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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

五 労働力不足と労務動員

 国家総動員法と労務統制

 昭和一三年四月一日、国家総動員法が公布され、労務・物資・資金・施設・事業・物価・出版の七部門に対し強力な国家統制を行い、国の全力を挙げて戦争目的の達成に注力することとなった。総動員法において大きなウェイトを占めたものは、労務統制・国民登録制・技能者養成など戦時労働対策に関するものであった。とりわけ、賃金統制令は、当時の労働力需給の逼迫、中でも熟練工不足による賃金の高騰を防ぎ、必要物資の価格の上昇を抑えようとするものであった。
 昭和一五年三月一日、国家総動員法第六条に基づいて青少年雇入制限令が実施された。これは、軍需産業・生活必需産業で甚だしくなった労働者不足に対処すべく、これら重要産業に重点的に労務動員を計るためのものであった。この法令で、青少年というのは満一二歳以上三〇歳未満の男子と満一二歳以上二〇歳未満の女子を指すのであるが、特に男子の雇用の制限がきびしく、主要産業とみなされない商店などでは、昭和一四年一二月末の雇用数の七割を割るに至らなければ、原則として補充も新規採用も認められなかった。女子については、料理店・酒場・貸席・娯楽業など厚生大臣が特に指定する業種で雇入れが制限されただけであった。だから、ほとんどの職種で女性の進出がめざましかった。
 昭和一六年の日米開戦以後は、中小商工業の整理統合と緊急産業部門への労働力供出がいっそう強力に推進され、学生生徒や年少者女子までが軍需産業に動員された。愛媛県下でも、各地に国民職業補導所が設けられ、国民労務手帳の交付により「時局産業」への就職・転職を推進して行った。愛媛県の昭和一六年春の新卒について見ると、国民学校卒業生の約四割、中等学校卒業生の約二割五分が国民職業補導所を通じて軍需産業などの労務動員計画産業に就職させられている。国民職業補導所には、商業・地場産業からの転職を促すための機械工補導所と称する養成機関が設けられ、「生半可な商業をいさぎよく転業せよ、お国のために生産工場のハンマーを握ろう」というキャンペーンが行われた(『海南新聞』昭和一六年八月一三日号)。
 さらに、昭和一六年一二月八日、日米開戦の日に労務調整令が公布され、重要産業の従業者の解雇・退職を制限して、退職には国民職業指導所長の認可を要することとし、主要産業の労働者の拘束を強めた。同時に、青少年雇入制限令の範囲を拡張して、男子は従来の三〇歳未満を四〇歳未満に、女子は従来の二〇歳未満を二五歳未満に変更したのである。

 工業労働者の払底

 戦時中の愛媛県の工業労働者数は、青壮年男子を兵役に取られて、減少の一途をたどった。それでも、昭和一七年までは、製造業務労働者数は五万七、○○○人を維持していて、まだ昭和一四年水準の八三・九%を保っていた。それが終戦の年昭和二〇年には三五・二%と約三分の一に縮小している。昭和一四年(一九三五)と比べて、特に減少が激しく残存率が小さいのは、食品工業の一二・六%、印刷工業の一二・八%、繊維工業の二二・八%などの生活関連産業であった。これに対して、労働力の確保が計られた機械工業では七五・八%、金属工業では六一・五%の雇用水準を終戦の年にも維持していたが、労働者の減少はまぬがれなかった(表工3-27)。
 これらの労働力不足を補うために、中小商工業者や生徒などで勤労報国隊が組織され、昭和一七年だけで延ベ一二万〇、〇二一人が動員されている。勤労報国隊は、住友化学・住友機械・波止浜船渠・東洋レーヨンなど県下の主要工場に派遣されたほか、県外にも出動した。昭和一七年の正月からは、愛媛県下の各工場は元旦を除く年末年始の休業を廃止し、盆休みも返上して、戦争のための物資の生産に励んだ。
 労働力不足は深刻をきわめ、その給源は女子・年少労働者に求めるよりしかたがなかった。
 女子労働者については、昭和一八年秋以降、女子勤労動員促進要領によって女子勤労挺身隊が組織され、一四歳以上の未婚の女子に対して集団的に工場動員をはかった。一例を挙げれば、昭和一九年(一九四四)三月に西条国民動員署管下の女子勤労挺身隊員二〇〇余人中八〇人に一か年間の動員命令が下り、住友アルミ(三五人)、住友機械(一五人)などに配置されたというごとくである。
 年少労働者については、昭和一九年には、中等学校三年生以上の男女生徒が授業を休止して県下の兵器工場へ四か月の勤労動員をかけられ、四阪島のごときは国民学校(高等科)の男子生徒までが工場へ駆り出された。倉敷絹織西条工場で幼年工七〇人で倉絹少年進撃隊が結成されたのは昭和一七年秋のことであったが、昭和一八年には住友機械の至誠寮では少年工を収容して「寮生活の兵営化」が実施されたという。
 労働力不足対策としていまひとつ重大なものは、昭和一八年六月一六日に公布された『工場就業時間制限令』の廃止である。これによって工場法に定める一六歳以上の男子の一二時間制が撤廃され、年少労働者についても「一日一一時間以上の就業又は深夜業の禁止」の条項が解除された。併せて、女子・年少労働者の鉱山坑内作業も認められることになった。

 昭和二〇年の工場ルポ

 終戦の年には、資材の不足も労働力の不足も極限に達し、その中で軍需物資の生産に懸命の努力が傾注された。そのなまなましい状況を当時の『愛媛新聞』(昭和二〇年二月一七日号、二月一八日号)の工場査察記の一端からうかがい知ることができる。
 「丸善工場 ……この工場の特色は従業員の大部分が中小商工業から転廃して来た人々であるということである。……忌憚のないところ全体的の出勤率においては長期にわたる欠勤者のあったために表面の数字は必ずしも向上はしていない。しかしながら従業員の個々における出勤率はいずれも非常な向上をみせてぃる。この成績がどこから来ているか、すなわち同工場独得の試みというべき〝出勤隣組〟の実行がこの成果をあげている事実を見逃すことはできない。この〝出勤隣組〟は工場内の各課各班を通じて一〇名を原則にそれぞれ隣組を組織し、これによってお互いに極力出勤を励行するとともに万やむを得ざる以外は絶対に欠勤しないという鉄則が成功したのである。」
 「倉敷工業製作所 工場内には火の気は全然ない。しかも冷たい鉄類を手にし、油を扱うのであるが、熱意をもって当たるために誰一人苦痛を訴えるものがない。ここには松山高女の三年生全部と今治国民学校児童・今治工業学校生徒らが出勤しておるが、感激性の多い若い学徒たちは、ここの製品が新兵器であるだけに、〝僕たちの作ったもので敵を叩き潰すんだ〟〝わたしたちの作ったもので敵を倒すんだ〟との意気に燃え盛っている。今後の労務は学徒で行くよりほかないという結論に達し、勤労・事務・工場ともに職制を変更、専門的の人を配しての体制をキチンと整え、あすへの備えの万全の布陣たらしめている。」
 「○○○船渠(波止浜船渠を指す) 学徒は、松山経済専門と越智中学から来ているが、他の工員とは仲がよすぎるほどだ。われわれの見たところでは学徒が入ってから工場の空気が清くなったとのことであれば、学生らしい純真さに工員も同化されているというのが本当で学徒の職工化を憂うるの要はあるまい。造船所といえば何にしろ重量のあるゴツゴツしたもののみを扱うので怪我人の生ずるのが通例だが、不思議にもそれがない。」

表工3-27 戦時中における工業従業者数の推移

表工3-27 戦時中における工業従業者数の推移