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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

4 製紙

 機械漉和紙の勃興 

 大正末において、全国の和紙生産のトップは九一一万円を産出した土佐紙の高知県、第二位は、年産五一九万円の愛媛県であった。この時、かつての著名な和紙産地はどうなっていたのか。駿河紙の静岡県が三二九万円で第四位、美濃紙の岐阜県が二四五万円で第七位、越前紙の福井県が一八六万円で第九位、石見紙の島根県が一〇一万円で第一六位であった(表工3-21)。
 これら産地間の差異をもたらしたものは、一にかかって抄紙工程の機械化の進捗如何であった。機械漉和紙の発展という点では、高知県が最も早く、かつ、半紙・障子紙・ちり紙など日用品の量産によって急速に発展した。のちに述べるように、愛媛県も機械漉和紙への展開に成功した県であり、これに対し、岐阜県・福井県・島根県は、伝統的技術に固執して衰退をまねくことになった。

 農家手漉の衰滅

 愛媛県下でも、宇摩郡の伊予紙、周桑郡の奉書紙、新居郡(現西条市)の伊予正、喜多郡の大洲半紙、東宇和郡(現野村町)の仙(泉)貨紙など、各地で特色ある和紙が漉かれていたが、洋紙の普及とともに手漉和紙は急速に衰退していった。
 大洲の半紙も、野村の仙貨紙も、農家の副業で、農閑期の冬場の仕事とされていた。水浸・蒸煮・水洗・漂白・叩解・抄紙・乾燥・裁断・仕上げ・すべて手作業で、農家の主婦や家族の労働として行われ、季節的労働であったから、連続作業を基本とする機械の導入は到底不可能であった。家族労働の燃焼としても、就労日の少ない和紙よりも、製糸や果樹へ移っていった。大正にはいると、南予の丘陵地も楮を切って桑や果樹を植えるところが増え、原料の面からも手漉和紙は見限られることになった。
 大洲半紙は楮から三椏へ原料を切り換え、野村の仙貨紙のみが、高知にも原料を求めて、楮からの製紙を続けたが、いずれも量的には減少する一方であった。戦後恐慌が始まった大正九年(一九二〇)に九〇万円を産出していた喜多郡の和紙は、昭一〇年(一九産五)には二六万円へと三分の一以下に減少し、東宇和郡の仙貨紙に至っては、大正九年の三〇万円から昭和一〇年の四万円へと八分の一に減少している。和紙の製造戸数も、喜多郡は六九四戸から二一五戸へ、東宇和郡は五七〇戸から二〇九戸へ、就業者数も、喜多郡は一、六六九人から五八〇人へ、東宇和郡は一、四五二人から五八〇人へ、大幅に減っている(図工3-7)。しかし、製造戸数や就業者数の減り方以上に生産額の落ち込みがはげしいのは、不況下での価格の低落を反映すると同時に、農村の副業としての就労日数も狭められていったことを示している。

 宇摩郡の和紙

 これに対し、宇摩郡の製紙産額は、大正九年の三〇九万円から大正一二年の二五〇万円へ下落したものの、昭和元年には二九一万円へ盛り返し、昭和五年(一九三〇)の大恐慌のどん底でも二二〇万円と比較的堅調である。ただし、製造戸数は大正九年の六〇九戸から昭和一〇年の二〇二戸へ、三分の一に激減しているから、農家の副業的手漉が衰退した事情は喜多郡や東宇和郡と変わりない。他方、職工数は、大正九年の三、〇〇二人から昭和一〇年の二、三六一人へ減少しているが、製紙工場への労働力の集積を反映して、喜多郡や東宇和郡にくらべれば、減少の程度は軽いと見るべきであろう(図工3-7)。
 これは、宇摩郡の製紙業者が、県下で、企業家精神が最も旺盛であり、原料や製紙技術の研究・改良に最も熱を入れてきたことの結果であった。県下では、伊予三島・川之江の製紙業だけが、農村家内工業から機械制工場への展開に確固たる地歩を占め、自力による産業革命をなし遂げたのである。

 洋式機械の導入

 宇摩郡へは、明治末期に、川之江の篠原朔太郎などの先駆的発明により、手漉の前後工程に機械が導入された。ビーター(叩解機)、回転式三角乾燥器、スクリーンつき蒸気釜がそれである。特に、ビーターは、最も重労働の原料叩解工程で手打ちの必要がなくなり、省力の点でも、コストの点でも、和紙の生産性の向上に大きく寄与した。いまひとつ重要な点は、ビーターの導入によって、和紙の原料として、木材パルプ・藁・麻・反古など安価な原料の配合が可能になったという点である。昭和元年(一九二六)で、一〇貫当たり、三椏は二五円九〇銭、楮は二五円に対し、ウッドパルプは八円、藁は四円三六銭、麻は一一円、反古は二二円であった。そして、原料面の工夫は、宇摩郡の和紙の著しい特色であり、採算・品質の両面において大きな武器となった。晩年の篠原朔太郎が台湾産の竹パルプや北海道の野生の新繊維の研究に没頭したことはよく知られている。

 丸井工場

 宇摩郡の機械漉製紙工場のうち、丸井工場(後の丸住製紙)は、昭和二年(一九二七)には職工数一四九を数え、昭和一〇年には職工数が二〇〇を越えるという、県下最大の機械製紙工場であった。丸井工場は手漉兼営で、ヤンキー抄紙機三台と手漉槽三〇槽(これは減少傾向)とを備え、年額一〇〇万円近くを生産するまでに発展した。
 丸井工場は、機械漉によって製品の多角化を進め、コピー紙・改良半紙・障子紙・仙貨紙・織物原紙・テープ・文庫紙・包装紙など多方面の需要を開拓していった。コピー紙は、国鉄の指定用紙として納入され、高級コピー紙は海外にも輸出された。
 また、同工場は、その全国的販路を利用して、手漉の美濃紙、半紙を井桁にMのトレードマークで売り出し、官庁用紙に指定されるほどに評価が確立されていた。

 宇摩郡の製紙と愛媛県の動向

 昭和元年から昭和一〇年にかけて、宇摩郡製紙業の県内シェアは六割前後を占め、その比重は徐々に高まってきた。昭和恐慌期において、和紙の生産・価格ともに低迷を続けたが、昭和七年ごろより紙価も上昇に転じ、昭和一〇年(一九三五)の製紙総額は、全県的にも、ほぼ昭和元年の数字に戻している。宇摩郡は、昭和元年の水準を抜いて三三六万円の生産額に達したが、これは昭和元年を一五%上回る金額である。
 宇摩郡の製紙の特色は、品種のバライェティがきわめて多い点にあり、宇摩地区の製紙業が三島・川之江の紙商とともに発達し、市場志向が強いことを示している。宇摩郡の強みは、金額的に大きい和紙の代表的品種、美濃紙と改良半紙について、県下のシェアの九割をがっちりと押さえていたことである(表エ3-22)。また、高級和紙の仙貨紙も、今や、野村から宇摩へ産地が移ってしまった。改良半紙・仙貨紙は機械漉による量産がなされたこと、美濃紙・半紙は手漉の前後工程の機械化と合理化がおし進められたことが、宇摩の製紙業の優位性を確立したといえる。高級薄葉紙とコピー紙とは、川之江の丸井工場と井川製紙所の独占であった。
 ただ、この時期には、宇摩郡の製紙業は、ちり紙の生産には熱意を示さず、県内シェアも、昭和元年の約三〇%から一五%へ低下していることが注目される。数量的には、ちり紙はこの時期の成長品種であり、第二次大戦後この地域が家庭用紙の代表的産地に発展することを考えると意外の感がする。
 当時、愛媛県のちり紙の生産では、新居郡西条町(現西条市)がトップであり、伊予製紙・中山製紙場・丸菱製紙所の三工場が機械漉で量産をし、昭和一〇年の産額で全県の五五・二%を占めていた。また、松山市にも、松山工業、戸田製紙の二つの機械漉ちり紙工場があり、全県の二八・九%を生産した。愛媛県のちり紙生産は、昭和五年の一〇〇万締から昭和九年の一七〇万締へ急拡大を遂げるが、金額的には全然伸びていない。ちり紙市場の拡大は価格の低廉化によって相殺されてしまった。
 昭和初期の宇摩郡の製紙業では、機械製紙工場も手漉兼営であった。宇摩郡の製紙業は、機械化の道を歩みつつも、技術・市場の両面において、手漉和紙の伝統を色濃く受け継いでおり、低級品種の大量生産には、まだ、なじまなかったのである。

表工3-21 和紙生産額全国ランキング(大正14年)

表工3-21 和紙生産額全国ランキング(大正14年)


図工3-7 愛媛県和紙主要産地の推移

図工3-7 愛媛県和紙主要産地の推移


表工3-22 宇摩郡製紙業の品種別生産額と県内シェア

表工3-22 宇摩郡製紙業の品種別生産額と県内シェア