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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 住友の港から市民港へ――新居浜港――

 新居浜港の特質

 新居浜港は県内他港に比べて二つの点で特異な面をもっている。第一は住友私港的な性質をもっていること、第二は、きわめ付きのいわゆる工業港であるということである。元禄の昔の別子銅山開坑以来、住友との縁は長いし、大正期以降住友系の化学・機械・電力などの会社が分離独立して同港に本拠を置いてきたのだから、工業港化するのも当然ではあった。
 新居浜港の発展過程を振り返ると、四つの時期区分、あるいは歴史的指標の設定ができると思う。第一は明治初年別子銅山の盛業につれて住友家の船の出入りが増え、御代島港の整備が行われた時期である。第二は昭和八年(一九三三)から着工した住友家による新居浜港大修築工事である。第三は、第二次大戦後、特に昭和三〇年(一九五五)代以降化学工業を中心とするコンビナート全盛期における工業港の進展であり、第四は、昭和四八年オイルショック以降、脱住友港、脱工業港的な動向があらわれる時期である。これら四つの時期区分に沿って新居浜港の発展を跡づけてみよう。

 新居浜港の基礎づくり

 別子銅山口屋(住友新居浜分店)の荷物船は従来内湾の中須賀に停泊していたが、明治六年(一八七三)蒸気船白水丸が新居浜・阪神航路に就航し、七年廻天丸、さらに康安丸、安寧丸が入港し始めて、貨物のほか乗客も取り扱うようになったので、住友は大型船接岸用地として御代島を修築した。藩政時代、御代島には小さな波止めがあって風待ち、潮待ちの船が寄り、干潮時には島と陸地をつなぐ寄州を歩いていた。住友は明治八年から一三年の間に、島の南を埋め立て、船の発着所を設け、その安全をはかるために防波堤を築造した。また北西角に簡易灯台を設けて一般船舶を含めて出入りの便をはかり、汽船発着所を更に貨客取扱店として、産銅・住友需要物資以外に一般貨客の取扱いをも始めた。これが明治時代の海上交通に大きく貢献すると共に、今日の新居浜港の発祥をなしたものといわれている(『新居浜市史』及び『新居浜開港三〇年のあゆみ』参照)。
 別子銅山を根幹とする諸事業の拡大で、惣開を中心として物資の集散・船舶の出入りが年と共に繁くなり、これに対応する港湾建設の必要が高まってきた。昭和四年(一九二九)に至って、住友別子鉱山㈱は大築港計画を立てた。それは、図交3―10のとおり、港内を浚渫し、その泥をもって七区四八万坪の埋立地を造成しようとするものであった(同図は新居浜市史によるものだが、本文と図の数字が合致しない)。
 当時の住友(新居浜)の責任者鷲尾勘解治常務は新居浜港の築港工事に異常なまでの関心を寄せていた。

  「工業都市たるには、先ず交通機関が第一に必要であって、此処に於ては築港と道路が先ず整備せねばならんのであります」と彼はいっている。彼は本土と海を隔てている四国では、交通は「何処までも海が第一で、次に陸」であると信じて疑わなかった。また彼は「港湾がよければ地方は必ず発展します」と断言している(「新居浜産業経済史」)。

 これだけの大工事だから、当然関係漁民などからの反対・抵抗があった。しかし、「築港は産業の生命線」と常々いっていた当時の新居浜町長白石誉二郎の努力もあって、昭和五年関係者の同意が得られた。昭和四年愛媛県に工事を出願したときに、県が新居浜町に意見を求めたのに対して、同町議会は次のような答申書を提出して賛意を表している。

   「本町は地勢上海陸連絡の使命を完うすべく大港湾を設備し以て運輸交通の要衝となるべき事と、強固なる基礎を有する大工業の発達により諸般の産業又自ら進展するに至らしむる事とは、「町是」の二大眼目にして百年の大計ここに存するを疑はず。今回住友別子鉱山株式会社が出願したる築港計画の要旨は、本町を一大工業地帯化するを目的とし、これに伴う築港を設備し、一面公益に資せんとするものにして、同会社が抱持せる自家の事業と地方の福利とを調和せしめんとする根本方針に基きたるものなれば、如上の町是と合致するものにして、その規模の広大実に国家的事業に属す、依てその速成せられん事を切望す、蓋し漁業組合との関係は会社に於て既に直接に交渉を開始せるを以て、円満解決の速やかならんことを欲して止まざるものなり。」(「新居浜市史」)

 しかし、当時の経済不況のため着工はかなり遅れ、実際の起工は昭和八年五月であり、竣工は同一三年五月のことであった。大住友港が完成したのである。なお昭和一六年(一九四一)から第二次修築計画に入り、一八年には一万トン級船舶が接岸可能な別子岸壁(水深九m)の完成もみられたが、戦争のため一部を除いて中止された。

 工業港の発展と停滞

  戦後、新居浜臨港各工場の態勢立て直しが早かったので、港の復興もす早かった。昭和二六年には新しい港湾法ができるなど港をめぐる法制がかわる中で、新居浜市も左記のような種々の指定を受けて、国際港湾としての体制を備えていった。
  昭和二三年 一月  開港場に指定される。
  昭和二六年 九月  港湾法による重要港湾に指定される。
  昭和二六年一一月  出入国管理令による出入国港に指定される。
  昭和二八年 八月  検疫法による検疫港に指定される(CIQの機能がそろった)。
  昭和二八年一二月  港湾管理者として新居浜港務局設置(全国で初めて)。
  昭和三五年 九月  木材の輸入港に指定される。
  昭和三九年 一月  新居浜市を含む東予地域が新産業都市の指定を受ける。
 この間、新居浜港では高度経済成長初期の昭和三六年(一九六一)から始まった国の港湾整備第一次五か年計画以降、各五か年計画に対応して工業港的機能の拡大・充実がはかられた。一方、四一年には港のマスタープランともいえる新居浜港港湾計画が中央港湾審議会で承認されたが、この計画の中には垣生・黒島・多喜浜地区への港湾区域の拡大が含まれていた点が重要であった(東港地区)。もともと新居浜港の本港区は、前述のように住友資本によって開発された私設港的港湾から出発し、臨海工業の生産活動によって伸びてきた工業港であるため、岸壁をはじめ各施設は大半が企業専用となっている。市域(海岸線)約四〇㎞のうち、港湾管理者の管理区域が約三〇㎞に及んでいるが、その約三分の一が岸壁であり、そのほとんどが住友の私設岸壁で公共岸壁は全体の一〇%にも満たない。港内には商港的施設としてみるべきものはなく、商工総合港湾からはほど遠い。そのため、港湾全体を拡大すると共に機能の複合化を図るため、東港地区の総合的開発が構想されたのである。東港地区計画には、レジャー港区的なもの、ハーバーパーク的な修景などをとり入れる構想も含まれていた。
 しかし、東港地区の整備は四〇年代はなかなか進まず、五三年になってようやく水深五・五mの岸壁が一部完工した。昭和四五年、新居浜・川之江と阪神を結ぶフェリー航路が開設されたが、新居浜港にはフェリー埠頭がないため自動車で乗り込めないという状態が依然続いている。こうした中で、新居浜港の輸移出入貨物量は、昭和四四年の約八一七万トンから五四年の約五七〇万トンと減少傾向をみせている。東港地区の早期整備が望まれる所以である。

図交3-10 新居浜港修築計画図(昭和4年)

図交3-10 新居浜港修築計画図(昭和4年)