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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 国     鉄

 讃岐線から予讃線へ

 四国における国鉄の前身である讃岐鉄道は、四国では伊予鉄道に次いで二番目の私鉄として、明治二二年(一八八九)五月二三日、丸亀~琴平間、同三〇年には丸亀~高松間に開通したが、同三七年には山陽鉄道に買収され、次いで同三九年、鉄道国有法により、国に買収されて国有鉄道となり「讃岐線」と称して高松~琴平間を営業した。その後、明治四五年四月、多度津に鉄道院の事務所ができ、瀬戸内海に沿って鉄道建設が進められた。この多度津以西は、すでに明治二五年公布の鉄道敷設法で、四国の予定線の一つ「香川県下多度津ヨリ愛媛県下今治ヲ経テ松山二至ル鉄道」として、すでに決定していたものであった。また明治三〇年六月、「四国鉄道」が私設免許の許可を受けた線路であったが資金繰りがつかず、翌年四月に会社を解散し“幻の鉄道”と消失し、その後は私設免許を受けたものはなかった。
 ところが、明治四五年の第二八回帝国議会で可決された法律第二号で、多度津~松山間が第一期線(建設線)に加えられ、大正初年度より同五年度に至る五か年継続事業となった。予算額二二〇万円で着工され、建設上、多度津線として大正元年一〇月、多度津~観音寺間を起工し、次いで同五年(一九一六)四月、観音寺~川之江間が開通した。四国で初めての官設鉄道で、その建設費は約一六五万円である。これにより県下に初めて国鉄が走ったのである。さらに川之江~伊予西条間は西条線と称し、大正四年法律第二七号で第一期線に加えられ、翌五年五月には、まず川之江~伊予三島間を起工し、翌六年九月に開通した。さらに伊予西条まで開通したのは同一〇年六月である。建設費は約三一四万円である。さらに順調に建設は進展し伊予西条~松山間が松山線として大正七年(一九一八)、法律第一二号で鉄道敷設法中の第一期線に編入され、翌八年の起工から着々と進行した。
 今治・菊間・伊予北条経由で県都松山まで全通したのは昭和二年(一九二七)四月三日である。事業着工以来、実に八年の歳月と約九三〇万円もの巨費を投じて、多年にわたる宿願の北四国臨海線の全通をみ、高松と松山とが直結されたのである。工事途中、鉄道省の建設事務所が大正九年一一月、岡山に移転し、伊予土居以西の工事はすべて岡山建設事務所の管轄で施行された。大正一二年一〇月から讃岐線(多度津~川之江)と西条線(川之江~伊予西条)を合わせて「讃予線」と称したが、昭和五年四月より「予讃線」と改称された。

 松山以南の延長と私鉄の買収

 昭和五年(一九三〇)から一〇年ごろにかけては、四国各地の線区とも延長開業などが相次ぎ、敷設予定計画が最も実った時期であり、松山以南への延長と私設愛媛・宇和島の両鉄道の買収もこの発展期と一致する。
 延長開業では昭和二年四月、松山まで開通した讃予線が重信川を越え同五年二月には南郡中(現伊予市駅)に達し、同年四月には「予讃線」と改称された。これは中国地方の山陽線と発音が似ていて、まぎらわしいためといわれている。さらに七年一二月には三秋の坂を越え、中央構造線沿いの急崖の海岸線を走り伊予上灘へ、伊予長浜まで開通したのは一〇年一〇月である。このように八幡浜線(建設中の名称)は海岸地域の急斜面に苦しみながらも順調に南進した。建設の過程で、長浜より肱川沿いに伊予大洲までは、大正七年(一九一八)に開通した旧愛媛鉄道を内子線と共に、昭和八年一〇月一日、総額一二〇万円で買収し省線に編入した。なお、愛媛鉄道・長浜~大洲間は省線移転後も七六二㎜軌間のまま営業していたが、昭和一〇年一〇月六日、一、〇六七㎜に改軌して本線に組み込まれ創業以来一八年間、地域の産業・文化を促進させ、喜多郡の産業交通史上、その功績は永久不滅と地元紙『伊予新報』が報ずる中〝愛鉄〟は消滅した。国鉄移管に伴う改修工事で、まず愛鉄の始発長浜町駅を東部の山よりに移転した。さらに賀屋(現伊予白滝)から春賀までの区間は河内・八多喜・和田の三つのトンネルを通過していた山間部のルートを肱川寄りの平地に移転し、おのずと八多喜駅も川寄りに移動した。一方、内子支線の若宮(現大洲市)分岐点~内子間は一部ルートを変更して、五郎駅で予讃本線から分岐することとし、同時に改築が終了し、国鉄内子線と改称された。さらに大洲以南の最大の難関は平野~千丈間の夜昼トンネルである。丹那トンネルの掘削に成功した技術陣により、昭和七年八月より起工したものの幾多の難題に直面し、五年六か月の歳月を経て、同一三年七月ようやくレールを敷設した。巨大な経費と延べ人員一五万人を投入し、一、六一〇メートルの本線最大のトンネルが開通した。八幡浜線敷設の予算が国会で決定した大正一四年(一九二五)三月から数えれば久しぶりである。八幡浜まで開通したのは同一四年二月六日のことである。
 大正三年一〇月、宇和島~近永間が開通、次いで同一二年一二月開業していた私設宇和島鉄道は、昭和八年八月一日国鉄に移管されていたが、同一六年七月二日、軌間を一、〇六七㎜に改築完了した。また宇和島より北上して法華津峠を抜け卯之町に至る新線を、同じ宇和島線の名称で同日付で予讃線の一部として開業した。開通時、宇和島~卯之町間は八往復、宇和島~吉野生間は一〇往復運転された。
 宇和島線の部分開通によりとり残された八幡浜~卯之町間の開通に向かって一段と拍車がかけられたが、戦争の拡大に伴う建設用資材の確保と労力の不足に悩みながらも、遂に昭和二〇年六月八日開通し、ただちに予讃本線に編入され、六月二〇日開業した。ここに高松~宇和島間二九七・五㎞、四国最大の幹線が完成したのである。戦争中にもかかわらず、八幡浜~宇和島間の建設が急ピッチで行われた背景には、豊後水道沿岸の防衛力増強という軍部の強力な要請があったことも事実である。宇和海沿岸の大部分は出入りが複雑で後背地に乏しいリアス式海岸の険しい地形で、内陸の小さな谷間を縫って走るルートが選定され、長大トンネルの建設を避ける方法がとられたのが目立っている。

 戦後国鉄の近代化―高速化と無煙化

 四国における国鉄にとっての近代化を代表するものは、高速化と無煙化であり、特に気動車とディーゼル機関車の多量投入による無煙化計画である。
 高速化ではまず昭和三三年、高松~宇和島間に準急「やしま」が登場した。この列車は従来の蒸気と異なり、ディーゼル機関車による四国で最初の気動車準急であり、高松~松山間の所要時間は二一六分に短縮された。その後のスピードアップは同三六年に、四国初の急行「四国」(同上区間を一八五分)、四七年には現在も運行中の特急「しおかぜ」(同じく一六一分)が運行され、本土の幹線並みとはいかないまでも大幅なスピードアップが実現された。一方、無煙化も順調に進行し、四四年度限りで四国の営業列車からSLとして親しまれた蒸気機関車は完全に姿を消し、四国は国鉄で完全に無煙化に成功した最初の地区となった。
 しかし、昭和四〇年に入って急速に進展したモータリゼーション、航空交通の発展、新幹線鉄道の西進、高速フェリー航路発達などの交通変革は、四国の島内交通体系を根底からゆさぶり、国有鉄道の地位・役割りを変貌させてしまった。まさに歴史は繰り返すのたとえどおり皮肉にも鉄道は、明治期のように相互に連絡のない孤立した路線網の体系に主たる役割を変えようとしている。

 国鉄赤字の累積

 昭和三〇年代から始まった奇跡的な高度経済成長に伴い、モータリゼーションの直撃を受けたのが国鉄である。県内の斜陽傾向を輸送人員・取り扱い貨物の推移で見ると、予讃・予土・内子線とも高度成長期の初期は順調な伸展を示しているが、同四〇年度をピークに下降線をたどり、五六年度と比較するとそれぞれ五三、二四、二九%と激減している(図交2―4)。また国鉄主要駅の一日当たりの乗車人員を四五年度と五八年度を比較してみると、全体に落ち込みが激しく、予讃本線は四五年度対比三四%減の約七万三、〇〇〇人、予土線は同じく五二%減の約一、九〇〇人、内子線は同じく五四%減の八一七人と減少した。最大の利用客を誇る松山駅も低落傾向が著しく、約一万〇、三〇〇人が六、四〇〇余人と三八%も減少している(図交2―5)。輸送人員の減少は当然ながら、営業係数(一〇〇円の収入を得るのにどれだけの費用が必要かを示す係数)の悪化にあらわれている。五六年度の予讃本線は二五〇(前年二三一)、予土線六六五(同六一一)、内子線は実に一、二二九(同一、三四四)といずれも赤字ローカル路線であり、特に後の二線はその典型である。しかし、予土線は西四国循環鉄道の一環を形成しており、また内子線は、海岸回りの予讃線にかわる内山線の一部を占めていて、本県及び四国の鉄道網の中で、それなりに重要な役割りをになっていることは否定できない。国鉄の累績赤字は企業体としての限界を越え、毎年の運賃値上げで急場をしのいでいるものの、運賃の値上げは一層の国鉄離れを招来するという悪循環に陥っており、専売や電信電話のように民営化すべきだという、民営分割論が有力になろうとしている現在、本県の国鉄路線の将来は県民ひとしく注目するところである。

表交2-1 愛媛県における国鉄建設開業年譜

表交2-1 愛媛県における国鉄建設開業年譜


図交2-2 粟井坂トンネル付近の線路変更図

図交2-2 粟井坂トンネル付近の線路変更図


表交2-2 開業区間及び及び工事予算表

表交2-2 開業区間及び及び工事予算表


図交2-3 予讃本線と愛媛鉄道線路概略(肱川流域)

図交2-3 予讃本線と愛媛鉄道線路概略(肱川流域)


図交2-4 国鉄輸送人員及び取扱貨物(昭和30年~56年)

図交2-4 国鉄輸送人員及び取扱貨物(昭和30年~56年)


表交2-3 主要都市間の所要時間

表交2-3 主要都市間の所要時間


図交2-5 愛媛県の国鉄主要駅の一日当たり乗車人員

図交2-5 愛媛県の国鉄主要駅の一日当たり乗車人員


図交2-5 愛媛県の国鉄主要駅の一日当たり乗車人員2

図交2-5 愛媛県の国鉄主要駅の一日当たり乗車人員2