データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)
七 会社の歩み
会社制度の導入
近代資本主義発展に必要不可欠なものは会社制度であった。しかし、この近代株式会社組について、明治期の一般社会ではほとんど知られておらず、政府はその普及に努めてきた。会社制度はイギリス社会で発達し、明治にわが国に導入されたものである。イギリスでもこの制度が根をおろすまでには、それなりの時間を要した。
イギリスでは、イギリス東インド会社が近代株式会社の発達とその普及に大きな貢献をなしてきた。初期のころイギリス人の間でも株式会社制度のなんたるかを知らず、ただ株さえ持てば金持になれるといった間違った考えを持つ者が少なくなかった。投機熱にうかされた人々は、目先の利益にとらわれ雨後の竹の子のように登場するインチキまがいの会社に投資した。「塩水を真水にする会社」、「鉛から銀をつくる会社」、「永久運動をする車輪をつくる会社」、「巨大な利益をあげる事業を行うが、詳細は誰にも打ち明けられない会社」など、当時、利益の見込みが全く見られない詐欺的内容のものがかなりあった。たとえ設立されても忽ち霧散するのが当時の会社のたどった運命であった。このような点では、明治期のわが国にも少なからず似たものを感じる。明治六年(一八七四)、東京で当局に提出された会社設立願の中からひろってみると、例えば翻訳会社、道路掃除方会社、芸娼妓取締会社、家作地面売買商社、発明器械会社、諸芸人取締会社、諸国案内会社、俳優取締会社、人参会社、育児会社の名称を見ることができる。これらを企業心旺盛なるものとみれないこともないが、やはり時流に便乗した安易な会社設立の傾向があったように思われてならない。
明治政府は、近代経済の発達にとり株式会社制度の必要性を痛感していた。明治四年(一八七一)には大蔵省から福地源一郎の『会社辨』、渋沢栄一の『立会略則』が発刊され、会社の普及に役立てられた。会社制度導入の意図を要約すれば三点があげられよう。
(一) 大資本を擁する外商との競争上、国民個々の資本の合本を必要と認めたこと。
(二) 近代経済の建設には大資本を必要とするが、それには株式制度による資本の集成をはかることが最
も効果的だと達識したこと。
(三) 能力ある近代的経営者に資本を給し、同時に近代的経営者を養成するには会社制企業がはるかにすぐれていると認めたこと。(高橋亀吉著『日本近代経済発達史 第三巻』、昭和四八年、五六六ページ)
商業社会の商い意識
堅実な会社企業が設立されていくと同時に、明治の商人社会の中では封建時代からの商い意識も強く残っていた。家訓を守って家産蕩尽の危険を極力免れんとする根強い保守的な考えは、新しい制度の導入にとって障害となっていた。渋沢栄一は旧来の保守的精神について、「東京、大阪の実業家とも時々面会して業務上に就き種々の談話もしてみたが、旧来の卑屈な風が一掃されぬため、政府の役人に対する時は、只平身低頭して敬礼を尽くすのみで、学問もなければ覇気危なく、新規の工夫とか事物の改良とかいうことなどは思いも寄らぬ有様」(『渋沢栄一自叙伝』より)と述べている。そしてこのような点は大正四年一○月一日に松山を訪れた渋沢栄一の講演の中にもみることができる。それは愛媛農工銀行の階上大広間で地元実業家を前に「実業家の本領」という演題で行われた講演である。その中で、
「・・・商人間に於いては小才の利く者は沢山ありましても、大きな知恵を以ている者は無かったのです。夫れ故江戸の商人間に於いては協同一致の考へを以て仕事をすると言う者は一人もなく、唯自分さへよければよい、他人の事はかまはぬ、と斯う言う考への者が多数でありましたから、会社の成立つ道理はありませぬ、多くの会社が軒を並べて破産するに至ったのは斯ういう理由でありました」と、商人の意識改革の必要性を強調している。なお、続けて渋沢は実業家は実業に力を注ぎ、それ以外に力をが多く、甚しきは陣笠連となって政党政派の手先に使はれる者が多いとは不見識も甚しい……、実業家はも少し地位を高めねばなりませぬ、実業家にはも少し確固たる見識を持たさねばなりませぬ、実業家には実業家として大切な本分があります、…本県は政党の関係が烈しいお国柄だと承って居ります。此際、政党と実業との分界を明らかにして、其の態度が過るが如き事のない様に心懸けたいものだと思います」(『渋沢栄一伝記資料第五十七巻』五八五~五八七ページより)。
士族の商法
さて渋沢栄一らにより商人意識の近代化の必要性が叫ばれていたが、そのころ士族から商人へと身分を代えた人達の士族の商法にも少なからず問題があった。もちろん士族の中には、近代企業家として成功する者も多数あらわれるが、しかし商人蔑視的考え方から抜け切れない士族達も大勢いたのである。「売ってつかわす」、「買ってつかわそう」といった士族商法が、人々の間で受け入れられなかったことは言うまでもない。士族商法の危なっかしさは明治九年一一月二六日付の『愛媛新聞』にも「当時流行見立」の中にもうたわれているほどである。
『会社辨』の著者、福地源一郎は、士族の商法について述べると同時に彼らの身の処し方にも、さまざまであったことを少なからず教えている。
「我が家の玄関を直ちに店となして所持の什器を陳列し以て骨董道具商と成るものあり、更に又甚だしきは昨日までは 殿様奥様と諸人に尊敬せられたる門閥の<糸丸>袴者流が世間に体面あるを顧みずして或は料理屋と成り或は汁粉天婦羅茶漬 の店に居宅を変じ、妻子と共に客を迎え叩首して以て賤商の姿態に倣う。夫れも朝夕の活計に差支るの故を以て一生懸命 に従事せしならば情に於て尚恕すべき所もあれども其十中の三四は未だ夫程の困窮にも陥らず相応の資財を所持しなが ら面白半分に流行につれ、是を以て快事の如く思ひ揚々得色あるに至りては或は狭斜に身を投じて遊女屋となり引き手 茶屋となれるもあり又は章台の傍に家を移して芸者家となれるあり……」(福地源一郎著『懐往事談』、昭和一六年、一七二ページより)。
士族の商法と人々に嘲笑される武士出身者、士族授産で事業資金を手にしたものの、生活費ですべて使い尽くした者など話題に当時ことかかなかった。しかし武士の中でも先見の明のある有能な人々は、わが国近代企業の育成に測りしれない貢献をなした。
会社設立の動き
わが国における会社設立の動きは、早くも明治五年(一八七二)ごろから高まりを見せている。つまり明治五年国立銀行条例、明治九年同条例改正を経て、明治一〇年の西南の役に伴う紙幣の乱発はインフレーションを引き起こし、企業熱をあおることになった。ただこの時期の会社設立は、銀行業に多く集中していた。そしてこの設立者達の出身をみると多くが士族達であった。国立銀行条例の発布によって全国各地で銀行設立が相次いだ。このブームは明治一二年(一八七九)の第百五十三国立銀行の設立を最後に終息していった。明治一五年一〇月には中央銀行として日本銀行が開業し、翌一六年五月の国立銀行条例改正によって、紙幣発行権は日本銀行にだけ付与され、その他の国立銀行は、二〇年間の営業期限満斯をもって私立銀行への転換を求められ、ここに近代金融制度の確立の第一歩が始まる。
さて国立銀行数をみると、明治九年五行であった国立銀行も、一一年には九五行に増え、翌一二年には一五三行と増加している。他方、私立銀行は明治一二年にわずか六行であったが、明治一六年には二〇七行と急増し、国立銀行(増設)時代から私立銀行(増設)時代へと推移していったことが分かる。
愛媛県では明治一一年に第五十二国立銀行が資本金七万円で松山に設立され、同年第二十九国立銀行が資本金一二万円で川之石に、明治一二年には第百四十一国立銀行が、資本金五万円で西条に設立されていた。国立銀行のほか私立銀行が県内に明治一〇年代、二〇年代にかけて設立される。明治二七年には私立銀行の数は一五行を数えていた。また銀行以外の商業会社の設立が明治二六~二七年にかけて相次いでみられた。
ところで、私立銀行の前身は銀行類似の経営業務を営む会社であった。私立銀行の松山興産銀行(明治二六年設立)の母体は、栗田昇三を社長とする興産会社から発展したものである。興産会社は愛媛県会社史の上で最初のものであった。当社設立当時、「人問はば我は答へん松山で会社といへば興産と呼ぶ」と詠まれるほど、人々の関心をよんでいた。その設立趣意書によれば、「己を益するにあらず、一般を益し、而して松山の実業界を旺盛ならしめたきが為に設立するものなり」と明記され、会社が地域社会に果たす役割、あるいは会社の社会的責任というものが強く意識されていたことが分かる。明治一〇年一〇月の『愛媛県勧業着手概況』によれば、伊予国松山市の有志数名によって明治七年資本金約一〇万円で設立された会社、その名称興産社と称すと記されている。興産社の営業は、物産資本の貸付をするほか、勧業着手概況によれば、「山茶ヲ以テ宇治製トナシ神戸大阪へ輸出スル此数年々十五、六万斤且伊予縞織立テタルモノヲ買入レ(大)坂府へ輸出スルモノ年々凡ソ十万反其他各紙ヲ製造シテ輸出スルモノ凡金高一万四五千円」(土屋喬雄編『現代日本工業資料』、昭和二四年、一九七ページより)。興産社は、その前身をもつもので、松山の商人である栗田与三・仲田伝之訟・藤岡勘左衛門らが「興産社」と呼ばれる金融機関を明治維新後に設立し、この興産社は明治五年商法社、家質場所と合併し興産会社となるのである。興産会社の果たした役割の中で大きなものは、本町から紙屋町にかけて軒を連ねて存在していた伊予絣問屋への資金貸付であったろう。なお、興産銀行は明治四〇年(一九〇七)仲田銀行へと変わっていった。宇和島では士族達が明治五年(一八七二)八月、一万円の資本をもって信義社を創設、金融業を営む一方、活版印刷業をも営んでいた。西宇和郡川之石では蝋座取締役矢野小十郎が、兵頭吉蔵・菊地清平・清水一郎らと資本を出資して明治八年に潤業会社を設立する。川之石は黄櫨の産地であり、鉱山・紡績などの分野で発達する土地であり、港には船舶輻輳する光景がみられた。このような経済活動の旺盛な地に潤業社が設立され、これはのちに第二十九国立銀行へと移行していった。また明治九年、久松家の資本金五万円で松山藩士族らによって設立された栄松社があった。この会社は第五十二国立銀行へと吸収されていく運命をたどる。明治一三年現在で銀行類似会社をひろってみると、九社を確認できる。すなわち越智郡の積漸社・温泉郡の興産会社・伊予郡灘町の稱平社・喜多郡新谷町の開栄会社・集贏社のほか、北宇和郡の信義社・漸成社・楽終社・南鉾社であった。その後も銀行類似会社は増え、明治一九年にはその数も二一社(一社当たり資本金二万五、〇〇〇円)と全国府県の中でも愛媛県は一一番目に位置していた。銀行類似会社が多く設立された県をみていくと、養蚕・製糸・生糸・米等の農業地帯や開港場などに集中している。そしてこれら地域には豪商・豪農が多くいたということも指摘できる。
本県の国立銀行
第二十九国立銀行は、潤業社から国立銀行へと転じたものである。同行の取引は商人との取引が貸出先の七八%を占め、士族はわずかに四%にしかすぎなかった。これは第五十二国立銀行と大きく異なるものである。第二十九国立銀行の創業時の貸付先をみると、同行は伊達家の銀行と言われる東京第二十国立銀行に多額の貸付けをしており、明治一一年(一八七八)二月に三万八、一二二円の貸付を行い、同年四月にも四、六〇〇円の貸付けを行うなど、その結び付きの強さを示している。第二十国立銀行は月一割という高利で、第二十九国立銀行から借り入れた資金を土地造成などの土地投資に充当していった。おそらく土地投資は、安定した危険の少ない投資先であったのかもしれない。
第五十二国立銀行は、松山藩士族らによって設立された銀行であり、その意味で士族とのつながりも強く、総貸付け額の六四%が士族への貸付けであり、商人への貸付けは二二%にしかすぎなかった。
本県における国立銀行について明治一三年末の主要勘定を見ると貸付け額が異常に高いことが目につく。第百四十一国立銀行の場合定期預金三三一円と少額なのに、その九倍近い額の貸付けを行い、第二十九・第五十二国立銀行の場合も当座預金総額の三~四倍で貸付額を示し、業務内容が貸付けにかなりのウェイトがおかれていたことが分かる。しかも相当な利益をおさめていることからも、貸付けに対しては高利が課せら
れていたものと推測できる。
第百四十一国立銀行は他の二十九・五十二銀行と異なり、昭和三年(一九二八)一二月三日に広島の芸備銀行と合併をすることになる。第百四十一国立銀行は、他の国立銀行同様に金禄公債を資本として設立され、旧西条藩主松平頼英も設立発起人の一人になっていた。しかし資本金は五万円と少なく、発行紙幣額は四万円であった。国立銀行の規模としては小さかった。初代頭取には当地の「近江屋」と称する豪商木村幾久太郎が就任している。彼はまた土地一〇〇町歩を有する豪農でもあった。同行の主要な業務は旧西条藩士に対する事業資金貸付であった。明治三〇年(一八九七)に営業期限満期と同時に、私立銀行へと移りその名も西条銀行となった。そして小松・三島・多喜浜などに営業網を広げていく。しかし同行の経営はオーバローンの傾向が強く苦しい状況であった。こうした崩壊寸前の経営状態のため昭和に入って、にわかに合併問題が生じ、芸備銀行との合併に至るのであった。
明治一〇年代の経済状況
本県における会社設立の高まりは金融部門にて強くみられた。このころ、明治七年に内務省地理局から赴任してきた県令岩村高俊は殖産興業に力を入れていた。岩村は明治九年に勧業課を設置し、明治一〇年器械製糸伝習生を備中笹岡製糸場に派遣したり、翌一一年には勧業試験場を設立、同一三年には物産陳列所を県庁内に開設するなど地方経済の振興に手腕を振るっていた。地域社会に新しい事業機運の盛り上がりをみたのもつかの間、明治一四年、松方財政のため経済界は、これまでのインフレーションから一転してデフレーション経済に直面した。そのため工業生産高は減少し、工産物価格・農産物価格も急落を示した。松山の米価でみると明治一三年、平均一一円台から明治一四年には一〇円台に、明治一七年から同二一年にかけて四~五円台に落ち込んでいた。また砥部焼生産額をみても明治一五年の一〇万三、〇〇〇円をピークに、その後、激しい凋落をたどり、明治一九年に四万六、〇〇〇円の水準となった。
松方正義はインフレーションを終息させて財政立て直しをはかるため、徹底したデフレ政策を断行した。彼のデフレ政策は農産物価格の下落をひき起こし、米価でみると、明治一三年ごろと比べて一〇年代後半は半減していた。農民にとって価格下落は致命的打撃となっていた。しかも彼らにとっては、一三年の時期の米価を基準に地方税が算定されたこともあって、家計はぎりぎりの状況にまで追いつめられていた。多くの農民は生きるがために土地を手離し、小作人へと転じていった。零細農民の税負担能力は限界に達し、土地の売却が随所でみられた。しかしこれは他方では地主を強化していくことになった。農民の税負担から生じる生活の苦しさは、明治一七年の本県県議会における営業税・雑種税引上げの議論の中でもうかがえる。農家に比べると不景気とはいえ商人の税負担能力は、まだ余裕があるとの見方が一般に強かった。このことをある県会議員は営業税・雑種税引上げ議論の中で、「農家は日々労力したる上に晩酌の一盃すらも飲む能はざる位なれども、商家は然らす、仮令借家住居のものにても快く晩酌せさるはなし、左れは斯く修正したれはとて別に商家の困難を来す事はあらさるなり」(『愛媛県議会史第一巻』、昭和五〇年、六二七ページより)と述べている。なお、明治一六年現在の豪農豪商に次のような名があげられている(『愛媛県史資料編社会経済下』商業、明治一七年の豪農商資料もあわせて参照されたい。)。
明治二〇年代の会社設立動向
明治一〇年代が不況色に覆われていたのに対して、明治二〇年代は経済活動も活発となっていった。一時、頓挫していた企業熱もここにきて高まりをみせてくる。明治二二年に本県の会社数は、合資会社・株式会社合わせて三九社、翌二三年に五二社、二六年には七三社と増加をたどった。この二〇年代の企業熱は特に製造業部門に顕著なものがあった。本県の二九年以降の会社数の推移を示してみよう。明治二九年会社数一三二(資本金総額五五四万二、一五一円、払込資本金三五〇万六、五九七円)、三〇年会社数一六○社(資総七八八万二、三一一円、払込五四〇万二、〇六一円)、三一年会社数一七二社(資総九一五万五、八八一円、払込六一五万八、〇〇二円)、三二年会社数一八四(資総一、〇五一万一、五四六円、払込七六八万六、八五四円)、三三年会社数一九七社(資総一、一二四万七、五七六円、払込八五五万三、五七一円)、三四年会社数一八四社(資総一、〇九七万八、九六五円、払込八七六万二、七八六円)、三五年一七五社(資総一、〇四四万二、六四〇円、払込八八二万〇、二〇三円)、三六年一七四社(資総一、〇一一万五、五六五円、払込八六五万八、八七四円)、三七年一六一社(資総九六二万〇、一三五円、払込八二六万五、七一二円)、三八年一四九社(資総九五六万六、七六五円、払込八一七万〇、七六八円)、三九年一四五社(資総九九五万六、四六二円、払込八三九万七、七一六円)である。
二〇年代の会社設立の動きの中で宇和紡績会社(明治二〇年設立)、伊予木綿株式会社(明治二二年設立)、松山紡績会社(明治二五年設立)、伊予紡績会社(明治二五年設立)、八幡浜紡績株式会社(明治二九年設立)など紡績・製糸会社が誕生していた。株式会社の大半は繊維会社が占める傾向にあった。設備投資の規模が大きいことによるものであろう。酒造・木蝋・精米などは合資会社組織であった。
愛媛における明治二〇年代の繊維会社設立の動きは、わが国のそれと軌を一にするものである。ここでは当時の会社規模が、どれ位のものであったのか、また経営の状況を知るための参考に、宇和紡績会社、松山紡績会社・伊予紡績会社(今治紡績会社)を例に簡単に見てみよう。
宇和紡績会社
明治二〇年一〇月二五日、宇和紡績会社発起人総会が開かれ、兵藤昌隆・浅井記博・上田京平・宇都宮荘十郎・高橋伝吾・清水石次郎・矢野源四郎・兵藤吉蔵・菊地清治・清水範蔵の一〇名の者が創立委員に選ばれた。創立事務所も同時に川之石一〇番地と定められた。翌二一年三月二七日、創立委員の中から創業委員五名、すなわち兵藤昌隆・上田京平・高橋伝吾・宇都宮荘十郎、矢野源四郎が選ばれ、彼らは直ちに株式募集に着手し、六月八日には株主総会を開いて、定款・資本金(一二万円)を決め、紡機二、〇〇〇錘を工場に設備することに決定した。また株主総会では、兵藤吉蔵・上田京平・兵藤昌隆・宇都宮荘十郎・辻吉敬・矢野小十郎・鎌田伝治・清水範蔵が取締役に選ばれ、彼らの中から兵藤吉蔵が初代社長に選ばれた。彼は川之石の二十九銀行の頭取であり地元の有力資産家でもあった人物である。常務取締役に選ばれた兵藤昌隆は、嘉永五年(一八五二)宇和島藩士竹村佐平の長男として生まれ、後に兵藤家の養子になった。彼は地元でも有能な人物で熱弁家でもあったようである。第一回の帝国議会では自由党員で代議士であった。政治活動については具体的には知り得ないが、板垣退助に極めて近い存在の人物であったようで、板垣が四国巡遊の途中、宇和紡績会社を訪れていることからも少なからず推察できよう(写真商1-12参照)。兵藤昌隆は宇和紡績創立に当たって指導力を発揮した人で、会社設立計画は彼が大阪滞在中に、同地で川之石出身者からすすめられて行われたものである。昌隆はわが国の紡績業界の先駆者とも評され、事実、彼は河内紡績・高砂紡績・関西紡績・柴嶋紡績会社の創立にも力を貸していた。
さて会社が設立されるや直ちに機械設備が三井物産に発注され、工場建設が始まった。初期の工場設備はプラット式リング二、○六四錘、織機二台であったが、明治二五年(一八九二)には、プラット式リング二、○六四錘と前回と同数の紡機を購入して工場の拡大をはかった。同二九年には紡機数も一万〇、二七二錘にまで増加し、工場規模の拡大をみていた。営業状態は会社創設当時、糸質良好との評価から注文数に応じ
きれず昼夜交代で操業を続けていた。しかし明治二三年の経済不況期に糸価が暴落し、同年五月には八〇円にまで落ち込んだ。また設備拡張のツケが不振の一因になっていく。明治三一年前期には一万三、八〇〇円の損失、同三二年上半期は四、二〇〇円の損失を出す。同年下半期に三万四、〇〇〇円の利益を出すものの、再び以後も損失を出していった。連続して損失を生じてきたため、明治三五年六月に株主総会が開催され、一株五〇円の優先株(二、〇〇〇株)の募集を決定、同時に会社の立て直しのメドがつくまで休業とすることが決められた。明治三五年には会社資本金は三五万円に増資されていたが、会社の負債もそれに匹敵するほどの額に達していた。つまり社債三万一、九〇〇円、借入金一六万一、〇〇〇円、支払手形一二万三、四〇〇円、合わせて三一万六、三〇〇円の負債総額であった。
明治三五年の株主総会で決めた会社の優先株の募集も期待に反するもので、会社の財産は銀行の抵当におさえられ、借入金は一二万円の多額に達するものであった。会社の立て直しも完全に行詰りの状態に陥っていたが、明治三八年(一九〇五)、この時の取締役の一人であった白石和太郎が、一二万円の借入金を引受けると同時に宇和紡績会社を買収し、社名も白石紡績所と改称された。
白石和太郎は川之石地方の銅山所有者で日露戦争期に相当の財をなした人物であった。
白石紡績所は明治四〇年には大阪紡績会社に合併されることになる。
松山紡績会社
当社は明治二五年、前川平吉・津守虎太郎・越智九平・小田喜八郎・瀬川喜七・田内栄三郎・石崎平八郎・粟田幸次郎・福田新十郎・井上久吉・仲田伝之<長公>・佐賀金吾ら発起人により設立されたらしい。発起人中、前川平吉は大阪の綿糸問屋である。設立趣意書によれば資本金一二万五、〇〇〇円、その半額を発起人が引き受け、残りを他から募集するものとした。一株は二五円、総数五、〇〇〇株であった。営業の目的は国内・国外産綿を紡績し、これを地方の需要に供給し、かつ国内各地に供給し、かつ外国産糸の輸入を防ぐことを目的とすると組織要項の中でうたわれた。 松山紡績会社初代社長に株主総会で仲田伝之<長公>が選ばれた。取締役には前川平吉・小田喜八郎・越智九平・由井清・泉左助、監査役に瀬川善三郎・井手正雄・岡崎栄次郎が就任した。初代社長仲田伝之<長公>の就任期間は短く、明治三一年には取締役の由井清が社長に昇格していた。由井は松山藩士で維新となって司法省界で活躍、退官後は事業界に身を投じた人物で、五十二銀行取締役の肩書を持つ人物である。由井の時代に松山紡績会社はその基礎を築いた。
工場設備については不明であるが、設立時の資本金一二万五、〇〇〇円の支出予算では、紡機代五万二、〇〇〇円、汽缶及び付属品一万七、〇〇〇円、地所・建物などのほか創立費を支払ったのち、残額二万六、〇〇〇円を営業資金に当てるというものであった。
松山紡績会社も創業から、しばらく好成績を続けるが、日露戦争後の不況のあおりで経営の不振に陥り、無配当の時期が生じた。このため会社の窮状を救うため武藤山治の力を借りた。彼は鐘紡から浅田広太郎を明治四四年(一九一一)に入社させて、経営の改善に取り組ませた。大正元年(一九一二)上半期にはやや改善に向かい、増錘がはかられ、資本金が三倍に増資された。大正六年下半期には、三割配当を実現するまでに立ち直りをみせている。時あたかも第一次世界大戦でわが国綿業界は好況にあり、高配当が行われていたが、松山紡績会社は大正七年三月倉敷紡績会社に合併された。
伊予紡績会社(今治紡績)
明治二五年一二月七日創立された伊予紡績会社の資本金は二〇万円、払込資本金八万八、〇〇〇円、紡錘数五、四一六錘であった。専務取締役に正野玄三、取締役に村上芳太郎・辻敬吉・柳瀬春次郎・永井弥十郎、監査役に阿部光之助・備中伝助・伊藤又兵衛・支配人に小沢常太郎が選ばれていた。正野玄三は江州人で、大阪で綿物問屋を営んでいた。その関係で今治にも支店を持っていたところから、地元有力者と共同で紡績会社設立に向かったものと考えられる。しかし経営の実権は地元の取締役連中にあった。営業成績はそれほどのものではなかった。明治三三年ごろには欠損二万円を生み、借入金債務手形の合計八万円の額に及んだ。明治三五年(一九〇二)には休業にまで追いやられてしまっている。経営の行きづまりの原因は社員が自由に定期相場をなし、損失を会社に負担させ、利益は自分のものにするといった乱れ方であった。会社経営で一番大事な風紀の乱れが創立一〇年で同社を休業の事態に追いやったと言えよう。しかも社員の多くが縁故採用であり、経営陣も素人であった。
結局、伊予紡績会社は福島紡績に売却されることになった。しかし福島紡績も大正七年に今治工場の経営をあきらめ、他社に売りに出している。この福島紡績今治工場を岡田恒太らが購入した。その名も今治紡績合名会社と改められた。資本金は三〇〇万円、払込資本一二五万円、重役は取締役社長に木原通一、専務取締役に浅田広太郎、取締役に岡田恒太・木原茂・監査役に岡田成一・木原通三郎の顔ぶれであった。新会社としてスタートをしたのもつかのま、財界不況に直面、買持原綿の暴落のため大正九年(一九二〇)上半期に二万六、〇〇〇円の欠損を生じ、下半期には九万五、〇〇〇円の損失を生んでいる。その後、一時利益をあげるが、大正一二年上半期に一六万円の損失を生み、結局、大阪合同紡績会社へ売却されることになるのである。
明治二〇年代以降の動き
会社設立の動きが顕著となるのは、明治二七年(一八九四)から同二八年の日清戦争による賠償金の獲得に端を発していた。日清戦争での賠償金の獲得は、当時の国民所得の四分の一に相当するものであった。わが国の商工業に大きな刺激を与えたことは言うまでもない。また明治以来、経済発展の加速化によって事業規模が拡大し、多額の資本を必要としたことも会社組織の普及を促すことになった。わが国の会社数と出資額をみると明治二七年二、八四四社で、出資額は二億四、五二五万円から明治二九年には四、五四九社と倍増し、出資額も三億九、七五六万円とかなりの増加をたどっていた。本県でも明治二七年会社数七〇社、払込資本金一八五万円台から明治二九年には会社数一三二社、払込資本金も三五〇万円台に急増している。この時期、会社設立の動きは、製造業・商業・金融業のすべての分野で目立つ。金融でみると明治二七年に株式会社伊予三島銀行・漸成銀行、明治二九年には東予銀行・株式会社三津浜銀行・砥部銀行・大洲商業銀行・株式会社内子銀行・株式会社新谷銀行・八幡浜商業銀行・株式会社松山商業銀行・株式会社松山貯蓄銀行など二年間で一一行が設立されている。「人家があれば銀行ができる」と言われたほど銀行設立の機運は高く、その後も銀行設立熱はさめなかった。しかし弱小銀行はその後、特定の銀行に吸収合併されていくことになる。一般銀行とは別に明治三一年、愛媛県農工銀行が松山市に開設されている。農工銀行は農商務省が農工銀行法に基づいて全府県に設立したもので、不動産金融を行っていた。愛媛県農工銀行は資本金七〇万円で、頭取に仲田伝之<長公>、取締役に近藤貞次郎・玉井健次郎らが名を連ねた。大株主は愛媛県・松山市・仲田伝之<長公>・仲田銀行などで、支店は今治・西条・大洲・宇和島に開設されていた。しかし同行は昭和一二年(一九三七)に日本勧業銀行に吸収合併されることになる。
さて明治三〇年代から大正期にかけて会社設立の動きに変化がみられるものの、全体としては増設の傾向にあった。愛媛県では明治三三年に会社数一九七社に及んでいた。しかしその後、会社数は減少していくが、明治四五(一九一二)には一六六社に数を増やし、大正期に入ると会社数は急増していった。
明治三〇年(一八九七)代における会社数の減少は日露戦争と関係していた。日露戦争終結は日清戦争の際の賠償金よりもさらに巨額の賠償金獲得の期待を国民に抱かせた。しかし結果は期待に反して賠償金はとれなかった。わが国は外債に対する利子負担と国際収支の悪化で厳しい経済環境に直面していた。ここにおいて企業熱は一時頓挫してしまった。しかし明治三九年以降、再び企業熱の高まりをみた。政府の外資輸入と鉄鋼・海運に対する補助政策などが大きな要因になっていた。外資については明治三七年から大正二年(一九一三)の間に一七億六、七〇〇万円が輸入され、当時の国内流通通貨量一億三、〇〇〇万円~一億六、〇〇〇万円の水準であったとされるから、外資輸入の規模の大きさを知ることができよう。これにより金融の緩和をみ、金利低下・株価上昇をもたらし、にわかに企業熱の高まりをみせ始める。また中には会社資本金を増資する企業もみられた。
明治年間に設立された松山市における会社をあげると(表商1-18)のとおりである。松山市の会社一覧表の中で新しい時代を反映するものとして、明治三四年設立の伊予水力電気株式会社かおる。明治後期から大正初期にかけて、わが国におけるひとつの大きな革新は電力であった。電力の利用は電灯に始まって次第に産業の動力源として広く浸透していくものである。家庭用・工業用ともその普及は多方面に及び、松山市において設立された伊予水力電気株式会社もこうした時代背景を映していた。かつての、ろうそく・ガス灯・石油ランプの時代から電灯の時代へと移行し、人々は簡単に点灯・点滅ができて、夜も昼と変わらない明るさで生活ができる便益を得ることができた。
伊予水力電気株式会社は、資本金一三万円で取締役社長に仲田伝之<長公>、専務に小林信近、監査役に才賀藤吉といった陣容で創立された。同社が松山で営業を開始してから電力という文字を使った会社が登場する。明治四〇年(一九〇七)創立の伊予電力織布株式会社がそれである。本県においても、家庭の電気利用だけでなく工場においても電化率は着実に進んでいったものと思われる。
さて明治後期における会社設立の波は大正期に入っても持続していた。今少し、この点について述べておこう。
大正三年(一九一四)、第一次世界大戦の勃発は、わが国経済に戦争景気をもたらした。ヨーロッパの戦乱の結果、彼らの輸出市場をわが国が獲得することになった。日本の輸出品は生糸・綿織物・綿糸・絹織物・銅・茶・陶磁器などであった。輸出の拡大は国際収支の慢性的赤字を解消したばかりでなく、海運業界にも好景気をもたらし、国中が大戦景気に沸き返った。この時期のわが国の輸出額をみると大正三年七億八、〇〇〇万円、同四年一〇億円、五年二八億円、六年には二三億円と増加し、七年には三〇億円の規模にふくれた。こうした輸出の拡大は、産業界に設備投資の拡張や企業設立の機会を与えた。また会社利益率では、大正三年上期の一四・八%から大正八年下期には、五五・二%に達する勢いで実業界に意外な利潤を手にさせることになるのであった。この大戦景気で財を築く者もあらわれ、人々は彼らを「成金」と呼んだ。船成金・紙成金・鉱山成金がそれである。
愛媛県でも大戦景気により会社数・資本金総額の急増をみた。大正三年の本県の会社数二三六社・資本金総額一、三七八万八、一七七円、大正六年会社数二六五社・資本金総額一、七七九万四、四五五円、大正七年会社数三〇五社・資本金総額二、三四六万六、七一五円、大正八年会社数四〇九社・資本金総額四、一九三万三、八四〇円、大正九年会社数四八六社・資本金総額七、二八六万九、九九五円と急増した。しかし大正九年ごろから経済は好景気から不景気へと転換し始め、本県の会社数・資本金総額の伸びも、かつての勢いはみられなくなる。
大戦景気に沸き返った時斯に国内で設立された会社の中には、にわか仕立ての会社も少なくなかった。本県でも、これに似た傾向はあったようである。『伊予の銀行物語』の著者大野香月は、その中で大正の好況
期に設立された会社の中で、にわか仕立ての会社がいかに多かったかを社名をあげて例証している。それでも中には良好な経営状況の会社もあるのではないかと思われるが、参考までに大野香月の指摘した会社を列
挙してみよう。
伊予缶詰(三津浜)、大洲酒造、周桑織布(多賀村)、清酒虎の尾醸造(三間村)、肱北製糸(大洲町)、摂津製糸(八幡浜)、 伊予薬業(宇和島市)、東予酒造(角野村)、奥南蚕糸、岡田織布(八幡浜町)、日進舘(川之石町)、堀部商事(宇和島)、伊予製糸(松山市)、伊予木材(長浜町)、周桑製糸(丹原町)、玉津製糸、津島物産(岩松町)、関西商事海運(川之石町)、吉田商業(吉田町)、亀岡製糸(粟津村)、加茂川製材(西条町)、伊予薬品(宇和島市)、伊予鉱業(松山市)、程野舘製糸(大洲町)、本検番(宇和島市)、平和商事(八幡浜町)、日本窯業原料(今治市)、日本織布(宇和島市)、日本織物(松山市)、岩松製糸(岩松町)、芝薬業(八幡浜町)、四国薬業(宇和島市)、三間製材、明間製糸(下宇和村)、西条商事、西条織布、旭起毛(今治市)、共立炭鉱(松山市)、喜田酒造(内子町)、愛媛醤油(新居浜町)、愛媛県製蝋(喜須来村)、杏林堂(宇和島市)、伊予蚕種(天神村)、伊予鉄工(宇和島市)、雪輪サイダー(宇和島市)、三布(松山)、渓筋酒造(渓筋村)、予州蚕業(成妙村)、上浮穴酒造(久万町)、河野製糸(大洲町)、今治製練、今治起毛、伊予酒造(多賀村)、伊予酒造(温泉郡浮穴村)、伊予真珠(内海村)、山内絹織島市工業所、宇和島鉄工所、松山土地、今治織物、今治本検番、伊予醸造(宇和島)、堀部彦次郎商店(宇和島)、丸今綿布(今治市)、大洲肥料、東予蚕種(氷見町)、宇和島醤油研究所、野村製糸、久万索道(温泉郡浮穴村)、八幡浜漁問屋、野村商事、宇和島製糸、卯之町繭売買所、東宇蚕種(野村町)、玉津製糸、竹葉商事(吉野生村)、俵津製糸、宇和島商事、宇和島薪炭、宇和島ビルブローカー(岩松町)、南予物産(吉田町)、宇和嶋物産、南予酒造(御荘町)、長浜製氷、鶴嶋ホテル(宇和島)、南海漁業(宇和島)、宇和嶋土木建築請負、南予蚕種(神山町)、宇和海産(宇和島市)、南予肥料(俵津村)、宇和島米穀
表商1-12 愛媛県の国立銀行 |
表商1-13 第二十九国立銀行 第五十二国立銀行貸出先 |
表商1-14 第二十九・第五十二・第百四十一各国立銀行主要勘定 |
表商1-15 豪農・豪商名簿① |
表商1-15 豪農・豪商名簿② |
表商1-16 宇和紡績会社営業成績 |
表商 松山紡績会社営業成績 |
表商1-18 松山市における明治期設立の会社一覧① |
表商1-18 松山市における明治期設立の会社一覧② |