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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

三 軍需産業の展開―アルミニウム・石油

 戦時経済政策

 昭和一一年(一九三六)二月二六日、突如として起こった二・二六事件は、軍部の政治経済に対する発言力を一躍大きくする契機となった。
 続く昭和一二年の日中戦争の勃発によって、わが国の経済は戦時色が濃くなり、産業に対する統制が強化された。昭和一三年の国家総動員法は、戦争目的遂行のためにわが国の産業を国家権力によって編成する緊急的強制法規であった。その具体策としてあらわれた物資動員計画は、軍需資材の確保に最重点をおき、民間産業や国民生活に必要な物資の配給を制限または禁止するという、大変きびしいものとなった。
 太平洋戦争に突入した昭和一八年には、商工省を解体して軍需省が設置され、現役の陸海軍人が重要ポストを占め、産業経済政策は完全に軍部の支配するところとなった。

 アルミ国産化の苦闘

 アルミニウムは、航空機製造に不可欠の基礎資材であり、近代戦の軍需物資としては、最重要の意義をもつものであった。国際経済におけるわが国の孤立化が進むにつれて、アルミニウム国産化の要請がますます強くなった。
 昭和六年の金輸出再禁によってアルミニウムの価格が急騰したことは、アルミ事業の採算の見通しをよくしたので、翌七年に住友合資会社はアルミニウムへの進出を決意し、住友肥料製造所新居浜工場に製造実験プラントをつくることにした。アルミナの製造に必要なアンモニア・硫酸などの薬品は自社で自給でき、アルミナの副産物として硫安とカリとが産出されるから、アルミニウム製造は、住友肥料製造所にとって有機的多角化の一環にほかならなかった。住友としては、特に新製品のカリ肥料への進出に期待をかけたのであった。
 国産化の技術としては浅田平蔵の「純アルミナ及び純硫酸加里製造方法」(浅田法)により、浅田の所有する朝鮮玉埋山の明礬石を原料としてアルミナを製造することにした。新居浜工場の実験プラントは昭和八年一月から操業を開始し、アルミニウムの電解試験も、最初の国産化の経験をもつ日本軽銀製造元工場長林明を迎えてスタートを切った。ところが、どちらも不調の連続で関係者の苦労は並たいていではなかった。昭和八年五月には、住友総理事の小倉正恒がしびれを切らして新居浜まで出かけて激励したといわれる。
 アルミナ製造には硫酸を使用するために装置の腐蝕が激しく、修理に追われて装置の順調な運転は望めなかった。やがて、装置の材料に真鍮を使用してある程度腐蝕を防ぐことができるようになったが、製品の水酸化アルミニウムは硫酸・カリ・鉄などの不純物が大量に含まれていて膠状をしているというしろものであった。これを焙焼して得られたアルミナも純度が低く、これからアルミニウムを製錬するのは至難のわざであった。それでも電解炉にかけて薄黒い粗悪なアルミニウムを試作し、初穂として小倉総理事に供覧したところ大そうな喜びようであった。それほど住友合資会社のアルミ国産化に抱く意欲は大きかったのである。
 水酸化アルミニウムの不純分をとり除くことに苦慮しているうちに、炭酸アンモニウムの使用によって純度の高いアルミナを製造する方法に行き当たった。これが、アルミナ製造に関する住友法の発明である。他方、浅田の所有する朝鮮玉埋山の明礬石の埋蔵量が貧弱であることも判明し、新居浜製造所のアルミナ製造は、浅田法をとりやめて全面的に住友法によることを決定した。

 住友アルミニウム製錬株式会社

 住友肥料製造所(昭和九年二月から住友化学となる)の住友法によるアルミナ製造の見通しがついたところで、昭和九年(一九三四)六月、住友合資会社は浅田明礬製造所との協同出資(住友七五%・浅田二五%)で資本金二〇〇〇万円の住友アルミニウム製錬株式会社を設立した。
 この会社の原料となるアルミナは、住友化学と飾磨化学(浅田の経営)の二社が折半して供給し、航空機用高級アルミニウム合金(ジュラルミン)のための、高品質のアルミニウム地金年産一、五〇〇トンを国産の原料で製造する計画であった。
 新居浜町(現新居浜市)菊本地区約一万坪を埋め立て、昭和一〇年末にアルミニウム製錬工場が完成した。ところが、住友化学、飾磨化学両社とも、アルミナ工場の操業が不調で、製錬工場へ原料のアルミナを供給することができず、住友アルミニウム製錬は本格的操業にはいることができなかった。住友化学からのアルミナが日量三トン程度供給できるようになってから、昭和一一年五月二八日にようやく開所式をあげることができた。しかし、飾磨化学からの原料供給は不調のままで、外国からの輸入アルミナで補充しなければならなかった。
 住友法も明礬石を原料とするものであったから、製造工程が長く、生産費が高くつく上に、不純物を含有して品質が不安定であった。昭和一二年、商工省は、重要産業五か年計画の策定にあたって、住友アルミニウム製錬に対しても年産一万トンへの設備増強を要請してきた。折も折、海軍省航空本部から、住友のアルミニウムはひび割れを生じてジュラルミン用には不適当であるというきびしい指摘がなされた。その原因は、明礬石を原料とする住友化学などのアルミナの品質の粗悪さにあった。住友本社は、同じ年の六月、緊急会議を開いて、住友化学のアルミナ製造について原料を明礬石からボーキサイトに切り換え、製法も住友法からバイヤー法へ転換するという抜本策を講じることを決定した。
 結果としては、これが成功して品質のいいアルミナを容易に量産することができるようになり、住友化学のアルミナの生産能力は、昭和一四年一月には年産四、五〇〇トンになった。アルミニウム増産の要請の高まりに応えて、住友化学は、バイヤー法の権威ハンス・チーデマンの設計に基づいて、さらに設備の増設を重ね、昭和一五年三月には年産二万トンのアルミナ第二工場、昭和一七年一一月にはもうひとつの年産二万トンのアルミナ第三工場と矢つぎばやに完成した。太平洋戦争中の昭和一八年(一九四三)には、年間生産量四万三、九五三トンを達成し、最高を記録した(表工3-25)。
 アルミニウム製錬の方も、第一工場を当初の年産一、五〇〇トンから、昭和一三年一月の年産三、〇〇〇トンヘ増強し、昭和一五年三月には年産八、〇〇〇トンの第二工場、昭和一七年九月には年産一万トンの第三工場が次々と完成し、住友アルミの年産能力は二万一、〇〇〇トンになった。第二工場以降は、ノルウェーのエレクトロケミスク社のゼーダーベルグ式を採用し、電解炉を大型化高圧化した。太平洋戦争中の昭和一九年には、年間生産量一万九、〇〇〇トンを挙げ、最高を記録している(表工3-25)。
 戦時中の増産合理化計画に基づいて、ボーキサイトからアルミニウムまでの一貫工程が必要とされたから、住友化学が増設した第二・第三のアルミナ工場は、菊本地区の住友アルミニウム製錬の構内に建設され、昭和一九年には新居浜製造所の第一アルミナ工場も菊本地区へ移された。さらに、組織を強化するために、アルミナ工場とアルミニウム製錬工場とを経営体としても一本化することになった。昭和一九年七月一日、住友アルミニウム製錬の経営一切を住友化学が受託し、アルミナ製造所と合わせて住友化学軽金属製造所に改組された。

 高純度アルミニウム

 住友アルミニウム製錬の製錬技術がいかに短時日に長足の進歩を遂げたかは、昭和一六年(一九四一)に九九・九九%の高純度アルミニウムの開発に成功したことにあらわれている。三層式アルミニウム電解精製の技術が、射場恒三を中心とした技術者らによって五年の歳月を費やして完成されたのである。
 高純度アルミニウムは、耐腐蝕性に優れ、電気伝導率と光反射性とがよく、加工もしやすいという性質をもっていたから、特に電波兵器用素材として重用された。昭和一七年以降、毎年二五〇トン程度が生産されている(表工3-25)。

 松山臨海部に丸善石油進出

 第二次大戦開始直後の昭和一六年一二月から昭和一七年初めにかけて、日本軍は戦略物資の原油の確保に最重点をおき、ボルネオ・スマトラの製油所を占領した。この南方原油を処理するために内地の石油精製能力の拡張が計画され、南方との海上交通の便、大都市の設備疎開という観点から松山市が適地として選ばれた。
 昭和一七年に、政府の指示に基づいて、丸善石油が松山市大可賀の土地約六六万平方メートル(約二〇万坪)を取得し、月間処理能力一八万バーレルの製油所(第一次計画)の建設に着手した。ここには、大阪と横浜の製油設備(いずれも東洋石油の設備で丸善石油グループに戦時統合され強制疎開を命じられたもの)の主要部分も移設され、最終的には、月産三〇万バーレル(日量一万バーレル)を越える生産設備が整うはずであった。昭和一九年(一九四四)二月に日産能力二四〇バーレルという小型の減圧蒸留装置が完成し操業を開始したが、この時にはガダルカナル撤退後一年を経ており、肝心の原油が南方から届かなくなっていた。
 終戦時までに、松山製油所には、日量二、〇〇〇バーレルのバジャー式真空蒸留装置・硫酸洗浄装置・原油タンク四基(総量一九万四、〇〇〇バーレル)製品タンク一八基などが出来上がっていたが、主力をなす日量六、〇〇〇バーレルのフォスター式常圧蒸留装置、二、五〇〇バーレルの接触分解蒸留装置などはまだ基礎工事が終わっただけであった。松山製油所全体としては、建設半ばにして終戦を迎えたのであった。
 同所は、艦載機の機銃掃射を浴びたが、損害は軽微であった。

表工3-25 住友化学・住友アルミニウム製錬のアルミナ・アルミニウム生産量

表工3-25 住友化学・住友アルミニウム製錬のアルミナ・アルミニウム生産量