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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

はじめに

 部門史の商工編は、『社会経済3』と『社会経済4』の二巻構成にっていて、本巻は、『社会経済4』に当たり、商業史・金融史・公益事業史・工業用地工業用水史の四部門を収めている。既刊の『社会経済3』には、産業構造の歴史・工業史・交通運輸史を収めている。
 産業史の観点からみれば、近世以前の社会は農業社会であり、商工業及びそれに付随する金融・交通運輸などの発達は近代社会以降に属するとみる。すなわち、産業革命を軸にして資本主義社会が生成発展を遂げていく過程の中で、農業を切りくずして商工業が展開し、これらの産業が開花するのである。だから、部門史の商工編は、時期区分としては近・現代である。明治以降を主たる対象にしている。
 愛媛県の産業の発達について、大きく言って三つの特徴を認めることができるであろう。
 一つ、愛媛県は典型的な農業県(ないし漁業県)であり、日本の中でも後進県に属してきたこと。かつて愛媛で栄えた木蝋・生糸・綿布などの地場産業は、原料の多くを農山村に依存し、労働力を農村の過剰人口に求めるなど、いずれも農業と結びついて発展し没落したのであった。工業技術の地域での集積が乏しく、低賃金労働力の供給県であるという特徴は、今日もまだ残っている。
 二つ、愛媛県は、本州との交通を海運に頼らざるを得なかったため、海上交通は早くから開けていたが、道路・鉄道などの陸上交通の発達が著しく遅れたこと。国鉄予讃線が全通したのは昭和二〇年であり、国鉄の複線化・電化が今なお全くなされていない、全国的にも取り残された地域である。そのため、同じ県内でも京阪神に比較的近い東予と、遠く隔った南予とでは例えば工業の発達において雲泥の差がある。
 三つ、愛媛県の近代産業の系譜は、残念ながら地場産業の自主的成長にはなく、中央資本による外部からの進出によってもたらされたこと。言いかえれば、愛媛の産業は、中央の経済や産業にリードされながら限
定された役割の上に、受身の発展を遂げてきたということである。加えて、戦前から戦中にかけては、政府の軍事目的が優先的に愛媛の産業を規定した面が大きく、この点でも、愛媛の産業は中央に対して従属的地
位にあったと言わざるを得ないであろう。
 このような事情のもとで、愛媛の商工業を独自のテーマとして研究する動機も弱く、一般の関心も乏しかった。この巻に収められた商業史・金融史・公益事業史・工業用地工業用水史についても、工業史・交通運
輸史などと同じく、これまでに全県的通史は一冊も書かれていない。って、われわれの部門史が各パートにおける県下初の通史となるという厳しい状況は、前巻(『社会経済3』)と共通している。研究の蓄積があまりない分野に対する果敢な挑戦であるから、不備欠陥の箇所は多々あると思われるが、これを踏み台として今後これらの部門史の研究が充実に向かうことを願っておく。
 本巻の「商業」は、明治から大正を経て第二次大戦後に至る愛媛県の商業の発達を概説している。
 愛媛県の商業は、都市の商業よりも、広い農漁村を相手にした商業に特色があり、行商の歴史が重要な位置を占める。なかでも、月賦販売業の発祥の地として知られる今治市桜井の漆器の行商は、全国の商業史の
上でも注目される存在である。この販売形態は、農村の現金収入の季節性・農村の風俗を抜きにしては考えられない。また、愛媛県は農業県であることを反映して、米穀取引所なども早くから整備されており、商工
会議所活動も早くからなされている。松山・今治など県下の主な商工会議所の所史が編さんされていて、本県の商業史資料として数少ない文献であるところから、商法会議所設立以来の商工会議所の発展の歴史についてもまとめている。
 「金融」は、地方銀行の歴史を中心に、明治以降第二次大戦後に至る愛媛県の金融業の発達を概説している。
 愛媛県の金融機関は、各地の素封家・実業家のもとで叢生した小銀行の編成によって発展を遂げてきた。勤倹貯蓄の土地柄と保守的堅実経営の伝統を受けて、愛媛県の銀行は、あまり波風も立てず安定した発展路
線を歩んできたと言うことができる。昭和恐慌とそれに続く金融統制の時代にも、愛媛県の銀行は比較的スムーズに合併と統合を実現して、これらの冬の時代を乗り切ったのである。
 愛媛県の産業の特徴から、愛媛県の金融史において農業金融が独自の重要性をもつと思われるが、本巻では、それについて詳述することができなかった。執筆者は別の箇所(注)で農業金融に関する研究を発表し
ておられ、今後この面での分析が進むことを期待したい。
 (注) 梶原正男、「地域の農業金融の構造と問題点」、(『愛媛の経済と社会』松山商科大学経済経営研究所)
「公益事業」は、一、愛媛県の郵便・電信・電話、二、愛媛県の上水道・下水道、三、愛媛県のガス・電気の三つに分けて、それぞれ明治以降第二次大戦後に至る発展をあとづけている。
 郵便・電信・電話の通信事業は、国営であったから愛媛県でも全国的整備とほぼ並行して発展を遂げてきた。また、これらの事業が軍事的必要から展開されてきたのも一つの特色であって、四国を管轄する逓信省
の支局が当初師団の所在地丸亀に置かれ、変遷の後、第二次大戦の戦時統制下に松山へ移されたのもこの間の事情を反映している。愛媛の通信事業の沿革で地方色を帯びているのは、郵便船が活躍したことと、住友
の別子銅山・伊予鉄道などで早くから私設電話が開設されたことであろう。
 愛媛県は島嶼部が多く、地域的な広がりが大きいために、上水道・下水道ともに普及が遅れ、簡易水道のウエイトが高いのが特徴である。また、水に恵まれた地域が多かったことも、戦前の上水道施設に見るべきものがなかった理由の一半であろう。松山市三津浜・道後地区に最初に上水道が施設されたのは、前者では地下水への海水の混入、後者では、南海地震による地下水の枯渇という緊急事態を生じたためであった。下水道は、今なお、松山・今治など主要都市の一部にのみ設置されている。
 ガス・電気は、明治以降民営事業として、県下または四国の各需要地に分散して経営されてきたが、いずれも第二次大戦中の戦時統合で、四国全域を供給地域とする四国ガス株式会社・日本発送電株式会社(後に
四国電力株式会社)として編成され今日に至っている。
 「工業用地工業用水」は、産業開発政策の確立が全国的にみても歴史が浅く、主として第二次大戦後の愛媛県の工場立地と工業用水の発展について述べている。ただ、戦前においても、西条町(現西条市)と松前
町とは、豊富な地下水を武器にそれぞれ倉敷絹織・東洋絹織の工場誘致に成功しており、工場誘致の前史を形づくっている。工業用水については、愛媛県の大きな河川は吉野川・仁淀川の支流であり、分水問題は、
他県との折衝において多年にわたって政治問題化してきた。
 以上『社会経済4』において、愛媛県の商業・金融・公益事業・工業用地工業用水の発展の足どりを、愛媛県の地域的特徴を浮き彫りにすることを目標としながら、各パートで叙述がなされている。資料の不備・
研究の未熟・紙数の制約などにより、今後に残された問題が多いことは承知しているが、商工編の部門史二巻が、愛媛の産業史に関して、読者にまとまったイメージを与えることができれば、あるいは少なくともそ
のための問題提起になることができれば、編さんにたずさわった者の一人としてありがたく思う。
 どの分野も通史としては未開拓の分野であり、執筆の各委員にとって労多く苦心の存するところであったと思われる。煩忙きわまりない日常の業務に追われながら稿を進められた委員諸氏に対し、心から敬意を表するものである。

                 社会経済Ⅱ部会長 望月清人