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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

三 紡績業における資本集中

 中央資本による地場紡績の合併

 紡績の歴史は操短の歴史といわれるように、紡績連合会の統制のもとに明治二三年(一八九〇)に第一次操短が行われて以来、大正元年(一九一二)までに六回にわたる操短(操業短縮)が行われた。日清戦争後の長い不況の中で各地の群小紡績は経営危機におちいり、脱落するか、大紡績に吸収されるかの道を選んだ。大紡績側も既設の工場設備を安価に買収することができ、何よりも不足をきたしていた女子労働力を引き継ぐことができたので、企業合併には積極的姿勢を示した。その結果、明治三二年(一八九九)末には全国で七八社だった紡績会社は、明治三六年末には四六社、明治四四年末には三二社にまで資本の集中が行われた。
 愛媛県の紡績工場はいずれも、五、〇〇〇錘前後の小規模工場で、明治三四年に伊予紡績と宇和紡績とが解散に追いこまれた。このうち、伊予紡績は明治三六年に福島紡績に買収されて福島紡績今治支店となった。同じ年に八幡浜紡績も大阪の渋谷合名会社に買収されて同社八幡浜紡績所になっている。また、明治三八年に地元の鉱山主白石和太郎が旧宇和紡績を買い取って始めた白石紡績所は、明治四〇年には大阪紡績に合併されて大阪紡績川之石工場となった(「資料編社会経済上」工業、洋式機械紡績工場の推移参照)。
 明治の時斯に愛媛県に立地した四つの紡績工場のうち、地場資本として大正初期まで存続しえたものは、松山紡績ただ一工場のみであって、他の工場は大阪の紡績資本に併合されてその分工場となった。その松山紡績も、大正初期には鐘紡からの重役派遣を受けていて、完全なる独立経営とはいえなかった。

 大戦ブーム期の再編の動き

 第一次世界大戦は、紡績業界にも大変なブームを巻き起こした。表工3-1(前出)で示したように、全国の綿糸の生産額は大正三年(一九一四)の二億円から大正八年の七億六、○○○万円へ、四倍近くに急増した。しかし、その間、生産数量は八、八〇〇万貫から九、三〇〇万貫へと、ほとんど伸びていたいから、このブームは大部分が価格の急騰によってもたらされたものといっていいだろう。
 このブームを巻き起こした理由のひとつの説明は、イギリスの輸出縮小によって高級番手の供給不足が甚だしくなり、わが国の製品が太番手から細番手へと比重が移って行ったということである。この品質の向上が設備投資を刺激し、数量より価格の上昇をひきおこしたことは否めない。また、生産体制が高級番手ヘシフトすることによって太番手の供給不足にも拍車をかけることになった。綿糸先物相場は、二〇番手一梱につき、大正四年一月の九五円から、大正八年一一月の六八六円へと七倍に高騰した。
 いまひとつの説明は、慢性的職工不足に加えて、大正五年九月に工場法が施行され、女子・年少労働者の就業制限が強化されたという事情である。これも生産量の増加を抑制する要因となった。この時、松山紡績でも労働時間の短縮によって一五%の生産減少となった。
 しかし、最大のボトルネックは、大戦によるイギリスからの紡機輸入の途絶であった。イギリスは鉄鋼を軍需生産に回すために紡機製造を大幅に制限し、海外からの受注には事実上応じられない状態であった。そのため、大手紡績の意欲的設備投資計画もいきづまってしまった。なりふりかまわぬ増設のためインドのスクラップ寸前の紡機までが輸入されたという。
 ここで、大手紡績による地方中小紡の吸収にいっそうの圧力が加わることになった。愛媛県でも、それは、大正七年の倉敷紡績による松山紡績の買収、同年、鐘淵紡績のバックアップによる福島紡績の今治紡績への再編、同年、近江帆布による愛媛紡績の買収という形で現れている。白石紡績所を母胎とする大阪紡績川之石工場は、本社の三重紡績との大合同により、名称を東洋紡績川之石工場に変更する。

 松山紡績から倉敷紡績へ

 鐘淵紡績社長の武藤山治は、かねてから紡績大合同論の提唱者として知られていたが、彼は、大正六年(一九一七)になって、松山紡績と愛媛紡績の合併を画策した。松山紡績は三津口の工場を明治三九年(一九〇六)に一万錘の紡機と自家発電設備を有する近代的工場へと増設した。しかるに、日露戦争後の恐慌で経営困難に陥り、明治四四年(一九一一)鐘紡から、浅田廣太郎専務取締役、篠原仙市支配人が入社して、鐘紡の系列下でテコ入れが行われた。松山紡績には、第一次大戦中の朝鮮向け、中国向けの綿糸輸出についても、鐘紡・伊藤忠兵衛(綿糸商)の斡旋と庇護のもとに鐘紡製品と同一の取り扱いを受けている。
 武藤山治の松山紡績と愛媛紡績との合併の画策は、松山紡績の大株主の反対が強くて進まず、それに代わって、松山紡績を倉敷紡績に合併させる案が浮上した。大正六年のことである。
 武藤山治は、松山紡績社長仲田伝之訟(二代目)・松山商業銀行頭取広瀬満正とはかって、松山紡績の株主対策を進めた。広瀬満正は、住友家総理人広瀬宰平の実子で貴族院議員であり、仲田伝之訟は、愛媛県農工銀行・伊予貯蓄銀行・仲田銀行の三行の頭取を兼ね、松山商業会議所初代会頭になるべき人物で、いずれも松山財界の大立物であった。当時、松山には大小一〇の銀行が乱立していたが、突出して大きいものは、五十二銀行・愛媛県農工銀行・松山商業銀行の三行であった。
 大正七年四月一八日の株主総会にかけられた合併の条件は、松山紡績六株と倉敷紡績一株(プラス現金一七五円)とを交換するというものであり、松山紡績の株主に若干の不利はまぬがれなかった。審議は、合併に反対する株主の発言が強くて紛叫し、警官が出動して警戒する中で、二日後の四月二〇日に松山紡績三株と倉敷紡績一株の割で交換するという修正案によって合併が決議された。その後も対立は尾を引き、会社の役員が合併賛成派と反対派とに二分して争う事態となった。反対派は、裁判所に対して合併無効の訴訟をおこすとともに、株の買い占めに乗り出した。しかし、財力にまさる合併賛成派が、結局、多数派工作に成功し、同年六月には反対派の訴訟が取り下げられて、ここに松山紡績と倉敷紡績の合併が決定した。
 ほぼ時を同じくして、武藤山治の画策は、福島紡績と愛媛紡績にもおよんだ。彼の野望は、ゆくゆくは大鐘紡の支配下にこれらの諸工場を統合するというにあった。武藤山治の影響のもとに、大正七年三月には、今治町(現今治市)の綿ネル業者岡田恒太、同業者木原通一、大阪の綿糸問屋伊藤忠兵衛などが共同して、福島紡績今治工場を買収して、今治紡績合名会社を設立した。また、同年五月には、武藤山治の斡旋のもとに、近江帆布株式会社が愛媛紡績の買収合併に成功した。今治紡績は大正一二年には大阪合同紡績に吸収され、昭和六年(一九三一)には東洋紡績に買収されるという運命をたどる。

図工3-3 愛媛県における紡績会社の系譜

図工3-3 愛媛県における紡績会社の系譜