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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 愛媛県の工業構成の変化

 軽工業の低落と化学工業の躍進

 わが国の産業構造は、軍需を媒介として重化学工業へと重点移行を遂げたのであるが、それは地域的な不均等発展を通して、愛媛県の産業構造にひずみと跛行性をもたらした。そこで次ぎに、愛媛県における工場生産高から工業部門別構成の変化をみていくことにしよう(表産4-6)。
 愛媛県においては大正初期以来、紡織工業が異常に突出した偏奇的な産業構造をしており、昭和に入って紡織工業が徐々に比重を低下させてはいるが、昭和五年には、なお全工業生産額の七〇・一%を占めている。そのため他の部門の構成比がいずれも全国より低くなっている。なかでも金属工業と機械器具工業はウェイトが極めて小さく、全国と格段の開きがある。ただ化学工業のみが順調に拡大して全国比率に近づきつつある。生産部門を重化学工業(金属工業・機械工業・化学工業)と、軽工業(紡織工業・窯業・製材木製品工業・印刷製本業・食料品工業・その他工業)に分類してみると、重化学工業は大正期に比べて増大しているものの、昭和六年にはまだ総生産額の一五・七%にすぎず、従業者の割合は一割にも満たなかった(表産4-7)。日中戦争開始時には軽工業が全く支配的地位を占めていた。
 県の工業生産額は、昭和六年の六、六一一万円を底にして、ようやく長く深刻な不況から脱し、昭和九年ごろより好況に向かい始めた。この急速な回復過程において、紡織工業が構成比を速いテンポで低下させるにつれて軽工業部門の比重は低下し、昭和一二年には五七%となった。他方、重化学工業は化学工業を中心に年を追って比重を高め、一二年には四三%に達した。この六年間で二七・三ポイントも上昇した。この時期には全国においては重化学工業が過半に達しており、それに比べ本県の重化学工業化率はなお低いが、この間の産業構造高度化のテンポは全国を上回るものであった。なかでも人絹と硫安を中心とする化学工業の躍進はめざましく、昭和一三年には生産額構成比が四二・七%に達し、凋落著しい紡織工業を抜いて県内工業の首位の座についた。化学工業の生産額は、昭和六年~一三年の間に一三倍に増大するという急成長ぶりであった。県内の人絹工場は、昭和七年大原・住友共同出資による日本化学製糸(のち昭和九年倉敷絹織)、同九年明生レーヨン(昭和一六年富士瓦斯紡績壬生川工場)、同一〇年倉敷絹織西条工場、同一一年東洋レーヨン愛媛工場(伊予郡松前町)が誘致・設立された。

 新居浜工業地帯の形成

 この期の重化学工業の発達は、新居浜を中心とする住友系各社の発展によるところが大きかった。大正一〇年(一九二一)住友総本店が合資会社に改組されたのに伴い、管下主要諸事業が分離・独立し株式会社化され事業の拡大が図られた。
 大正二年産銅事業の付属事業として設立された新居浜肥料製造所は、大正一四年株式会社に改組され、さらに昭和九年には住友化学工業(株)と改称された。この間に昭和三年アメリカから技術導入して合成硫安の製造を開始し、さらにメタノールや硝酸などの工業薬品から、しだいに染料・医薬品の分野まで進出して総合化学工業会社に成長した。また、別子銅山の工作方(明治二七年機械課)から分離した住友別子鉱山(株)新居浜製作所は、昭和九年住友機械製作(株)として独立し、同一五年住友機械工業(株)に改称した。この間に事業内容を銅山機械の補修保全から起重機・巻揚機・鉱山用機械・原動機・電気機械などの製造・販売・修理へと拡大した。金属工業の分野では、銅製錬に加え、昭和九年に住友アルミニューム製錬(株)が設立され、翌一〇年より操業が開始された。繊維産業として同九年には、県下初めての人絹工場である倉敷絹織(株)新居浜工場が大江地先埋立地に誘致された。また、これら各社の電力需要に応じるために、大正八年に設立された土佐吉野川水力電気(株)は、昭和九年に四国中央電力(株)と改称し、さらに同一六年住友共同電力(株)と名称を改めるとともに、この間に新たに発電所を建設して電力供給の拡大が図られた。このような臨海地区での工業化の多角的な進展につれて、市内には多くの下請工場・部品工場群が形成されていった。

 機械・金属工業の発展と紡織工業の凋落

 住友系企業が戦時統制に支えられて、軍需なかんずく兵器生産を拡大していったのに代表されるように、昭和一〇年ごろから軍事色が強まるにつれて機械器具工業と金属工業の増進が顕著となった。昭和一三年には機械工業の生産額は食料品工業のそれを抜き、次いで太平洋戦争突入二年目の一七年には、金属工業も食料品工業を凌ぐまでになった。なお昭和一五年に軍需工場として規模の大きいものは、住友機械株式会社(職工約二、二八八人)、岡田製作所(同三一六人)、宇和島鉄工株式会社(同二四七人)などであった。かくして昭和一七年の重化学工業の生産額シェアは五七・五%に達し、戦時下とはいえ県工業優位の段階に到達したのである。表産4-7によれば、同年の重化学工業の比重は、工場数及び従業者数では、それぞれ一九・八%、四二・一%であり、重化学とくに重工業関連の諸部門では、工場集積を進めながら従業者規模を一挙に拡大し、高生産性型の生産形態を促進してきたことが知られる。
 経済統制によって重化学工業が急速に発展したのと対照的に、多くの軽工業部門は不要不急のものとして厳しく生産制限され、その上、企業整備により多数の工場が強制的に閉鎖されたため急激に衰微した。とくに紡織工業は原料綿花の輸入が激減し、しかも統制により原料綿花・綿糸の割り当てが著しく減少したため、加速度的に生産を減退させた。昭和一五年『県政事務引継書』には、「物資非常管理ノ及ボスエ業界ノ影響」について、「統制強化ノ影響ヲ受ケ一時伊予絣、タオル、綿織物業ハ非常ナル打撃ヲ受ケ休業ノ止ムナキニ至ラントセシガ「タオル」業ハ綿糸ノ特免ト「ス、フ」織ニヨリ織物業ハ輸出向、軍需並「ス、フ」ヲ原料トスル内地向二転ジ辛ジテ操業ヲ継続シツヽアリシガ……、只伊予絣ハ綿糸ナラザレバ価値ナキ地方特産品ナルガ漸ク少量ノ混紡糸ノ配給二依リ操業ヲ為シツヽアルモ四六工場職工七二〇ハ殆ンド操業困難ニシテ不振ノ状態ニアリ」と記されている。
 紡織工業は昭和一三年には化学工業に次ぐ地位に転落し、その生産額比率は一七年には二〇・九%まで滑落した。わずか一〇年間で五〇ポイントもシェアを低下させる凋落ぶりであった。今治綿業では一八年の企業整備の実施により、広幅織物は工場数の五三%、織機の四八%を、タオルは工場数の六四%、織機の六七%を整理し、紡績工場は航空機製造工場に転換した。ただ縫製工業のみは軍服の需要が増大し発展した。その上、昭和二〇年八月五日の空襲により甚大な被害を受け、広幅織物は一六工場、織機一、五三二台を、タオルは九工場、二七五台を残すのみとなった。戦時統制と戦災によって戦前の「綿業王国」は見る影もなかった。
 以上のように、戦時期の愛媛県における産業構造の変化は、戦時統制により強制的に加速されながら軍事生産の本格化とともに重化学工業化を一応達成した。その過程では、紡織工業の急激な衰微など軽工業関連諸部門における大きな犠牲を払いつつも重化学工業の基盤を形成し、戦後の新居浜・松山臨海工業地域形成の基礎を確立したのである。

表産4-6 部門別工業生産額構成比

表産4-6 部門別工業生産額構成比


表産4-7 重化学工業の比率

表産4-7 重化学工業の比率