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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

四 軍需産業の展開―造船・機械

 軍需産業としての造船

 太平洋戦争において、海に囲まれたわが国は制海権(その一環として制空権)が致命的重要性をもっていたから、造船業は、軍需産業として最も重要な役割を担うものであった。とりわけ、艦艇と大型輸送船の建造が焦眉の課題であった。日米開戦直後の昭和一七年(一九四二)二月から、長さ五〇メートル以上の鋼船を建造する造船所は、艦艇を建造する造船所とともに海軍艦政本部の直轄のもとにおかれることになった(これらの造船所を甲造船所と呼んだ)。
 当時、わが国の造船所の主力は、三菱長崎・川南香焼島・三井玉野・播磨相生の四つの造船所であり、昭和一七年から一九年までの甲造船建造量(艦艇を除く)三三八万トンの三七%を占めた。これに日立因島・浦賀・三菱神戸などを加えた大手一六造船所で約八割に達した。
 愛媛県の造船所は、漁船・渡海船など小型の木船をつくる小規模のものばかりであったから、県内には、軍艦を造修する造船所は一か所もなく、甲造船所の指定を受けたのは、波止浜船渠(後の来島ドック)ただ一社であった。波止浜船渠は、戦時計画造船に参加した約四〇社の中では最も小規模の造船所に属し、一D型・二D型戦時標準貨物船七隻(会社資料)を建造したにとどまる。太平洋戦争中に竣工した甲造船所の貨物船総数は九七五隻であるから、全体に占める比重は微々たるものである。

 二D型戦時標準船

 戦時標準船は、戦略物資・人員の輸送に必要な船を大量かつ迅速に建造するために、設計・材料・部品・工数などを最大限に規格化標準化した船である。鋼材その他あらゆる資材が不足し、航空機や艦艇の建造を優先しなければならなかった情勢の中で、輸送船についても船腹量の確保が要請されたので、船舶安全法・鋼船構造規程を「尊重はするもあえてこれに拘泥しない」という思い切った規格の簡略化がなされた。
 第二次計画造船の戦標船は、鋼船構造規程に定めてあるものより鋼材を約二〇%節減することを目標に、二重底を廃止し、機関を船尾におき、諸設備装置は極力簡易化された。そのうち二D型というのは、貨物船を大きさの順にABCDEのランクに分けたDランクで、二、〇〇〇トン級の近海船であった。機関はピストン(円缶)で石炭をたいて走ったが、航海速力九ノットという低速船であった。これは好んで遅くしたのではなく、わが国の船舶用機関の製造能力がすでに不足していて、船体の建造に追いつかなかったのである。二D型戦標船は、日本海軍が日本近海の制海権を完全に握るという前提の上に立っていた。
 二重底を廃止したのも、船の安全よりも鋼材の節約を重視したためであり、機関及び操舵室を船尾にもっていったのも推進軸が短くてすむという理由からであった。二重底がないためトリム調整が困難になり、満船では船首がつっこみ、空船では船首が上がりすぎて前が見えないという、危険この上ない船であった。

 波止浜船渠住友傘下へ

 波止浜船渠は、明治三五年(一九〇二)に木造船の建造と修理のために設立された古い前史をもつ造船所である。大正一二年(一九二三)、苦況に陥ったこの会社を、三津浜の造船業主石崎金久が経営をひきついで立て直しをはかった。昭和五年(一九三〇)には、資本金四〇万円に増資し、造船のほかに呉海軍工廠の下請工場として各種砲弾の製造を手がけるようになった。これは、波止浜船渠が金属加工の設備をもち、一定の精密加工の技術を有する工場にまで発展してきたことを示している。
 しかし、戦時の資材統制がきびしくなる中で、再び波止浜船渠の経営は難しくなり、昭和一五年一〇月、資本金を倍額の八〇万円に増資し、住友鉱業及び住友機械製作の資本参加を求めて住友資本の傘下に入った。だから、波止浜船渠の社章は、住友の社標の井桁の中にスクリューとおぼしきものが鎮座しているものであった(図工3-15)。 住友財閥は、系列下に三菱・三井のような造船部門をもっていなかったから、波止浜船渠に急拠二、五〇〇トンと三、五〇〇トン(後者は終戦まで未完成)の船渠各一基を建設して、甲種造船所の指定を受けることにしたのである。政府も、国防上の見地から造船所を京浜や阪神の既成工業地帯から地方へ分散する計画であり、造機工場と造船工場も分離する方針であったので、波止浜の地は理想的立地条件であった。波止浜は、住友の新居浜・日鉄の姫路・北九州とも一定の距離がありながら、海上輸送の便が最適の地であったからである。また、住友機械製作は、後に述べるようにクレーンの製作を得意とし、呉海軍工廠のために作業や特殊鋳物を製作してきていたから、波止浜船渠の旧式の工場を中規模造船所に改造するには好都合であった。
 当時の波止浜船渠の造船所としての実力は、甲造船所の中では最下位クラスに属し、設備・技術・熟練などの関係で建造に手間どり、船台期間が長い。三井玉野などの一流造船所は、より大きい二A型(六、四〇〇トン)の一隻当たりの船台期間が三〇日であるのに対し、波止浜船渠は、二D型(二、三〇〇トン)の船台日数が一〇五日となっている。このように徹底した設計・工程の標準化のもとでも、造船所によって建造日数の格差を生じたが、その状況を表工3-26に示しておく。九州造船や笠戸船渠は、波止浜船渠よりももっと能率が悪く、船台期間一二○日を要した。
 波止浜船渠は、甲造船所指定の際、船渠二基の建設を計画して着工したが、戦時中稼動できたのは、二、五〇〇トンドックの方で、三、五〇〇トンドックは終戦まで未完成であった。しかし、後者は、D型船の典型的量産ドックに拡充して四、〇〇〇トンとし、四〇トン起重機による大ブロック構造など新しい造船技術を導入する計画になっていた。これは、第二次大戦後の愛媛造船業の飛躍的発展の素地を形づくったものとして注目に値する。

 木造船の戦時統合

 造船業の戦時統制は、木造船にも及び、資材と労働力の確保の面で個人造船所は、きびしい状況に追い込まれた。昭和一五年(一九四〇)暮れ、今治・波止浜の個人造船業六社が合併して今治造船有限会社が設立されたのである。六社というのは、桧垣造船・村上(実)造船・渡辺造船・村上造船・吉岡造船・黒川造船の各社で、個性の強い個人業主がしぶしぶにせよ企業合同を実現したのは時勢の力というほかない。今治造船有限会社の社長には渡辺造船所社長の渡辺弥平が就任した。
 同じ昭和一五年に、今治には、もうひとつの造船所が生まれている。今治船渠株式会社がそれである。こちらは全くの新設会社で、愛媛無尽相互をはじめ今治市内の有力業者が出資して作られたが、造船には門外漢のものばかりの集まりであった。ただ、新設の設備と波止浜にのぞむ立地条件と経営者の資力とをたのみに、戦争のために本業を圧迫された商工業者が、国防産業として発展が期待できる造船業界への展開をはかろうとしたのであった。
 今治船渠の設立後間もなく、四国海運局は、技術に優る今治造船有限会社と経営力に優る今治船渠株式会社との合併を強力に指導し、今治造船側の強い抵抗を押し切った形で、昭和一八年九月、両者は無条件で合併して、今治造船株式会社となった。資本金三九万一、〇〇〇円、初代社長には、今治船渠社長村上潔(愛媛県無尽相互社長)が就任した。
 木造船についても、資材と工数の節約のために戦標船が設計され、今治造船では、一五〇トン型を主力に、七〇トン・一〇〇トン・二〇〇トン・二五〇トンの各標準型木造貨物船を建造した。船大工が「三角のにぎりめし型」と悪口をいった木造戦標船は、まっすぐの板で囲った角型であり、船体の丸味を失ってしまった。スピードと安定性を犠牲にしても、熟練と工数が少なくてすみ、短時日で作れる船型が要請されたのである。
 このほかに、今治造船では、陸軍将校の監督のもとに木造二〇トンの上陸用舟艇も建造したが、肝心のエンジンが手にはいらず、構内に出番を待つ舟艇が三〇隻ほど並べられていたことがあったという。
 戦局たけなわの昭和一八年には、西造船など数社が企業整備による合併によって伊予木鉄造船株式会社(後の波止浜造船)を設立した。波止浜船渠が完全に住友の手に移った後に、波止浜船渠の経営者だった石崎金久が伊予木鉄造船の社長に迎えられた。その後も、伊予木鉄造船と波止浜船渠との間には提携関係があり、終戦の年の航洋曳船(木造)の建造計画では、船体を伊予木鉄造船が製作し、艤装は波止浜船渠が行うことになっていた。木鉄船は鋼材を約四割節約できたが、工数が五〇%近く増えること、木工の熟練を要し量産に向かないこと、建造期間が長びくこと、鋼材で補強しても強度は鋼船に劣ることなどの理由で、海軍もその建造にはあまり熱を入れなかった。

 住友新居浜製作所の充実

 昭和三年(一九二八)に新居浜製作所が別子鉱山から分離独立して以来、技術の遅れをとり戻すために、外国の最新技術を積極的に導入した。特に重要なものは、スイスのブラウンボベリー社(BBC)のBC式電気炉のライセンス獲得と、ドイツのデマグ社の起重機の技術提携であった。
 昭和六年(一九三一)から三年もの間、デマグ社の技師長ガーレップが新居浜に滞在して、起重機製作の指導に当たった。これによって新居浜製作所は、起重機メーカーとしてわが国のトップクラスの地位を獲得した。住友・デマグ式ラッフィンクレーン(水平引込起重機)は、ジブが最大半径から最小半径の間で自由に調節できるようになっており、ジブの前後運動を旋回運動だけで荷物を水平に運搬できるという画期的なものであった。これは、ジブ固定式の従来のクレーンに比べて、狭い場所でも起重機の位置を変えずに自由自在に運動するから、作業能率を著しく改善することができた。
 昭和六年には、鋳物工場の改築が完成し、精度の高い部品や、構造物の鋳造が可能となった。

 住友機械製作の軍需傾斜

 昭和九年(一九三四)一一月、新居浜製作所は住友機械製作株式会社(資本金五〇〇万円)に改組された。会長には小倉正恒、常務には三村起一が就任した(当時、住友では、住友本社以外には社長を設けず)。
 そのころ、満州における鋼管不足に応ずるために満州住友金属工業株式会社が設立され、満州産業開発五か年計画に伴って機械類の需要が急増し、また、国内製鉄所からの起重機の受注が相次ぐという状態であったから、住友機械製作は、工場設備の大増設にとりかかった。昭和一〇年以降、第一期起業として仕上工場、第二期起業として鉄工工場、第三期起業として事務所その他の増改築に着手し、二年後にほぼ完成をみた。
 昭和一二年には、住友機械は軍関係の注文に応じるため特殊大型鋳物工場の建設に着手し、呉海軍工廠の発注で超弩級戦艦建造用作業機、大型インゴット・ケース、鋳鉄弾などを製作し、陸軍造兵廠の発注で横型圧縮機・起重機・電気炉などを製作した。軍機保護法に基づく秘密工場に指定された同社は、昭和一五年には海軍管理工場の指定を受け、兵器生産のための特殊金物工場の建設、既設設備の拡張が行われた。波止浜船渠を傘下に収め、甲種造船所の兼営に乗り出したのもこの年であった。
 愛媛県の行政資料によれば、昭和一四年における住友機械製作の工場敷地約五万五、〇〇〇坪、従業員は二、二八八人であり、住友化学新居浜製造所の三、〇九一人に次ぐ県下第二位の大規模工場であった。太平洋戦争開戦の年昭和一六年には、住友機械の生産額は一、二〇〇万円に達し、そのうち八割までは軍関係の受注で占められた。戦局の激化とともに砲弾・魚雷などの兵器の生産が増加し、沖縄作戦に使用された尺金物と称する兵器もここで製作された。

 国家総動員法と軍需産業への転換

 昭和一六年(一九四一)三月の国家総動員法の強化によって、民需の消費財産業部門と中小商工業の多くは転廃業を余儀なくされ、その設備・資材・労働力の軍需産業への転用が強行された。昭和一六年六月には、ドイツとソ連とが開戦し、シベリヤ鉄道経由でわが国に入っていたドイツの機械・化学薬品などが途絶したので、物資資材の供給はますます苦しくなった。太平洋戦争開始後は、軍需生産への傾斜がいっそう強化され、企業許可令・企業整備令の二勅令によって産業全体の整理が国家の強権さを通じて実施されていった。

 紡績業の企業整備倉敷紡績の場合

 愛媛におけるケースを倉敷紡績についてみてみよう。
 昭和一六年八月、政府は全国の紡績工場について、操業(A)、休止(B)、閉鎖(C)の三種に区分し、遊休設備を軍需産業など緊急を要する部門へ転換させる方針を打ち出した。これを受けて紡績連合会は、全国二七一工場、一、三〇二万錘のうち、能率のいい設備約五割をAとして操業させ、これに次ぐ設備約三割をBとして戦後の複元が可能な状態で存置し、残り約二割をCとして閉鎖し徴用に応ずるという案を作成した。しかし、陸海軍はこの案に満足せず、戦争遂行に必要とあればA級B級の設備でも供出に応ずることを要請し、紡連側も協力を約束せざるをえなくなった。
 C級の設備については、早急にスクラップ化して鉄屑を提供する計画が立てられ、昭和一七年度末までに達成された。紡績連合会で、登録錘数の二割に当たる二二八万一、一四五錘、鉄屑量にして七万トンを供出し、スフ紡績工業組合も、登録錘数の二割に当たる三六万一、三五二錘、鉄屑量にして一万トンを供出した。
 倉敷紡績も、一七工場八四万五、四一二錘について、万寿工場など七工場四一万〇、八九二錘をA、倉敷工場など七工場二六万五、七四〇錘をB、長崎工場など三工場一六万八、七八〇錘をCの三クラスに区分した。愛媛県に関していえば、北条工場五万七、二〇〇錘、今治工場三万二、四〇〇錘はA級にランクされており、松山工場二万〇、九一二錘はB級に含められている。県下の倉紡工場でC級に指定されたものはなかった。C級工場は紡機を供出した後、工場・寄宿舎などの建物施設を軍需工業に転用されたが、倉敷紡績の場合も、昭和一六年に長崎工場を三菱重工業長崎造船所に売却するなど三工場を処分している。
 紡績用原料が極度に逼迫する中で、B級の松山工場は細々とスフを紡出していたが、昭和一七年六月に遂に操業を休止した。この時までに倉敷紡績のB級工場、堺・枚方・坂出の三工場が操業を休止している。
 航空機増産が急務となった昭和一七年秋、三菱重工業は、海軍大型攻撃機を製作するために水島航空機製作所の建設に着手した。水島は一漁村で関連工場が皆無だったため、航空本部と三菱重工業とは、倉敷紡績の主力工場万寿(A級)・倉敷(B級)の二工場を金属加工工場に転換することを求めてきた。紡績業では、操業工場を登録錘数の五割から三割へ圧縮するなど企業整理の強化は必至の情勢であったから、倉敷紡績も、国策に沿い、三菱の協力工場としてこれら二工場を航空機関連事業に転換することに決めた。そして、三菱から金属部品の供給を受け、この転換工場で、板金・組立作業を引き受けて海軍攻撃機の翼類一式を製作した。
 昭和一八年(一九四三)に、倉敷紡績の繊維工場として生き残った工場は六工場、二九万八、四〇八錘に減じ、北条工場の六万一、二〇〇錘、今治工場の六万一、六〇〇錘は操業を続けた。
 昭和一八年一〇月、休止中の松山工場は、海軍艦政本部の計画に基づいて、呉海軍工廠の分工場として、その名も松山兵器製作所に改め、転換工事に着手した。翌一九年七月から、呉工廠から貸与された工作機械を使用して魚雷の組立て・仕上げの操業に入った。しかし一年後の昭和二〇年七月二六日夜の松山大空襲により工場施設は灰燼に帰した。
 さらに、今治工場も、織布工場を昭和一九年四月、今治兵器製作所と改称し、紡績と軍需生産の二本建て操業を行うことになった。呉海軍工廠加工部の協力工場として、同年一〇月、一三ミリ機銃弾の量産に入ったが、翌二○年八月六日の空襲にあって全焼した。
 倉敷紡績株式会社は、昭和一九年一月、社名を倉敷工業株式会社と改め、兵器・航空機部品の製造加工を定款に加えて、軍需会社法に基づく軍需会社に指定されている。

 井関航空兵器製作所

 昭和一七年(一九四二)三月、井関農機の大手町鋳造工場は、海軍第一一空廠の指定工場となった。このころには、資材の不足から農業機械の生産を縮小せざるをえず、また、籾すり機や脱穀機を出荷しても、エンジン燃料が手にはいらないために農家では利用もままならないありさまであった。そこで、井関農機では木炭ガス発生機の研究を進め、脱穀機などに連結する効率のいい発生機の製作に成功した。全国審査も優秀な成績でパスし、戦争末期には、木炭ガス発生機としては日本最大の生産量をあげるまでになった。しかし、農機向けの資材の割り当ては年を追って少なくなり、施設と労働力とを軍需生産にふり向けざるをえなくなった。
 昭和一八年七月一〇日、井関航空兵器製作所が設立され、大手町の鋳造工場は、航空機のエンジン部品の気筒胴(シリンダー)を専門に作る軍需工場となった。昭和二〇年七月二六日夜の松山大空襲により、井関航空兵器製作所はもとより、井関農機の大手町工場・湊町工場のすべてが焼き尽くされた。

図工3-14 2D型戦標船(波止浜建造)

図工3-14 2D型戦標船(波止浜建造)


表工3-26 造船所別船台日数(昭和19年改八線表)

表工3-26 造船所別船台日数(昭和19年改八線表)