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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

一 転機としての第一次大戦

 繊維工業中心の産業構造からの出発

 第一次大戦に参戦した当時、大正三年(一九一四)のわが国の工業は、いまだに繊維工業が代表的指導的産業であった。産業革命を経た繊維工業は、全国の工場生産額の四五%という圧倒的地位を占めていた。このころの主たる輸出先だった中国市場も、国内市場も、生活程度が低く、製造される綿糸の八割までが二〇番手以下の太糸であり、普及品であった。その上、国内の機械工業は未発達で紡績機械に国産のものはなく、もっぱらイギリスからの輸入に頼るありさまであった。それにもかかわらず、繊維工業の発展を可能にしたものは、昼夜二交替制二四時間操業と低賃金とであった。

 第一次大戦による産業の飛躍的拡大

 第一次世界大戦はわが国産業史上、一大画期をなしている。工業生産額は大正三年の一三億七、○○○万円から八年の六七億四、○○○万円へ約五倍、鉱業生産額は、同じ期間に一億六、〇〇〇万円から六億四、〇〇〇万円へ約四倍と目をみはるような発展を遂げている。戦時景気と物不足による物価の上昇が企業に異常なほどの利潤をもたらし、産業発展への刺激になったことを物語っている。これにはわが国の軍需発注が盛んになったことのほかに、むしろそれ以上に戦争によって欧米諸国からの輸入が途絶してしまったこと、さらに欧米諸国からの戦時需要によってわが国の輸出が約三倍に急増したことが大きい。わが国は産業近代化への絶好のチャンスを与えられたのである。
 第一次大戦前の大正三年と大戦後の大正八年とで、生産額を対比してみると(表工3-1)、産業によってかなり不均等な伸びをしていることがわかる。戦時中の物価上昇でどの製品も金額の上では増加しているが、従来のわが国産業の主役をなしてきた綿糸紡・過憐酸石灰・銅などの生産数量は横ばいで、それに代わって、硫安・鉄・洋紙などの新しい製品が大きく伸びている。なかでも戦時需要の強かった鉄の産額は一一・七倍、新肥料の硫安の産額は一〇・六倍と、わが国の重化学工業化へのスタートがこの時期に切られたことを示している。

 愛媛の五大工産品

 大戦前の大正二年に、愛媛の工産品で年産額が一〇〇万円を超えるものは五つで、次のとおりである。織物九六三万円、清酒四八〇万円、生糸三二五万円、和紙三〇二万円、綿糸一、○九一貫(推計では約三〇〇万円)。木蝋の凋落は甚だしく、この年に年産が六〇万円を切っている。
 これら工産品の多くは、零細な手工業によって営まれる地場産業の産品であるが、愛媛県でも、綿紡工業のすべてと、製糸工業、織布工業の一部は多数の労働者を雇用する機械制工場へ移行していた。
 当時の代表的工場が紡績・織布工場であったという点では全国的に変わりがないが、愛媛県は紡織工場への偏りが特に著しい。工場生産額に占める紡織工業の割合は、全国が四四・六%であるのに対し、愛媛県は実に七六・五%に達する(図工3-1)。これは、本県が生糸王国であったこと、綿ネル・絣など綿織物の地場産業が盛んであったこと、農村からの女工の供給源を有していたことなどの事情による。

表工3-1 全国主要鉱工業製品の生産額比較

表工3-1 全国主要鉱工業製品の生産額比較


図工3-1 工場生産額構成 全国対愛媛

図工3-1 工場生産額構成 全国対愛媛