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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

1 伊予結城から伊予絣へ

 伊予結城の起源        
伊予結城は天正年間(一五七三~九二)、九州飫肥(宮崎)城主伊東祐丘の夫人が当地に亡命して、つれずれのあまりその女中に織らせ、それを道後で売り出したのが初めであるという。元禄一五年(一七〇二)に僧曇海が編集した『道後往来』にも、「道後もめん織の類」の名を書きしるしている。世にこれを伊予結城・道後縞と称した。
 伊予結城はその後、松山地方の特産として製造されたが、品質を改良し大量生産するように努力した人は、野間郡小部村(現波方町)生まれの菊屋新助である。新助は伊予結城の製造に使用する地機の不完全であることに気づき、これを改良するため、京都西陣地方の絹織に使われていた花機を取りよせ、これを木綿織に応用しようとした。その機構が複雑であったから、苦心の末ようやく高機を創作した。さらに伊予結城を大量に生産するとともに模範品を製造して販路の拡大に努めたので、その名は世に聞こえるようになった。
 白木綿は城下町を中心とする地域で既に盛んに生産され、木綿の藩外輸出高は文化五~九年(一八〇八~一二)ごろで八万六、〇〇〇反余から九万八、〇〇〇反余にも達するようになった。しかし、このような生産の発達に、藩庁は積極的に藩益としようとする意欲が乏しかった。伊予絣の前身道後縞の生産は、新助の改良した高機で織り出してから、文政元年(一八一八)で、生産高わずか九〇〇反だったものが同七年には二万二、〇〇〇反にも増産されるに至った。ところが、新助が織元へ仕送りして織方を奨励するのに費やす巨額の運転資金を、藩庁に融通方を願い出たのに対して、藩は財政逼迫の折柄、一部の貸し出ししかしなかった。しかも農民が高機などの副業にかかわって濃業がおろそかにならないように、農村内での高機縞の織り出しを厳禁し、生産地域を城下町だけに限定し、貧乏な下級武士や下層町人の手内職として勧奨する程度にとどめている。藩がその生産に積極的に力を注ぎ出したのは、安政元年(一八五四)五月縞会所を本町一丁目に設けて以来のことであった。

 伊予絣の始源

 伊予絣を創作したのは伊予郡西垣生村(現松山市)の鍵谷カナ女であるが、カナが創作した当時の文献というべきものは一つも残っていない。わずかに文献としては、明治二〇年(一八八七)に武智清風(五友)の撰文による西垣生三島神社境内の碑文と、同天王社境内に昭和四年(一九二九)伊予絣同業組合が建立した頌功碑だけである。
 三島神社の境内にある碑文には「享和中詣於讃岐琴平山祠、同舟客筑後久留米人、着飛白綿布命見文心竊喜之乃到家、自取青草汁染綿絲而試、飛白製略得織文之法於是剋苦考窮遂得……」とある《模倣説》。
 天王社境内の頌功碑には、「嫗ハ天明二年今出ノ里ニ生レ若キ時享和年中藁家根ヲ葺キ換エルヲ見テ押竹ヲ縛リシ痕ノ美シキ斑紋ヲ成セルヲ奇トシ之ヲ織物ニ応用セント志シ飛白ノ認絞リヲ伊豫絣ノ元祖タル今出絣ヲ織リ始メタル人ナリ」と記されている《独創説》。
 この二つの説は後世になって書いたものであるから、疑問が残る。伊予絣は鍵谷カナ女がどこかの絣を見て、その美しさにあこがれ、昔から松山地方で織られていた伊予結城の織り方を工夫考案して伊予絣を創作したと考えるのが至当であろう。伊予絣の製法はその後だんだん発達して天保(一八三〇~四四)―安政(一八五四~六〇)ごろには美しい絵絣が製造されるほどであったが、一般的には認められないで、もっぱら道後縞―伊予縞が流行したのである。伊予絣が本格的に世に知られるようになったのは、明治二五年以降である。