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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

三 製蝋業の展開

製蝋業の始業

 『親民鑑月集』(清良記)に櫨の記事があることは、近世初期より、山間に自生する山櫨の実を採取して青蝋(生蝋)を生産する農民の自給的生産の段階にあったと推察される。わが国の櫨・蝋の生産は、八代将軍吉宗の勧農殖産政策と関係するという。吉宗は享保三年(一七一八)紀州(和歌山)より櫨実を取り寄せ、江戸城内の吹上御苑などに試植し、生実をみるに及んで薩摩(鹿児島)の商人丸屋治兵衛に製蝋のことを担当させた。この時期を境に、薩摩を主流とする櫨の栽培普及は著しく、熊本藩を中心に北九州一帯、さらに中国・四国筋からやがて中部地方にまで生産圏は拡大して、寛延三年(一七五〇)前後からは西南諸藩の重要産業となったのである。
 宇和島藩でも延享二年(一七四五)一月に「唐櫨の種子勝手宜敷物にて此度上より種子被相下御領分一統誠に為植付候被仰候……植付生立候様可申付候先々にて実成候節勝手にも可相成侠に付隋分心掛生立候様入念可申付候」(『はぜと木蝋』)と唐櫨の種子を領内に配分試植させている。これは伊予における櫨実生産奨励の最初である。櫨実の生産は、山間部農村においては有利な副業として発展した。

 宇和島藩の製蝋業

 五代藩主伊達村侯の寛保(一七四一~四四)―宝暦(一七五一~六四)期の改革において、宇和島藩の殖産興業が本格化する。製蝋業は重要な一翼を担い、次第に領内各地で唐櫨を栽植し、その櫨実を蝋座が青蝋・晒蝋(白蝋)に生産するようになった。櫨実の生産は農民(山方)が行い、製蝋は在方にあった青蝋座と宇和島城下町に存在した晒蝋座によって行われた。青蝋座は菜種子の搾油業を兼ねるのが通例で、晒蝋座は蝋燭も製造した。
 その後次第に櫨実の生産が増加して、宝暦四年(一七五四)二月には三座が設置された。「誉田屋米沢屋今蔵屋、右三人の商人、依願蝋実晒座被仰付候、御領内中唐はぜ山はぜ実、漆実、他所売停止被仰付候」(『日本農民史料聚粋』一一巻)とある。宇和島城下町の三軒の商人に限定して晒蝋座を認可し、同時に櫨実の領外輸出を禁止した。
 城下町の晒蝋座に対し、在方の青蝋座は、安永五年(一七七六)一〇月、増株を認めない藩の方針がとられており、保内組・矢野組(現西宇和郡・八幡浜市)に計一二人の青蝋座が存在し、運上が定められていた。さらに、天明元年(一七八一)には歩一銀制も適用されることになった。天明年間(一七八一~八九)には領内の青蝋・晒蝋製造に関する制約が撤廃されている。このように櫨実の生産と製蝋業の盛行のなかで、天明四年、保内組宮内村(現保内町)庄屋都築与左衛門を世話人に任命し、初めて青蝋・晒蝋の買い上げを実施し、大坂への輸出を試みている。
 寛政三年(一七九一)七月、藩は新しい晒蝋・青蝋を認めないこととし、同五年四月一日、国産物の引き受けを大坂商人加島屋作兵衛・綷屋善兵衛の二人に委託した。同時に、「産物世話人」として、城下町の商人宅屋喜右衛門・瀬戸屋喜八・味噌屋庄三郎・富屋林蔵・八持屋喜八の五人を任じ、歩一銀の徴収に当たらせた。
 このように、一八世紀後半に、製蝋業の展開と流通過程の整備の模様を見ることができる。保内組においてその開始をみた櫨実の生産と製蝋業は、山奥組・野村組の山間部、さらには津島組・御荘組(現北宇和郡・南宇和郡)という藩領の南部にまで拡大していった。品質は御荘組が最も良く、津島組がこれに次いでいたという。
 慶応元年(一八六五)正月、物産方に改革を加え、規制を強め、資金の貸与と製蝋業の拡充をはかった。製品の買い上げも実施した。翌年一一月から定められた買い上げ並びに返納の証書式は、

   蝋座元銀拝借証
一銀札 何程 何村蝋座  某
右之通当何の冬、櫨元銀御貸下被成下、慥に受取拝借仕候、
然る上は来る何の十一月限り、仕成蝋御買上代を以て返納
為仕可申候、為後日依て如件。
  年号月日                庄屋
                組頭  連 印
横目
   物産方御役所
  前書の通承届候条、限月無相違返納可申付候以上。
                  代 官 印

である。右の如く買い上げた製品は、総て大坂にある藩倉へ輸送し、藩倉方はこれを売りさばき、代金は為替にて物産方へ回送された。当時製蝋業は隆盛を極め、蝋座が三〇〇余戸、その金高は三〇~四〇万両に達し、櫨実一六貫目(六〇キログラム)俵に付銀五匁の運上を収め、また蝋座一株に付き一か年積出運上として銀一二六匁を徴収したといわれる。

大洲藩の製蝋業

 元文三年(一七三八)に喜多郡古田村(現五十崎町)の綿屋長左衛門弟善六の子善太郎が安芸(広島)国へ渡って甚平・長兵衛・新兵衛という三人の蝋打を雇い、帰って製蝋を始めた(『積塵邦語』)。これは恐らく伊予における木蝋の元祖であるが、まだ櫨の樹は無く、漆の実を用いたものという。新兵衛は蝋燭・鬢付などを造り、御用蝋燭を仰せつけられ、蛇の目御紋の判木を許された。そして製蝋の技術を御祓村(現五十崎町)の富永甚蔵及び内ノ子六日市(現内子町)の庄兵衛に伝え、次いで宇和島藩にも伝授した。
 寛保二年(一七四二)九月、内ノ子六日市安川玄意の記録に「唐樹は此春下石畳村和平治、同村庄屋伊兵衛御方にて所望、四月節に入り伏せ申様に由来り一家中のものへすそ分け致し追々植ゑる。其春和平治兄甚六と申す人より、苗五本申請て山畑へ四本、屋敷ヘ一本植ゑる」とあり、このころ満穂方面へ普及したものとみられる。
 宝暦年間(一七五一~六四)藩も良種の櫨苗を九州より輸入し、各村へ分け栽植させている。当初は穀作畑へ植えることを嫌ったが、官吏を派遣して勧諭し、繁殖の道が開けたという。以後櫨樹の収益が大きいことが知られ、山間・沿岸をとわず大いに広まった。文久年間(一八六一~六四)のころまでに蝋燭・鬢付油材料として広島から大坂までを販路としていたが、産額が増え、白蝋を製造し江戸近辺にまで輸出するようになった。
 内ノ子八日市の芳我弥三右衛門が伊予式晒蝋法を発明した年代は文久年間以後の幕末であると推定されている。蝋花式の晒蝋法は京都の柊屋の発明であるともいわれる。
 喜多郡宇津村(現大洲市)の奥田屋(奥野源左衛門)は、嘉永(一八四八~五四)・安政年間(一八五四~六〇)のころ製蝋を行い、藩の許可を得て、三島丸・和霊丸の二隻の持舟で広島へ送り、巨万の富を築いたのである。
 安永五年(一七七六)一〇月、藩は、櫨の販売を自由とし、運上を課されることになった。ところが、文久二年櫨実・蝋の買い占めに反対した一揆がおこっている。慶応年間(一八六五~六八)ごろ産物会所(修成館)を設置し、統制を強化している。