そして私財提供の多くが不動産から成り、その実価はかなりの減少を免れることはできなかった。そのため日銀当局は、重役陣と折衝をかさね、再度、私財の提供を求めて、最終的な私財提供総額は、約四五〇万円に達した。重役陣の私財提供もこの時、極限に達しこれ以上求めることは困難であった。そのため資本金の半額切捨・積立金及び繰越金の取崩しを行うことで、今商の整理案がつくられていった。いま整理案並びに開店準備の要領を示すと次ページのとおりである。
 整理案の作成もでき、開店に当たって払戻資金として七〇〇万円相当が必要とされた。そこで不動産・有価証券を提供して日本銀行の補償法による特別融資を仰ぐことにし、昭和二年七月、日本銀行の融資が認め
られた。また八月一五日、臨時株主総会で今商整理原案が可決され、これにより翌一六日、日銀広島支店から特別融資額のうち五二〇万円が融資された。これは、わが国の補償法制度が開始されて最初のものであっ
た。こうして今商は八月一八日より業務の再開へとこぎつけた。昭和二年一月二四日、休業以来二〇六日ぶりの再開であった。
 さて日銀の補償金は八月一六日午後六時半、今治港に第二愛媛丸により運び込まれた。桟橋には日銀補償金を見ようと今治市民多数がつめかけていた。桟橋には今商の八木頭取、近日開催の株主総会で取締役に選
ばれる阿部光之助をはじめ今治市長の姿も見られた。積みおろされた日銀補償金(新聞報道では一、二〇〇万円)は、直ちに今商本店に運ばれ、翌一七日、本店をはじめ各支店に配分された。

 今商再開・順調な動き

 八月一八日、再開された今治商業銀行には預金者の殺到も見られず、順調なすべり出しであった。開店から一月末日の預金と貸出し状況をみるに、八月一七日現在、預金残高一、〇七八万六、○○○円、八月三一
日残高八二二万六、〇〇〇円で、減少高二五六万円、同じく貸出しは一、四二六万二、〇〇〇円から一、一八一万一、〇〇〇円で、減少高二四五万円であった。日銀当局の予想より少ない預金引出しで、一応今商の経営も安定の方向にあった。なお今商重役陣は八木頭取・矢野取締役が整理遂行の必要上留任し、他は新人重役で占められることになる。

 昭和金融恐慌

 今治商業銀行が昭和二年一月二四日に休業にはいってから二か月後の三月一四日に、片岡蔵相の「失言」によって翌一五日、東京の渡辺銀行が休業に追い込まれ、それは他の銀行にも波及し、ここに昭和金融恐慌
が始まる。事態の進展に驚いた日銀は、三月二一日に非常貸出し方針を打ち出した。また二三日に震災手形関係二法案が、貴族院を通過すると銀行取付も一応平静に戻った。しかし、そののち震災手形処理法案の審
議過程で、台湾銀行と鈴木商店との関係が明らかとなって、台銀危機の噂が流れた。そのため都市銀行は、台銀に放出していたコールの引上げを行い、台銀の経営は更に悪化した。

整理案並ニ開店準備ノ要領下ノ如シ。

 (一)欠損総額及其補填財源
    欠損総額            四、二一六、四二七円
     補填財源            四、二一六、四二七円
       内
     資本減少(半額減少)      一、二五〇、〇〇〇円
     積立金及前期繰越金       一、三五五、六六三円
     所有不動産及有価証券評価益     三七六、二六五円
     重役私財提供          一、二三四、四九九円
 (二)重役提供財産
     重役提供財産総額        四、四九八、九七五円
       内
     欠損補填ノ為重役カ負担シタル    
     債務ノ担保ニ充当        一、二三四、四九九円
     重役関係債務担保へ充当     二、〇〇六、八二五円
     金融ヲ資クル為提供       一、二五七、六五一円
 (三)支払準備所要額
     諸債務            一三、五六〇、〇〇〇円
      内
     諸預金            一一、一二七、〇〇〇円
     コールマネー          一、四〇五、〇〇〇円
     他店借                八六、〇〇〇円
     未払利子及未払配当金        九四二、〇〇〇円
      (八月十五日迄ノ分)
     前諸債務ノ内直ニ引出サルヽ虞ナキモノ
                     三、三〇〇、〇〇〇円
     差引直ニ引出サルヘキ諸債務   一〇、二六〇、〇〇〇円
     右ニ対スル支払準備所要額(七割) 七、一八二、〇〇〇円

台銀はその救済を日銀に求め、日銀は十分な担保をとらずに四月四日までに三億円の融資を行った。しかし日銀はこれ以上の融資はできないとして、政府と日銀は台銀救済勅令を可決させて、その救済に努めようと
した。この勅令は日銀が無担保で融資して、損失が生じた場合、政府が二億円を限度として補償するという内容のものであった。野党である政友会は、これに対して「一行一商社のため国民に多大の犠牲を強いる」
ものであると批判した。四月一七日、この緊急勅令案は枢密院本会議で否決された。このため台銀は、四月一八日から三週間の休業措置をとった。これはたちまち近江銀行など他の金融機関にも波及、ここに第二次
金融恐慌が始まる。銀行取付騒動は一歩まちがえば暴動発生の危険もあり、政府は事態収拾のためモラトリアム発令という非常措置を採用した。この支払猶予令は四月二二日枢密院にはかられ、即日可決施行される。同法令の発令とともに流言取締の通牒が内務省から出され、また日銀当局は四月二四日、国内の銀行に対して徹底的融資に努める決意を発表した。本県では、愛媛商工団体連合会が四月二六日に「軽挙盲動を慎み、徒らに杞憂に駆られて銀行預金の引出等」に走らないよう、冷静さを市民に訴えた。

       決 議

今ヤ政府ハ支払猶予令ヲ公布シテ財界救済ノ為メ最善ノ策ヲ講シ居レリ此時ニ当リ吾人国民ハ冷静沈着以テ時世ノ真相ヲ達観シ軽挙盲動ヲ慎シミ従ラニ杞憂ニ駆ラレテ銀行預金ヲ引出等ノ事アルヘカラス此理解コ
ソ実ニ現下ノ問題ヲ解決スル唯一ノ態度ナリ
右決議ス

昭和二年四月廿六日

    愛媛県商工団体連合会     (資料提供、定秀寺)

表商3-1 今治商業銀行休業時ごろの重役構成

表商3-1 今治商業銀行休業時ごろの重役構成


表商3-2 今治商業銀行の資産負債状態

表商3-2 今治商業銀行の資産負債状態