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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

四 製糸業の展開

 製糸業の創成過程

 養蚕製糸業は明治初期から県の積極的な殖産興業政策と士族授産の事業として発展した新興産業であったのである。明治五年(一八七二)松山士族白石孝之ら八名が養蚕機織の伝習のため京阪に赴き、帰郷後、松山養蚕会舎を設立した。また、吉田藩士族遠山矩道もこれを奨励して神山県内に桑苗植え付けを促している。明治六年三月、大洲藩士福井茂平は子女二名を伴い丹波(京都)綾部に赴き養蚕製糸を伝習し翌月帰郷後、自宅で養蚕座繰製糸を営むなど、先進地の技術を導入し、この方面に生業の活路を求めようとした。
 愛媛県は明治九年勧業課を新設して、積極的に蚕糸業の奨励策をすすめ、県主催で器械製糸の伝習などを行った。その結果明治一〇年五月、大洲の子女七名、松山の子女四名を備中(岡山)笠岡の製糸場に派遣して器械製糸の技術を修めて帰県している。子女の監督として同行していた大洲藩士族大橋有は、七月帰郷後大洲町山根の自宅にて一〇人繰りの器械を設備して器械製糸を創業した。これが本県における器械マニュファクチュアの最初であった。吉田の遠山矩道、宇和島の小笠原長道、松山の池内信嘉、西宇和の河野文平、西条の和田義綱ら各地の有志が器械製糸会社を設立、座繰製糸を営む豪商・豪農が続出したのである。
 明治一五年には器械製糸工場として宇和島製糸会社・吉田興産舎・松山養蚕会舎・大洲の大橋製糸場・西条の和田製糸場の五工場と座繰製糸場二五名を数えた。士族授産資金の貸し下げが開始されると、翌一六年以降各地の士族が共同して養蚕製糸会社をおこした。明治一九年県は蚕糸業組合の設立を促し、県庁に専門の養蚕技術者を置き、温泉郡持田町(現松山市)に桑園を設けて養蚕試験場としたのである。

 製糸業の発展

 明治二〇年(一八八七)に製糸戸数二、八〇四戸、釜数三、一七八、産額七五一貫(二・八トン)を数えたが、製糸戸数の大部分は座繰の家内手工業であった。工場制手工業(マニュファクチュア)は、器械製糸の宇和島製糸会社・吉田興業舎・松山蚕業会舎・大洲の大橋製糸場の四工場であった。
 明治二一年喜多郡の女工は五六六人、一か月に一〇〇斤(六〇キログラム)以上の生糸を生産する製糸場は一つもなく、大部分が六~八人の女工を使用する座繰製糸が普通であったという。しかし、一〇人以上の女工を雇う座繰工場もあり、喜多郡新谷村(現大洲市)の松田角太郎の工場は、座繰機一五台、一二釜を設備しており、明治二一年に女工一四名を京都に派遣して器械製糸を伝習させ、同二四年に器械製糸の松陽館を設立している。
 明治二一年、松山の女工は六二五人、北宇和郡の女工五七九人を数え、一〇人内外の零細座繰工場が中心であったことは各郡市とも同様であったようである。北宇和郡の吉田興業会舎(社長遠山矩道)では、器械製糸工場を経営するとともに、座繰機一五台を社員に貸与し、出機制も兼営していた。
 明治二二年、北宇和郡吉田の紀伊シガが群馬県富岡の足踏機(ダルマ)を伝習して帰り、吉田の浜田小三郎に依頼して足踏製糸機を製作した。これ以後、足踏機を導入する製糸工場が南予地方に広がった。この年に設立された西宇和郡双岩村(現八幡浜市)の摂津製糸場や同郡喜木村(現保内町)の宇和製糸場、同二三年に設立された宇和島の赤松製糸場、東宇和郡卯之町(現宇和町)の別宮製糸場・和気製糸場など、豪農・豪商による座繰製糸が広がっていた。これらの製糸場の器械製糸への転換は明治二六年以降であったのである。
 愛媛県における器械製糸場の先駆者として知られた宇和島製糸会社の社長小笠原長道は、座繰製糸の限界を痛感し、明治二二年五月、南予製糸株式会社を創立し、蒸気機関による原動力使用器械製糸工場を宇和島広小路に新設した。これが、本県における蒸気機関を用いた製糸工場の最初で、製糸業における産業革命の発端といわれる。

 近代化の進展

 南予製糸株式会社に刺激されて、明治二三年四月、大洲の河野喜太郎と程野宗兵衛は、共同して、蒸気機関を設備する三二釜鉄混合ケンネル式の器械製糸工場を大洲本町三丁目に設立した。明治二五年(一八九二)に河野は程野と分離して河野合名会社を、旧城郭内に、蒸気機関を設備する七二釜共撚式器械製糸工場を建設した。程野も河野と分離後、本町の工場を共撚式に改め、程野館製糸場と称した。
 明治二五年、新居郡中萩村(現新居浜市)の飯尾麒太郎も従来の座繰製糸に蒸気機関を導入して、六〇釜の蒸気器械製糸工場を設立している。
 明治二六年、本県で原動力を使用した工場は二〇みられるが、そのうち一一は製糸業が占めていた。このことは、愛媛県における民間の産業革命の進展の中で、製糸業が先駆けをなしていたことを示している。
 明治二八年、生糸の産額をみると、器械製糸七、四五七貫(二七・九トン)、座繰製糸一、二六五貫(四・七トン)、合計八、七二二貫(三二・七トン)であり、器械製糸が八五%と産業革命の急速さが明らかとなる。
 明治三三年に製糸工場が三三あり、そのうち労働者を一〇人以上使用する工場が三〇、さらに、二二工場に原動力が使用されていた。この年の製糸産額は、器械製糸一万六、〇二六貫(六〇・〇トン)、座繰製糸一、七九六貫(六・七トン)合計一万七、八二二貫(六六・八トン)であった。器械製糸が九〇%の割合を占めることとなった。明治二〇年代の初めから約一〇年間、製糸業における近代化は、いちおう、同三三年ごろに展開を終えたのである。
 明治の三〇年代は、原動力使用の工場も漸増してはいるが、製糸の産額から見ると、器械製糸の割合は七〇~八〇%を前後する。これは労働者一〇人未満の零細な製糸業の多さを示すものである。
 愛媛の生糸産額は、第一次世界大戦前後関西で首位を占め、横浜の生糸市場で信州(長野)糸よりも高く取り引きされ、伊予糸の名声は高かった。伊予糸の九〇%は、南予の喜多郡と東・西・南・北宇和郡で生産されていた。とくに水量の豊かな肱川流域の喜多郡がその品質のよさで中心をなしていた。

 工女の生活

 明治一〇年(一八七七)の大洲・松山の士族の女子一一名が器械製糸を伝習するため、備中(岡山)笠岡製糸工場に派遣されたのに始まる。明治一二年愛媛県勧業課は、温泉郡素鵞村立花(現松山市)の興産社製茶場を借りて、一二人繰りケンネル式器機を仮設して六六日間にわたり、県内応募の子女一八名に伝習している。こうして県の殖産興業政策によって、器械製糸・座繰製があい次いで設けられ、県内製糸業は急速に発達するのである。
 これらの製糸業の発展を支えたのは工女達であった。明治四二年(一九〇九)の『愛媛県勧業統計年報』でみると、織物業四、七三九人、製糸業一、七二〇人、紡績業一、一七二人と、織物・製糸・紡績が御三家をなしている。明治二五年(一八九二)九月創立の大洲にあった河野合名会社の労働者の推移は、同三五年男六・女一二五、同三六年男六・女一二八、同三八年男二・女一二二、同四〇年男三・女一七〇である。
 明治四三年の『愛媛県勧業統計年報』には同四二年男一四・女二〇〇(外に一四歳未満の者二二)と河野合名会社の発展ぶりを知ることができる。また、賃金は男三〇銭、女二五銭とある。松山地方の累年比較では、明治四〇年上等日給四〇銭、中等三五銭、下等三〇銭が記録されている。
 工女達は、大洲の場合、川下や内山地区から縁故を頼って来ていたという。大正五年(一九一六)の製造能率が『伊予蚕業沿革史』(大正一五年)に郡市別にでている。製糸一釜対工女一人当たり生糸製造は、器械で、喜多郡が最もよく、一万七、八三九匁(四・七キログラム)、一、四九八円、県平均一万六、三九七匁(四・四キログラム)、一、二二六円であった。座繰では、西宇和郡がよく、七、六〇六匁(二・〇キログラム)、六〇六円、県平均四、三一五匁(一・一五キログラム)、三四四円となっている。工女達の賃金は生糸一〇貫目(三七・五キログラム)製造につき四〇円が見積もられていた。
 工女のまごころが製糸工場の柱となり、日本の近代化を進める外貨獲得に大きく貢献したのであった。また、父母の生計を助けたことは山本茂の『あゝ野麦峠』をまつまでもなく、県内でも峠を越える工女達が盆暮れには茶屋を賑わしたのである。

表工2-12 愛媛県製糸業の発達

表工2-12 愛媛県製糸業の発達