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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

五 松山西部工業地帯の形成

 臨海工業地帯の形成

 松山西部工業地帯が形成される端緒は、戦時中に大可賀新田に誘致された丸善石油製油所の建設である。
 吉田浜と大可賀の新田地帯は砂丘または水田をなしていたが、中学生の勤労奉仕で地ならしがなされ、一部に海軍直轄工場として丸善石油製油所が立地するとともに、軍用飛行場・射撃場・予科練などの敷地として供せられた。この広大な旧軍用地あとに港湾施設を整備して、愛媛県及び松山市は、計画的に臨海性の化学工業を誘致した。誘致第一号が昭和工業松山工場(大可賀)であり、誘致第二号が大阪曹達松山工場(北吉田)である。

 丸善石油の再出発

 丸善石油は、三井本社によって株式の三割を保有されていたために、三井財閥の関係会社として財閥解体令に基づく制限会社に指定され、三井本社の持株分は持株会社整理委員会の手に移された。
 終戦直後の占領軍の方針は、国産原油の生産と精製のみを許可し、それ以外の製油所は、終戦時在庫の原油を精製した後は一切の操業を停止するというきびしいものであった。松山製油所も、昭和二一年九月に操業を停止した。同所では、従業員の減員と転職とに苦慮し、製油所の営繕関係を別会社にして、昭和二一年四月に三津浜木工所と松山鉄工株式会社とを独立させた。なお残った従業員約一五〇人の生活のために、在庫の松根油を使って木造船塗料・ペンキ・ワニス・ポマード・靴ずみ・洗剤などをつくるとともに、でんぷんや水飴・ぶどう糖の製造にも乗りだした。しかし、製油所の設備を利用して作業を行うことは占領命令違反となり、事実、昭和二三年五月、松山地検によって工場倉庫と研究室の閉鎖を命じられ、原料・製品など約一、〇〇〇万円を差し押さえられてしまった。丸善石油としては、副業で食いつなぎながら、石油精製復活の日を労使一体となって待機するという姿勢であったから、これを禁じられるということになると大変なショックであった。だが、会社の訴えで総司令部も実情を知るに及んで、その後は黙認の形となった。
 ところで、中華人民共和国が成立する昭和二四年ごろから、アメリカの対日占領政策にも変化がみられ、社会主義勢力に対抗する極東における有力なとりでとしてわが国を見直そうとする動きが表面化した。日本の製油施設についても、それを撤去するという当初の方針を改め、復旧して日本経済の復興に役立てるという政策へ転換をみた。外貨の有効利用という観点からも、製品の輸入ではなく、原油を輸入して国内で精製する必要を生じたから、昭和二四年九月、占領軍は国内数か所の製油所の復元と操業開始を許可した。丸善石油では、和歌山県の下津製油所がこの中に含まれ、松山製油所はまだ許可されていない。
 朝鮮戦争が始まると石油製品の需要も急増し、各石油会社は、相次いで製油施設の増強をはかった。昭和二五年末には早くも、わが国全体の原油処理能力は日量七万〇、七九〇バーレルと戦前水準に戻った。昭和二五年一一月、占領軍がら松山製油所にも操業再開の許可が下りたが、松山製油所が実際に操業を開始したのは、それから一年半近くも経った昭和二七年四月である。
 松山製油所の再開が遅れた事情のひとつは、巨額の設備投資のための資金難であった。丸善石油は、戦前からの取引関係を生かしてアメリカのユニオン石油との間に原油の独占供給と技術援助の協定を結んだが、会社の方針として資本提携については慎重な態度を貫き、民族資本会社の性格を保った。同社は、昭和二四年、資本金六、〇〇〇万円から五億円へ、年間二度の連続大幅増資を行うとともに、四回にわたって総額六億円の社債を発行し、また、外銀(アメリカ銀行)からの借款や、数次の金融機関の協調融資を受けるなど資金調達に大童であった。これらは、主として下津製油所の設備投資金に回され、松山製油所にまでは回ってこなかった。
 再開が遅れたいまひとつの事情は、松山製油所の製造品種の変更である。松山製油所の既設設備の主力は減圧蒸留装置で高級潤滑油製造用のものであったが、当時、潤滑油は生産過剰に陥るおそれがあったので、需要の増加が見込まれる燃料油の製造に切り換えることにし、既存の減圧蒸留装置の常圧蒸留装置(日産四、〇〇〇バーレル)への改造に着手した。これらの検討や手直しのため松山製油所の操業再開は大幅に遅れることになった。
 昭和二八年一二月、丸善石油はアメリカ極東空軍のジェット燃料油JP4の国際入札において日本企業としては初めて落札に成功し、翌二九年に七万五、〇〇〇バーレルを納入した。ひき続きアメリカ極東空軍との間に継続納入の契約をとり結んで、松山製油所が製造を担当した。
 昭和二九年四月、松山製油所の常圧蒸留装置を日量一万バーレルへニ倍半に増強し、昭和三二年七月には、総工費一〇億五、〇〇〇万円の巨費を投じてプラットフォーミング接触改質装置(日量三、〇〇〇バーレル)を完成し運転を開始した。後者は、高オクタン価ガソリンを製造するためのリフォーム装置であり、ヘンゼル博士の発明になるUOP(ユニバーサル・オイル・プロダクツ)社の技術を導入した。この製造技術は、水素気流の中で触媒を用いるため触媒の寿命が長く、触媒再生装置も反応塔切換装置も必要とせず、装置が比較的簡単で設備費・運転費ともに安くてすむという特徴をもっていた。また、この装置は本来、ガソリンの高オクタン価改質のためのものであるが、工程の中で芳香族炭化水素が生成するので、これから石油化学の原料をとり出すことが出来、かつ、ガソリン改質と芳香族製造との相互転換が容易であるという長所をもっていた。
 松山製油所のこの装置は、純プロパンの製造にも威力を発揮し、昭和三〇年代初頭のプロパン・ガス普及時代に丸善石油のLPGはツバメプロパンの商標のもとに販路を開拓し、全国のトップ・ブランドとなった。

 東洋レーヨンと昭和工業

 東洋レーヨン愛媛工場は、昭和一三年四月東洋絹織のスフエ場としてスタートし、戦時中に東洋レーヨン株式会社に吸収合併されたものである。すでに述べたとおり、終戦時の設備能力において全国一を誇り、スフの品質・製造技術においても全国一であった。同工場は、重信川をへだてて、松山市にほぼ隣接する土地(松前町)に立地し、あたかも松山臨海工業地帯の南端を形成する位置にある。
 戦後、主原料のパルプ・薬品が製紙用と競合し供給不足が続くという状況下にあり、石炭・電力の確保もままならない悪条件のもとで、スフ生産が回復するにはひまがかかった。スフ生産が本格化するのは、昭和二四年になってからであり、それまでの間、愛媛工場では、既設の設備を利用して製氷や製塩を転換事業として手がけたことがある(これらは、いずれも昭和二四年に廃止)。愛媛工場では、スフのみが生産され、人絹糸は製造されず、また東洋レーヨンのドル箱となったナイロン糸も製造されなかった。愛媛工場には、滋賀工場のスフ設備が統合され、東洋レーヨンのスフ専門の特化工場として充実がはかられた。艶消スフ・捲縮スフの設備が設けられ、スフの品質・生産量ともに著しく向上した。
 スフの原料としては、製品一〇〇ポンド当たり一一五ポンドのパルプ(品質八九・五%)のほか、一八〇ポンドという大量の硫酸を必要とする。東洋レーヨンは滋賀に硫酸の自社工場をもっていたが、新居浜の住友金属鉱山の方が近くて便利なために、住友との間に緊密な関係を保って硫酸の安定供給を受けた。
 スフは、そのほかにも、製品一〇〇ポンド当たり八五ポンドの苛性ソーダと三六ポンドの二硫化炭素という、大量の化学薬品を必要とする(化繊協会資料)。いずれも劇薬であり、その確保のための貯蔵・輸送にはレーヨン工場はこの上なく神経を使った。特に、二硫化炭素の揮発ガスは人体の粘膜・皮膚・神経系を冒すいわば毒ガスであり、空気と混入すると爆発の危険があったから、長期大量の保蔵は困難であった。そのため、レーヨン製造工場では、自宗工場を経営して二硫化炭素の必要量を過不足なく供給するシステムを採用するところが多かった。その点で、昭和二六年に松山臨海地帯工場誘致第一号として、昭和工業が大可賀に立地したことは大きな意義をもっている。昭和工業は、東洋レーヨンと関係の深い会社であり、東洋レーヨン滋賀工場も、昭和工業の守山工場から二硫化炭素の供給を受けている。
 昭和工業松山工場の操業開始により、東洋レーヨン愛媛工場が使用する二硫化炭素は、大可賀からケミカル・タンカーで海上輸送され、安全確実に供給されるようになった。

 大阪曹達の誘致

 昭和工業にひき続き、翌年二七年に工場誘致第二号として大阪曹達松山工場が吉田浜に建設された。昭和工業が敷地一万五、〇〇〇坪、従業員九〇人と小規模だったのに対し、大阪曹達の方は、敷地五万坪、従業員二一三人とかなりの規模の工場となった。
 大阪曹達は、苛性ソーダを主力とする化学薬品メーカーであり、製品の大部分を合成繊維メーカーに供給した。松山工場は、昭和二七年九月二二日に操業を開始し、その年度に、苛性ソーダ三、八四〇キログラム(一億九、二〇〇万円)、晒粉九、八四〇キログラム(四、五〇〇万円)、合成塩酸二、〇四〇キログラム(二、二〇〇万円)、液体塩素一、三二〇キログラム(四、五〇〇万円)の生産実績を挙げている。
 同社は、丸善石油と同じく、三和銀行グループに属し、同社の大株主には大需要者の帝国人絹・旭化成が三和銀行とともに名を連ねている。大阪曹達が松山に進出した理由には、愛媛県で合成繊維・製紙向けのソーダ需要が見込まれることと並んで、帝国人絹の三原・岩国工場への海上輸送が便利であったこと、丸善石油の縁故があったことなどが挙げられる。昭和三〇年に吉田浜の大阪曹達隣接の地に帝国人絹松山工場が設立され、原料供給関係においてコンビナートを形成することになった。

 帝国人絹の松山進出

 帝国人絹株式会社は、わが国における化学繊維の草分けであり、戦前から数えて三五年の長い間わが国化繊工業の王座を占めてきた。しかるに、昭和二九年、朝鮮戦争後の不況期以降、帝国人絹は、東洋レーヨンと旭化成にも抜かれ第三位に定着するという、かんばしくない事態となった。帝国人絹の松山進出はこの時期における一つの打開策であった。
 戦後、帝国人絹は、なぜ伸びなやんだのか。それは、帝国人絹が守りの経営に陥り、新製品への進出に消極的だったのが最大の理由である。この時期に東洋レーヨンと倉敷レーヨンとは攻めの経営をとり、それぞれナイロン・ビニロンの工業化に成功している。
 しかし、新しい繊維の商品化は決して生やさしい道ではなかった。東洋レーヨンは、三井物産の子会社であった関係から早くからデュポンの技術情報を入手し、戦時中にナイロン・テグスの試作に成功するなど技術的蓄積があったにもかかわらず、また、三井油化との原料上の連係という好条件があったにもかかわらず、ナイロンに成功するためには苦しいハードルをいくつも越えなければならなかった。まず、デュポン社に支払ったナイロンの特許料は、資本金七億五、〇〇〇万円の東洋レーヨンの屋台骨を揺るがすほどに巨額で一〇億八、〇〇〇万円にのぼった。その上、当初の糸は品質がよくなくて売れ行きが悪く、昭和二七年ごろには、六~七か月分の在庫を抱え、累損が一〇億円に達するという時期があったのである。新製品への進出が大変な冒険であったことを示している。
 戦後のわが国の合成繊維の開発は、ポリアミド系のナイロンを敬遠し、ビニール・アルコール系のビニロンに集中したところに特徴を有している。これには、ナイロンがデュポンの特許に抵触し、多額の技術提携料を要し、かつ、当時のわが国の石油化学工業の実状では原料面での見通しが立ちにくかったという事情があった。これに対し、ビニロンは、原料のカーバイドの調達が容易だったから、京都大学桜田教授の研究になるビニロンの工業化に繊維各社が群がり、昭和二五年までに九社が殺倒したのである。けれども、ビニロンにしても、品質・生産費の両面で多くの困難があり、鐘紡・東洋紡・三菱レーヨンなどの有力メーカーが昭和二七年ごろまでに工業化を断念して脱落し、悪戦苦闘を乗り切ったのは倉敷レーヨン一社にすぎなかった。
 この時期に、帝国人絹は合成繊維工業化の戦列に全く参加せず、大きく立ち遅れてしまった。それは、朝鮮戦争をきっかけとする異常な糸ヘンブームのせいであった。スフ・人絹の価格が半年で三倍以上はね上がり、屑糸や不良糸でも売れるという糸不足の状態だったから、新製品のリスクを冒さなくても莫大な利潤が得られ、それに安んじてしまったのである。帝人社史『帝人の歩み』は、この時の状況を反省して、「宴会費が巨額に上り、ゴルフに熱中するのあまり、ウィークデーに重役の姿を見かけぬようなことさえ生じた。わが社の後年の斜陽化は、これまた実に朝鮮動乱ブームに端を発したのであった」(七~八四頁)と率直に述べている。また、「この東洋レーヨンの営々たる開発の努力、惨憺たる産みの悩みの苦しみを見て、当時のわが社の人々はこれに感銘を受けるよりは、むしろ白眼視して″あんなものに手を着けるから余計な苦労をして、レーヨンの利益を食い潰すのだ″などと、冷笑する人さえ多かった」(七~一九九頁)とも述べている。
  * 帝人社史は、自讃の社史が多い中では異色であって、内部の誤りについても飾ることかく冷静に分析を加えている勇気ある記録である。
 帝国人絹は、合成繊維への進出について慎重な態度をとり、一気に合成繊維へは行かず、段階的に半合成繊維(従来の再生繊維と合成繊維との中間)のアセテートから手がけることにした。これは、技術的には手がたい方法であったが、帝国人絹の合成繊維への展開を遅らせる結果となってしまった。
 同社の松山進出の意向が固まったのは昭和二五年であったが、岩国工場の研究所でのアセテートの企業化研究はやっと緒についたばかりであった。アセテートは、天然糸(絹)に近い風あいをもち、染色性が優れているなど、しわになりやすい欠点はあっても、糸としての魅力をもっていた。原料のアセテート・フレークは、大日本セルロイドから供給を受けることにしていたが、価格・量・質の諸点で問題を生じたので、アメリカのハーキュレス社の製品を輸入することになった。帝人とハーキュレス社の密接なつながりは、この時から始まっている。帝人研究所アセテート科の科長井上誠一がアセテート開発の責任者であった、昭和二九年に彼は松山工場の副工場長として赴任し、松山工場建設の指揮をとった。昭和三〇年一〇月、松山工場は、アセテート製造工場(第一期日産一〇㌧・当初五㌧)として操業を開始した。この時の従業員数は、男二三五、女一五四、合わせて三八九人であった。

図工4-1 昭和30年代の松山臨海工業地帯

図工4-1 昭和30年代の松山臨海工業地帯