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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

六 予土連絡最短ルート(国道一九四号)

 西条地方の南方、高知県との境には石鎚山をはじめ高山が連なり、交通が不便だったにもかかわらず、これを克服して予土両国間に往来があったことを示す記録が多い。
 『西条市誌』(昭和四一年)によると、文明一八年(一四八六)在銘の西条神拝天満宮の鰐口(神殿などの前面の軒先につるす中空偏円で下方が横長にさけている銅製の具。参詣の人が布などで編んだ垂れ緒でうち鳴らす)が高知県土佐郡本川村足谷の観音堂にある。また、応永三〇年(一四二三)在銘の西条飯岡野口保八幡宮の同じく鰐口が高知県吾川郡池川町安居の安居霊社にあり、いずれも西条方面からの予土連絡道路沿いに当たる。そしてこのルートは現在では国道一九四号(昭和三七年国道に昇格)として、距離的には愛媛・高知を結ぶ最短路線として、なお一層の整備が期待されているのである。近年ようやく建設の緒についた四国の高速道路は、いわゆるX型で愛媛県の中予(及び東予の一部)からの予土交通には必ずしも便利とはいえない面があり、国道三三号と並んでこのルートが利用しやすくなると、両県間の交通ルートはうんと幅が広がるからである。

 戦前の苦闘史

 しかし、この道路の建設の歩みは長く、かつ曲折に富むものであった。『西条市誌』によってこれを跡づけてみることにしよう。
 加茂村(現西条市)は、明治二二年(一八八九)の市町村制によって誕生した加茂川上流域の山村である。初代十亀輝太以下歴代の村長がこの道路(当時は里道)の修築に意欲を燃やした。明治三一年には、県道昇格運動を起こしたが挫折。同三六年には村の理事者が高知県側に入り込み、協力を呼びかけたりもした。
 明治末年に至り、愛媛水力電気株式会社が加茂村(現西条市)内の下津池に水力発電所を設置することになり、工事資材運搬の必要上、同社が道路建設費用の一部を負担することになった。これを受けた加茂村は村費の支出を議会で可決(昭和四五年)、旬日のうちに当該里道の改修許可申請書が加茂村長から愛媛県知事伊澤多喜夫宛て提出された。それに添付された理由書は左記のとおり説き起こされている。

  「本村は新居郡西条町より約二里、加茂川の上流僻隔の地にありといえども、川に添ふて高知に通ずる狭隘なる古来よりの路線ありて高知市に達す。実に愛媛県海岸より高知県海岸へ横断する最近距離とす。然るに土地凹凸崎嶇として平坦の地の如きは実に僅少にして行旅は難み、運搬殊に難路とす。本村の如きは面積二万三千有余町歩の山林を有し、土地肥沃にして植林に適す。殊に高知県土佐郡本川村、同吾川郡清水村の如きも我村より遥に以上の山林面積を有し、今や日進月歩の勢をもって造林を為し、近時木材の輸出頻繁なれ共、人馬を労する外更になし、原価僅かの物といえども搬費為に嵩みて高価のものとなり、故に物産ありといえども其利を得ること甚だ少し。茲に於て、旧西条松平藩主が土佐と共通路線を開さくせんと実測したる記録もあり、多年村民の憂慮する処なれども、村財政の許さぬ為にそのままに日を経過するに至りたり。(以下略)」

 ところが、意外な障害が待っていた。その一つは隣接する大保木村(現西条市)が、同村内を経由する独自路線で工事を計画し、各方面に工作し始めたことである。いま一つは、加茂村内の分裂である。村費による負担反対を建前とする反理事者側勢力が工事計画の取りつぶしにかかったのである。かくして大正年間から昭和初期にかけて、この道路の建設事業は何らの進展もみぬまま多くの関係者の神経をすり減らすにとどまった。
 太平洋戦争末期、敵軍が高知県へ上陸することを予想しなければならないという軍事上の理由から、この道路を幅員三mのものとして整備することになり、学徒を含む一般市民も多く労役にかり出された。しかし、終戦を迎えた時の姿は、実用にはほど遠いものであった。

 予土の握手

 戦後になると西条市長十河信二のリーダーシップによって本事業への取り組みが再開され、住友林業など関係企業の資金協力を得て、昭和二三年西条市長高橋菊次郎を会長とし、高知市長を副会長とする予土横断道路期成同盟会が組織され、念願であった両県一体の推進体制ができあがった(同年六月一二日両県の関係者が海抜一、三〇〇mの県境桑瀬峠で感激の握手をした)。名称も予土横断道路と称していたものを「四国中央産業開発道路」と改めることが同意された。
 昭和二九年(一九五四)には新道路法に基づく主要地方道に指定された。また、昭和三七年には前述のように、二級国道一九四号に指定された。しかし、県境を貫く寒風山トンネルの難工事もあって整備事業は遅々として進まず、同三九年七月ようやく同トンネルの開通式を迎えた(着工は三四年)。これによって西条市と高知市の間には、いわば血がつながったわけである。加茂村の取り組みから数えても七五年、西条藩主の計画にまでさかのぼれば一〇○年をゆうに超えるという歴史的大事業が成ったのである。
 しかしながら、その時点での同国道は山間部の各所に整備不十分な区間があり、この道路本来の使命を果たすにはほど遠いものがあった。特に標高一、七六三mの寒風山(現地ではいまでもさむかぜ山と呼ぶが、道路建設関係者がかんぷう山と呼びならわした)の肩の部分を貫通する同トンネルは標高が一、一〇〇mと高く、氷結による交通障害も多いため、新トンネルの開さく工事が昭和五六年から進められている。新寒風山トンネルは延長四、一五〇m(現在は九四五m)、現道よりも三九〇~四〇〇m低い所を通っていて、両端道路の延長の短縮、屈曲・幅員の改良などによってこの区間の所要時間は現在の約六〇分から約一五分に大幅短縮される。
 いずれにせよ、明治・大正・昭和と三代にわたって一〇〇年に近い年月の労苦を刻み込んだ予土連絡道路ではある。