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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

六 別子鉱山鉄道

 運搬経路と運搬方法の変遷

 別子銅山は、元禄三年(一六九〇)に赤石山系の銅山越(標高一、二九一m)付近に銅鉱の露頭が発見され、翌年の元禄四年、住友が開発に着手以来、昭和四八年の筏津坑の閉山を最後として実に二八二年間採鉱され、この間の採銅量は七〇万トンを超えた。別子銅山の本山鉱床は角石原から東延一帯にあり、東延坑には本敷部落を中心に、銅山川の支流足谷川沿いの狭小な谷底や急斜面に鉱山集落がみられた。最盛期には一万人を超え、役場や銀行・小足谷劇場や私立の住友尋常小学校もあり、目出度町には分教場も置かれていた。
 明治元年(一八六八)には、赤石山系北部の国領川沿いの渓口にあたる山根には湿式の製錬所が完成した。従来、銅鉱の主な運搬経路と方法はすべて仲持と呼ばれる人力による運搬で、第一次仲持道は、赤石山系東方の小箱越、第二次仲持道として、足谷(旧別子)より雲ヶ原越、石ヶ山丈~立川中宿~新居浜口屋(浜宿)、また第三次仲持道として、銅山越~南石原~馬の背~東平~端出場~立川中宿、ここより第二次仲持道と同じく牛馬で六㎞下の新居浜口屋まで運搬していた。五年の歳月をかけて立川から東延に至る二八㎞の牛車道が明治一三年(一八八〇)に開通し、人肩運搬に比べ安全で大量輸送が可能になった。また同一九年には足谷~角石原間一、〇一〇mの第一通洞が開通し、運搬は銅山越が不要となり、この通洞を牛引鉱車で運搬した。さらに二四年には石ヶ山丈~端出場(打除)間一、五八五mの索道が設置されて大きく変貌した。
 明治二六年一二月に、石ヶ山丈~角石原間五、五三二mの上部鉄道が開通、同年五月、端出場(打除)~新居浜の惣開間一万〇、四六一mの下部鉄道が開通し、両鉄道の敷設により輸送量は飛躍的に増大し、筏津坑、東平の大斜坑などが相次いで開削され、大きく変貌した。鉄道の開通により運搬経路と方法は足谷より牛車で第一通洞、牛引鉱車で角石原(標高一、一〇〇m)、ここより上部鉄道で石ヶ山丈、索道で端出場(打除)へ、さらに下部鉄道で惣開製錬所へのルートに変わった。

 明治中期の新居浜はごくありふれた瀬戸内の漁村で御代島は完全なる〝島″であり、東部の国領川は大部分が水無川となり、遠浅の海岸平野が広がっていたが、元禄四年(一六九一)の別子銅山の開坑によって大きく変貌する。特に鉱石の運搬方法は人肩運搬の仲持や牛車運搬にかわって上部鉄道(角石原~石ヶ山丈間)と下部鉄道(端出場~惣開聞)の「別子鉱山鉄道」が日本最初の山岳鉄道として、明治二六年(一八九三)開通し大きく変貌した。新居浜は別子開坑後、着々と整備され、住
友系五社が集中立地した企業城下町として繁栄した。国鉄予讃線(当時は讃予線)が開通したのは大正一〇年(一九二一)六月である。国鉄の開通により都市化現象は南部にも波及し、下部鉄道も星越より港線と国鉄線を新設し連携をはかった。別子銅山は昭和四八年に閉山、四阪島製錬所も五二年、溶鉱炉の火を消したが、住友コンビナートの存在は愛媛県の経済・文化・住民意識に大きく影響を及ぼしている。

 明治三五年(一九〇二)に東平に鉱石を出す第三通洞が貫通、さらに三八年には東平~黒石間、昭和一〇年には端出場まで索道が設置され、同年、四阪島製錬所が完成したことなどにより、東延の鉱業施設や鉱山住宅は東平へと移設し、昭和二年その下流の端出場に選鉱場が完成した。全鉱石の八〇%がここに集められるようになったため、東平一帯の旧別子(図交2―18の中)には、すでに地名すら見られない。上部鉄道と呼ばれた石ヶ山丈~角石原に至る軌道も撤去され削られ、崖沿いに小径だけが残されている。明治四四年、端出場から第三通洞を通って銅山川流域に抜ける日浦通洞が完成し、地下鉄道の開設により廃止されたのである。よって主要な輸送機関は第三通洞の〝カゴ電車〟として有名な地下鉄道と東平索道となり、端出場から下部鉄道を経て四阪島に送った。第四通洞の端出場坑口が大正四年(一九一五)に開通し大量輸送時代を迎えた。一方、昭和四三年、東平坑の閉山に伴い東平~端出場間の索道は廃止、さらに同四八年の筏津坑の閉山により別子銅山はすべて閉山となり、坑内採石の運搬用に残存していた下部鉄道も五二年遂に廃止され、端出場から分水領南部の日浦に至るカゴ電車も閉鎖され、栄華を誇った旧別子の別子山村は全国でも有名な過疎の村となり、昔をしのぶことすら不可能である。

 別子鉱山鉄道敷設から廃止まで

 別子鉱山鉄道とは、上部鉄道(石ヶ山丈~角石原)と下部鉄道(惣開~端出場〈打除〉)との総称である。上部鉄道は明治二五年(一八九二)五月着工、同二六年一二月開通。下部鉄道は明治二四年五月着工、二六年五月に開通した軽便鉄道である。元禄四年(一六九一)の別子銅山開坑後、約一九〇年間仲持という人肩の運搬に頼っていたが、それには限界があり、銅山の広瀬宰平支配人は明治一三年、一〇万円の巨費をかけて牛車道を急峻な斜面に建設し大量輸送をはかった。その後、明治七、八年にはフランス人技師ラロックを招聘して近代化の方針を策定し、欧米を視察した折、凄い力で走る鉄道に彼は着目し、製鉄と鉱山鉄道の必要性を痛感し、翌二三年より直ちに建設に着手したが、急崖の山腹のため困難を極めた。上部鉄道は標高一、一〇〇mの角石原から八三五mの石ケ山丈間五、五三二mの日本最初の山岳軽便鉄道で、松山の坊っちゃん列車に遅れることわずか五年である。機関車は一台一万六、〇〇〇円でドイツのクラウス社から購入し、機関手も経験者がおらずドイツ人のルイ・ガランドを招き、機関車は部品で荷上げし、山間部で製品に組み立てている。その機関車の重量は一〇トン、四トン貨車三~四両編成で速度一時間に一三㎞、まさにノロノロ運転だが当時は怪物なみで見物客でにぎわったと記録されている。
 鉄道は主に鉱石・粗銅・食糧を運び、時には人も乗せた。急峻な山腹を走る上部鉄道はカーブが実に一一一か所、橋梁が二一か所もあり、軌間七六二㎜の蒸気動力の軽便鉄道である。石ヶ山丈から端出場までの索道は明治二四年(一八九一)に完成し、同四四年第三通洞開通と東平索道が主輸送機関となったため上部鉄道は廃止された。これらの鉄道は一般営業用の鉄道ではなく、住友別子鉱業所の専用鉄道である。
 一方、臨海地、新居浜村惣開(現新居浜市)から端出場に至る下部鉄道は、地方鉄道法に基づき、昭和四年一一月五日付で、軽便鉄道として一般営業の地方鉄道となった。客扱いの区間は惣開~端出場間で、途中に星越・土橋・山根・黒石の駅があり、地方鉄道になった昭和四年末のダイヤをみると、一時間間隔で客扱い列車は運転され、一〇㎞間を約四〇分、二〇銭の運賃である(表交2―17)。地域住民の強い利用希望を背景としてスタートしただけに、通勤・通学のほか庶民の足としてこの〝豆汽車″は親しまれ利用された。しかし昭和五年上半期は一、〇〇〇余円、下半期は三、〇〇〇余円もの営業損益を出している(表交2―16)。
 昭和一一年(一九三六)、星越より新居浜港まで二、〇〇〇mの港線が開通、これにより従来の惣開駅起点は港駅に変更し、四阪島への銅精鉱などは港駅経由となった。さらに同一七年、住友系五社の製品積み出しのため、西の土居から分岐した支線が大正一〇年(一九二一)、開通した国鉄新居浜駅に乗り入れて同年一一月より運転を開始した。この連絡線も昭和二六・七年になると乗客は減少し、二七年、国鉄との連帯運輸を打ち切り、同時に連絡線の客車運行も廃止した。別子銅山の戦後の荒廃からの復興や大量・安全輸送のため、総工費三、〇〇〇万円を投入して昭和二五年四月、鉄道電化が完成し、電気機関車導入などで輸送に威力を発揮した。戦後の復興期を迎えると、交通機関も急速に発展、特に同二四年以降のバスはその典型で、二九年四月瀬戸内バスが路線を端出場まで延長するころから鉄道の乗客は激減し、昭和四年以来、地方鉄道としての多大の功績を残した別子鉱山鉄道は、三〇年一月、再び鉱石専用鉄道に戻った。
 元禄四年(一六九一)より二八〇余年の歴史を積み重ねてきた別子も、昭和四七年の本山坑、翌年の筏津坑の閉山で幕を閉じた。鉄道も本山坑の閉山で主たる使命は終わり、引き続き坑内採石事業を行うため採石輸送で存続したが、昭和五一年九月の台風一七号により立川地区では土砂崩壊が続出、復旧の見通しがつかないまま、翌年の二月一日付で遂に八四年の歴史を閉じたのである。

図交2-17 別子銅山運搬の変遷

図交2-17 別子銅山運搬の変遷


図交2-18 地図でみる別子銅山付近の変遷

図交2-18 地図でみる別子銅山付近の変遷


図交2-19 地図でみる新居浜付近の変遷

図交2-19 地図でみる新居浜付近の変遷


表交2-14 別子鉱山鉄道の概要

表交2-14 別子鉱山鉄道の概要


表交2-15 別子鉱山鉄道敷設出願から竣工までの概況

表交2-15 別子鉱山鉄道敷設出願から竣工までの概況


表交2-16 下部鉄道の地方営業開始直後の営業成績

表交2-16 下部鉄道の地方営業開始直後の営業成績


表交2-17 下部鉄道の運賃・営業粁程表

表交2-17 下部鉄道の運賃・営業粁程表