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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

八 離島航路と渡海船

 離島の多い愛媛県

 愛媛県下には、大小一六〇余の島があるが、そのうち離島振興対策実施地域の指定を受けているのは、表交3―5に示すとおり、有人島三五、無人島七八、計一一三島である。また、関係市町村は一九である。これを全国数値と比べると、関係市町村数で一〇・二%、有人島数で一二・二%を占めている。全国の一割強という比重である。
 表交3―5はまた、指定年次を示しているが、県内における離島指定の順位には、通常瀬戸内海には含まれない宇和海域の離島(戸島・日振島・嘉島)がまず指定されていることからわかるように、離島とは外洋離島を指すという考え方があらわれている(以下では離島とは、北海道・本州・四国・九州以外のすべての島をいうという定義を前提とする)。県内離島の地理的分布状況は図交3―8に示されている。
 次に表交3―6によってこれら離島のうち有人三五島の昭和五〇~五五年の人口動態をみると、小規模一島(野忽那島)を除いてすべて減少しており(昭和五〇年対比六・四%の減少)、同期間における県全体の人口が二・八%と徴増しているのと対照的である。人口規模の小さい島ほど減少率の高いことは農山村における場合と同様である。なお、愛媛県における離島人口の全国比は八・六%で、他の指標に比べてやや小さい数値になっているが、長崎県・新潟県・鹿児島県に次いで第四位である。
 県内三五の有人島のうち、何らかの形で定期航路のサービスを持つものが三二島、定期航路の恩恵にあずからないものが左記の三島であるが、昭和五〇~五五年の人口減少率はいずれも県平均より高く、航路サービスが離島の地域社会維持に役立っていることの傍証となっている。
 比岐島(今治市)
  人口減少率  三七・五%
 釣島(松山市)
  人口減少率  一三・四%
 竹ヶ島(津島町)
  人口減少率   七・〇%
なお、現在、これらの島においては漁船または農船が輸送手段として使用されている。
    (注) この項は筆者稿「瀬戸内地域における離島航路について」(一橋論叢八七巻一〇号)によっている。

 離島航路の概況

 愛媛県における離島航路の概況をみると、表交3―7に示すとおり、延べ航路数は合計一〇二であるが、うち島・四国本土間航路が約半数の四九とやはり多く、国などからの補助の面でも対象となっている航路の割合が高く全体の七四%を占めている。これがやはり、本土近接島の多い瀬戸における離島航路の主流である。次いで多いのは島相互間の航路で二八航路に達しているが、公的補助の対象となっている航路は比較的少ない。競合航路がある場合は別として、経営主体が個人や超零細企業によるものが多いのもその一つの原因と考えられる。いずれにせよ、これら二類型が離島生活航路の大宗を占めていることは間違いない。経営主体は、民営・法人が主流を占めているが、公営のうち半数が補助対象となっていない点が注目される。
 使用船舶については、表交3―8のとおり、フェリーボートが大半を占めているが、一般旅客船の比重も依然高い。また木船から水中翼船までバラエティに富んでいる。
 表交3―9及び3―10は公的補助を受けている航路を示しているが、魚島・安居島・青島など孤立性の強い小規模島の航路が、当然のことながら収支率が特に悪い。瀬戸内の離島航路の経営は、近年の海上タクシー(旅客定期航路の免許を持たない貸切り高速艇)の増加によって、ますます苦しくなってきている。

 渡海船

 ところで渡海船とは何だろうか。まず、それはこれまでみてきた離島航路の前身である。従って、定期航路が整備されるにつれて衰退してきたことは事実である。しかし、必ずしも完全に消滅はせず、息永く生き続けて、公的補助のついた定期航路とあるいは競争し、あるいはそれを補完している(もちろん後者の場合がほとんどだが)。渡海船は物だけでなく人も運ぶし(必ずしも合法的でない場合が多い)、お客の依頼で仕向地で買い物などの用足しもする。いわば海の便利屋である。ほとんどが一日一往復、朝出て夕方に帰港という形の定期運行だから、行先での用事が済むのを待ってくれているようなものである。このあたりに渡海船長命の秘密があるように思われる。
 明治三三年(一九〇〇)愛媛県は「渡海船営業取締規則」を制定した。その第一条には「渡海船営業ト八日本形五十石未満ノ小廻船を以テ客ヲ乗載シ渡海ヲ営業トスルモノヲ言フ」と定義されている。この時期までにこの程度の小型帆船による渡海船営業が増加してきたのである。県下各地の市町村誌などによって、渡海船の盛衰をみてみよう。
 渡海船が一番多いのはやはり越智諸島~今治間である。

  〈魚島〉 この島では大正一三年(一九二四))早くも魚島~高井神島~豊島~弓削島間に村営の第一魚島丸を就航させて、これが現在まで継承されている。もちろんそれ以前から今治・尾道と結ぶ渡海船があり、明治時代は櫓船((押切船)であったという。現在は今治と結ぶ天狗丸が一日一往復している(昭和五〇年まではもう一隻八幡丸という船が営業していた)。
  〈上浦町〉 『上浦町誌』によると、瀬戸港と今治港を結ぶ渡海船は明治から大正中期まで手漕ぎ船であった。最盛期には四人の業者による四隻の船があり、一日一人ずつ順番制で運行した。今治までの一往復は一泊二日。大正中期ごろから木造焼玉船一隻(越智)にかわり、のち木鉄交造船(藤友)にかわったが、昭和四三年(一九六八)フェリー航路の充実に伴って廃業した。同町甘崎港でも、明治末期から大正にかけて、今治行渡海船は小型帆船と手漕ぎ屋形船の二隻があり、一泊二日の航海に交互に出港していたという。一時、三隻になり順番制をとったが、大正一〇年以降は一隻になり、のち焼玉船にかわった。

 なお、今治港に出入りする渡海船業者の組織である今治小型機帆船協同組合(昭和二五年結成)の加盟業者数は昭和三七~三八年当時四五、同四八~四九年当時二五、昭和六〇年現在一七と減少している。
 中予地方ではどうであったか。『中島町誌』によると、次のとおりである。

   「明治三一年頃まで、各部落とも島外への往来は和船によっていた。これを渡海船(とうかい)またはチョキともいい、おおむね不定期便であり、風波のため出帆できないことが多く、また無風の時は一挺の櫓で漕いだため、乗客もこれを手伝わなければならなかった。ときには三津浜に滞在して天候を待つこともあり、ことに冬期ははなはだ不便であった。一日一回あるかなしかの船便であるから、急用の時などは数挺の櫓で漕ぐ特船を仕立てた。これを「押し切り」と言い、急病人の入院や死者の出た時の縁者の出迎えなど、部落内の屈強の者が頼まれていた。時には暴風のために転覆して、全員海の藻屑と消えた痛ましい記録も残っている。」

 このため、中島町では(当時は東中島村及び西中島村)、明治三一年中島汽船株式会社を興して定期航路を開設するが経営困難に陥り、二か年で廃業し以後多くの業者が航路経営に手を染めるが、いずれも長続きせず戦後を迎える。昭和三三年に至って、ようやく町営汽船が発足し、少なくとも経営主体については安定期に入るのである。この間の過程は中島定期航路苦闘史といってよいほどのものである。
 同町津和地島についても初期渡海船の事情はほぼ同様である。西村亀太郎『ふるさと津和地』によると、明治の中ごろから二本マストに帆を巻き上げて津和地~三津浜を走る渡海船が出現した。大正一五年、渡海船に焼玉エンジンが備えつけられ、三津浜まで日帰りができるようになり、島民は大いに喜び利用者も増えた(焼玉船はポンポン船、あるいは、ポッポ船と呼ばれて親しまれた)。一方神和三島(怒和・津和地・二神)間を結ぶ神和渡海船が、村営で神和村発足の明治二三年(一九〇〇)以来一日二回三島間を運行していたが、当初は船頭一人で手押しの櫓を漕ぎ、風のある時は帆を利用しての往復であった。
 中予の島では安居島を忘れてはならないが、これについては別項でふれる。
 南予地方における事情もほぼ同様であるが、これについても改めて別項でふれることにする。

表交3-5 愛媛県離島振興対策実施地域の指定

表交3-5 愛媛県離島振興対策実施地域の指定


図交3-8 愛媛県離島の位置図

図交3-8 愛媛県離島の位置図


表交3-6 愛媛県における島別人口・世帯数(50年・55年国調対比)

表交3-6 愛媛県における島別人口・世帯数(50年・55年国調対比)


表交3-7 愛媛県における離島関係航路総括表

表交3-7 愛媛県における離島関係航路総括表


表交3-8 離島関係航路における使用船舶

表交3-8 離島関係航路における使用船舶


表交3-9 事業者別国庫補助金交付状況(昭53.10.1~昭54.9.30)

表交3-9 事業者別国庫補助金交付状況(昭53.10.1~昭54.9.30)


表交3-10 地方庁補助金交付状況(昭和54年度)

表交3-10 地方庁補助金交付状況(昭和54年度)


図交3-9 今治・越智諸島間渡海船航路

図交3-9 今治・越智諸島間渡海船航路