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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 伊予各藩の専売制度

 宇和島藩の専売

 寛文一〇年(一六七〇)ごろに、楮元銀六〇貫余を農民に貸与し、紙の生産奨励及び増産政策を実施している。こうして、紙・楮の生産は漸次増大し、元禄元年(一六八八)藩庁は、紙に対する流通の統制を始めた。仙貨紙・杉原紙の他所売を禁止し、城下町において紙の商売をしていた二七人に、領内の紙を買い集めさせ、大坂に輸送し藩の指定した紙問屋に売却した。これは間接的購買独占による紙の領外移出独占の政策を実施したことになる。これは、わが国の紙専売制度において、寛文年間(一六六一~七三)に実施した土佐藩に次ぐものであるという。
 紙の流通組織は、紙仲買人を軸とした組織により、天明(一七八一~八九)前後から専門役所の組織へと強化され、間接的購買独占による領外移出独占から、直接購買独占による領外移出独占へと移行した。延享二年(一七四五)、寛政三年(一七九一)、文化一一年(一八一四)などの如く、専売制度を廃止したこともあったが、紙生産者に楮元銀の貸与・紙仲買人に資金の貸与などは、廃止中も継続していたから、紙に対する統制は、強弱の差はあるにせよ明治初年まで続けられたのである。
 製蝋業は、主に庄屋役人層の経営である。木蝋は農家が櫨を植え、その実を採取する。これを農村の青蝋座が青蝋(生蝋)に製造した。青蝋は城下の三座に渡って晒蝋(白蝋)に精製される。こういう三工程で行われていた。櫨実には五分一銀という売上高の五分の一を税として徴収する仕組みが、安永一〇年(一七八一)につくられた。
 文化五年青蝋の専売が実施され、その頭取として、長山久助・末口屋六左衛門を任命した。当時城下町の蝋座は一六軒に増加している。文化八年青蝋を「御蔵蝋」とし、領外へ移出する分は青蝋蔵元商人の手を経て、大坂の蔵屋敷へ送ることとしたが、間もなくこの制度は弛んだ。文化一〇年中止、文政八年(一八二五、文政一一年中止、安政三年(一八五六)再開、万延元年(一八杏)中止、慶応元年(一八六五)再開と断続的に専売制が実施された。これは、単に商業利潤の獲得だけでなく藩札による正貨の獲得をも欲したためといわれる。
 さらに、海産物の寒天を万延元年、鯣を慶応二年に、それぞれ専売としている。寒天の原料であるテングサは正徳二年(一七一二)発刊の『和漢三才図会』にも伊予の宇和島が、相模(神奈川県)の鎌倉、豊後(大分県)の佐賀関、伊豆(静岡県)の海浜、紀伊(和歌山県)の熊野浦とともに産地として記されている。館は全部藩の強制買い上げであり、領外に出すことが出来だのは、進物・土産のみであり、これも員数を産物方に申し出なければならなかった。

 大洲藩の専売

 大洲半紙は元禄(一六八八~一七〇四)以後藩の保護奨励により発達したものである。最初は楮苗を土佐(高知県)に求めて、その栽培を奨励する程度であった。宝暦八年(一七五八)楮の領外移出を禁止した。宝暦一〇年には紙の締方が改められた。楮役所を五十崎村(現五十崎町)と北平村(現河辺村)に、紙役所を内ノ子村(現内子町)、中山村(現中山町)、寺村(現小田町)に設けた。領内に産する楮はすべて役所に納入させ、民間における相互の売買を禁止し、藩が残らず買い上げをすることになった。
 半紙も移出売買を禁止し、紙漉業者は原料をすべて楮役所から受け取った。原料買い入れに際して資金が不足した場合は楮貸付の便宜が与えられた。製品は藩の御用船にて大坂に送り販売した。楮皮の産額は一万丸(一丸は六締)に達し、藩の知行高の八割にもなったといわれる。専売仕法は直接的購買独占であり、領外移出独占の型式をとっていた。その期間は宝暦年間(一七五一~六四)より廃藩に至るまで継続され、同藩の重要な収入源となったのである。
 喜多郡の製蝋業は元文三年(一七三八)に五十崎村の豪商綿屋に縁のある者が蝋打人を雇い帰ったことに始まるとされている。そのころ櫨の樹はなく、漆の実を利用したものと考えられている。藩庁は九州より櫨苗を取り寄せ、領内諸所へ植え付けさせ、栽培を奨励した。蝋打・蝋晒・蝋燭の技術も伝授され、宇和島藩へも伝えられたという。
 安永五年(一七七六)には櫨の販売を自由とし、運上を課すことになった。その後製蝋は盛況を呈し、文久年間(一八六一~六四)ごろから、白蝋を製造するようになった。販路も大坂・広島地方から、関東地方へと拡大された。慶応年間(一八六五~六八)より価額が騰貴し、明治二年(一八六九)には白蝋一〇〇斤三〇円、生蝋一〇〇斤二五円以上の好況も、忽ち石油の輸入と鬢付の需要減少とによって、価額が約三分の一に暴落して衰運に陥った。
 大洲藩においては紙や蝋の生産が発達するに従い、これに携わる者の収益は莫大で、巨富は豪商らの独占するところとなった。しかも彼らの高利金融は、農民を苦しめ、加うるに藩役人との癒着に汚職も横行して、農民らの不平を爆発させるに至るのであった。その最も激しい現れが富家・豪商を襲撃する打毀しをもってする惣百姓一揆で、寛延二年(一七四九)の内ノ子騒動や文化一三年(一八一六)の大洲紙騒動(専売に反対)が知られている。
 なお、安永四年大洲藩が五本松村(現砥部町)に唐津山を開発し、同六年一二月磁器の焼成に成功した。工場は地元の門田金治に下賜し、保護奨励はその後も続けられている。安政四年(一八五七)より、郡中(現伊予市)に瀬戸物役所、新谷藩は岩谷口(現砥部町)に唐津物役所を設け、両藩それぞれに有力な問屋を指名した。この役所は窯元を統括運上銀の取り立てをし、問屋は原科の購入・必要経費の前貸しも行って利子をとっていたという。専売類似の統制を実施していたようである。

 松山藩の専売

 初代藩主松平定行は松山地方が豊かな土地であるが、米以外の国産品の必要性を説き殖産興業政策をとっている。まず三津町人の天野作右衛門・唐松屋九郎兵衛に命じて、広島から牡蠣をたくさん取り寄せ、寛文三年(一六六三)春、領内の浦々に蒔かせて成長繁殖をはかった。さらに松前浜漁師の大洲領漁場への出漁権を確保するとともに、旧領桑石(三重県)から白魚を取り寄せ松前浜に放って養殖に努めたため、やがてこの地の名産となった。深山不毛の久万地方には高原の風土に合う産物を考え、宇治から茶の実を取り寄せて茶樹の栽培を始めたり、精の栽培を奨励し楮を原料とする紙漉業も起こしたりした。松山名産の「タルト」の創始者も定行であると、今日まで信じられている。
 瀬戸内海地域の商品生産、流通経済の発展に対応し、塩田の開発による塩の生産をはじめ、紙・白木綿・伊予縞・蝋・瓦などの商品が漸次開発され、幕末には生産が増大した。しかし、このような生産の発達を、藩当局は積極的に藩益として利用しようとする意欲に乏しかった。菊屋新助の高機開発に対する援助も少なく、城下町だけに限定して、勧奨する程度にとどめている。藩がその生産に力を注ぎ出したのは、安政元年(一八五四)五月縞会所が設けられて以来のことである。伊予縞を専売としながらも、縞座元役に豪商木村次兵衛を任命し、問屋一〇軒と売捌所を松山城下に五五軒、三津浜に一〇軒を指定し、集荷・販売の業務に従事させた。独占的な流通過程の掌握はできない間接的な専売制度であった。
 塩は寛文年間(一六六一~七三)延宝年間(一六七三~八一)ごろに専売を開始し、紙・楮は寛保元年(一七四一)専売を開始したが、久万山の百姓二、八〇〇余人が大洲藩内に逃散するという反対一揆が起こっている。塩は領内配給独占であった。
 なお、瓦は安永六年(一七七七)以来保護の方法として株数の限定、職工の他領出稼ぎ禁止、原料の他領積み出し禁止が明治四年(一八七一)まで続けられていた。

 今治・西条藩の専売

 今治地方の白木綿の起源は今治の商人柳瀬義達の「綿替木綿」と呼ばれる生産システムで、享保年間(一七一六~三六)小幅の白木綿の製造販売に始まるといわれる。文久年間(一八六四~六四)に藩主が大坂において用途金を調達するため、大坂木綿問屋の内、今治組一八軒を指定し株と称して、その取り扱いを特許とした。これらの問屋は一株につき銀一〇〇匁を運上として藩に納入する定めであった。木綿商はすべて藩庁の監督の下におかれた。綿替木綿の方法で生産を促進し、製品はすべて大坂に輸出され、販売された。当時の年産額は三五万反で、運搬用として一五〇石積船四隻を使用したという。なお、伊予木綿の商標には、今治藩主の紋章梅鉢崩しを用いさせた。専売仕法は領外移出につき専売類似の型式といわれている。
 西条藩の奉書紙は、浮世絵版画の用紙として声価が高かった。文政年間(一八一八~三〇)ごろから藩庁では、特産物である奉書紙に保護奨励を加え、原料の取り引き及び製品の販売は直営とした。西野川・東野川・中奥・大保木・黒瀬の五か村(西五ヶ山という)の山口である氷見と、千町・藤之石・荒川(東三ヶ山という)の出口にあたる大町に楮皮を取り捌く会所を設けた。これを「楮皮座」(猪役所に同じ)と呼んだ。ここでは、楮栽培資金の貸与、楮苗の供給及び楮皮の収納の事務を管掌していたという。城下町の西条に近接する神拝村(現西条市)に紙役所を置き、楮皮座に収納した楮皮の交付、製品の収納及び紙製造資金の貸し付け、紙漉工員の傭入れなどの事務を行った。原料の領外移出は大洲藩などよりもやや寛大であったともいわれる。
 生産された奉書紙は、藩の御用船で、大坂に運送し、いったん藩倉庫に収納してから、江戸へ運んで、錦絵(浮世絵版画)を摺る紙に用いられたのである。この紙は、声価の高い特産品であったから、藩の収益も大きく、漸次増加の一途をたどった。

 吉田藩の専売

 吉田藩(三万石)は、明暦三年(一六五七)に宇和島藩の分治によって生まれ、三間川筋・山奥筋などを領域とした。山村の家内的副業であった紙漉業に対して専売制を断行し、これを取り締まるために紙役所を設置した。同藩では、特定の豪商が藩庁に融資することによって、その財政権を掌握して藩政に参与することが多かった。豪商たちは、紙の専売事業にも強大な実権を有し、高利貸資本家(法華津屋両家)として貧困な農民に対し楮元銀を貸し付けておき、その代金の返済にあたって漉き出された紙類を買いとって多大の利益を得ていた。しかも紙の売買についても取り締まりは厳重をきわめ、諸産物抜荷改方が絶えずその監視にあたっていたという。
 ここに専売制を通じて生産物の独占徴収が行われたから、紙漉業に関する利益は全く豪商たちの収奪にゆだねられる結果となった。これに対し、農民層から専売制に反対して楮方役所・紙方役所などの廃止を要求する大規模な一揆が寛政五年(一七九三)に起こったことは有名である。また維新後の明治三年(一八七〇)の櫨蝋専売に対する反対一揆もある。