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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 明治中期の内国貿易構造

 輸移出入の動向

 産業構造の変化は貿易構造の変化に反映される。統計資料によって明治中ごろの愛媛県の内国貿易の状況を検討してみよう。当時の統計資料、なかでも輸出入(すなわち国内における移出入)統計は「本表ハ調査整難キ郡アルニヨリ唯其概略ヲ掲ク」とあるように不完全なものでしかなかった。このような統計の信頼性吟味は捨象して、原資料(明治一六年『愛媛県統計概表』)に基づいて明治一六年の主要品輸出入価額を整理して示すと、表産2-18のようになる。なお、より詳細には、『資料編社会経済上』産業構造、輸出入参照。
 明治一六年の輸出額は三〇九万九、〇〇〇円輸入額は二八〇万六、〇〇〇円で、差引二九万三、〇〇〇円の輸出超過となっている。これは当年の米の生産価額二一五万円に比べ、輸出額は一・四倍、輸入額は一・三倍に相当する。ここでいう輸出入には県外との移出入だけでなく、県内の他地域(郡)との間の物流も含まれるため相当の流通量となっている。最も重要な輸出品は紙(五五万二、〇〇〇円)、銅(四六万五、〇〇〇円)、生蝋(三八万四、〇〇〇円)で、これら三品目で総輸出価額の四五%を占めている。そのうちかなりの部分が神戸などを経由して海外に輸出されていた。輸出価額五万円以上を示したその他の物品は、米三一万八、〇〇〇円、食塩一八万六、〇〇〇円、砂糖一〇万三、〇〇〇円、酒七万八、〇〇〇円、安質母尼(アンチモン)六万九、〇〇〇円、呉服六万五、〇〇〇円の順であり、以上の上位九品目で総輸出額の七二%という高比率を占めていた。一方、輸入は、米(五四万八、〇〇〇円)、食塩(三五万八、〇〇〇円)、呉服(二八万三、〇〇〇円)の三品目に、石油・石炭・煙草・麦・酒を加えた上位八品目で一六三万四、〇〇〇円を示し、当年の総輸入額の五八%を占めている。米・食塩・酒及び呉服は輸出額と輸入額ともに大きく、当時最も流通の盛んな商品であったことがわかる。
 次いで輸出入の差額つまり純輸出入額をみると、食用農産物は甘藷を除いてすべて入超となっていることが注目される。米は年産出額の一割ほどを純輸入していることになる。食塩は当年は一七万円の入超となっているが、後にみるように通常年には輸出が上回っている。以上をまとめると、明治一六年の愛媛県の内国貿易は輸出額と輸入額をほぼ均衡させつつ、輸出入とも上位数品目で全体の過半を占めるというかなり偏った構造をもっていた。それは自給自足経済の枠組を多分に残しながらも、しだいに資本主義的商品流通に順応して、形成されつつあった愛媛県特有の産業構造の姿をそのまま反映したものである。もちろん、このような単年度でとらえた貿易構造は、錯綜する当時の経済構造の変革過程においては、必ずしも定常的状況を示しているとはいえない。とりわけ明治一六年は、デフレ不況下で市況が激しく変動していた時期である。そこで参考までに前後の時期の貿易を概観しておこう。
 表産2-19は明治一四年における輸(移)出入価額一〇万円以上の物品状況を示している。まず輸出入総価額を一六年と比較すると一四年が幾分上回っている。これから一六年は厳しい経済不況で全体として商品流通が低調であったことが知られる。輸出入差額をみると、輸出価額が五三万七、〇〇〇円上回り、やはり出超の構造となっている。最大の輸出入品目は呉服(繊維品)で他を大きく抜いている。純輸出となっている主要物品は、銅・生蝋・紙・干鰛の順である。一六年に比べ干鰮三〇万円が目立っている。純輸入は呉服・米・実綿が大きい。このように明治一四年と一六年では、幾つかの物品で流通量が大幅に相違し、輸出入差額が逆になるものもみられ、県内生産力の不安定さと市況の激しい変動がうかがえる。しかし、いずれにしても愛媛県の明治中期の内国貿易は、米をはじめとする食用農産物・石油・石炭などの燃料及び呉服を輸入し、銅・アンチモンなどの鉱産物と干鰮などの水産物及び生蝋・紙などの農村工業品を輸出するという構造になっている。主要商品である呉服(繊維類)の貿易状況をみると、その輸出入総額にしめる比重の大きさから、県産業における繊維産業の重要性が明らかである。その貿易構造は一応は実綿ないし木綿糸などの原材料を輸入し、綿織物を輸出するという形態をとっているけれども、県民の衣料需要を満たすためには、一層多量の綿布その他製品を輸入しなければならなかった。この期の愛媛県の繊維産業は金額的にも輸入価額が輸出を圧倒的に上回り、まだ輸出産業としては未成熟であった。これは日本綿業が明治前期に綿・糸・布の輸入産業として出発し、明治二〇年代にかけて、しだいに綿糸・綿布の国内生産の段階へ進んでいったのとほぼ期を同じくしている。いうまでもなく、わが国の繊維産業はこの後、急速に輸出産業に成長し、加工型貿易の担い手として日本産業構造を変革させる原動力となったのである。

 著名港輸出入

 明治中期、県内各地では海運を主経路とする商品流通が展開されており、西条港・波止浜港・三津港・郡中港・長浜港・八幡浜港・宇和島港・川ノ石港などが通商港として開かれていた。そのうち三津港・八幡浜港・宇和島港の主要三港について、明治一七~二〇年の輸(移)出入の状況をみておこう(表産2-20)。
 明治一七年は三港とも輸出超過になっているが、翌年以後、三津港が輸入超過に転じ、他二港はその後も輸出超過である。三津港は、松山の出先港として輸出入品の種類も豊富であり県内外との流通の拠点になっていた。主要輸出品は綿織物・米・茶・呉服反物で、その仕向地は大阪や広島の他に神戸や馬関があげられており、積出品の一部は海外に輸出されていたことが推察される。輸入品は呉服反物・太物・藍玉・木綿糸などの繊維関係品と後背地向けの食品雑貨が多い。八幡浜港は、生蝋・木綿縞を輸出し、米・洋産木綿糸を輸入していた。宇和島港は、生蝋・和紙・水産物・醤油・米の輸出が多く、砂糖・食塩・呉服が主要な輸入品となっていた。八幡浜・宇和島両港の輸出超過構造を支えていたのは、特有農産物、水産物などの一次産品に加えて、農村マニュファクチュアの展開とともに、増加傾向を示してきた木綿縞や醤油醸造物などの農村工業品であった。明治一六年と比べ、輸出入の比重が農産物から軽工業関連品へと移り始めており、とくに明治二〇年以降は絣や縞など綿織物が急激に拡大し主要輸出品となった。これら南予地域では、工業品の生産額構成比はまだ低位にあるけれども、資源や耕土に恵まれないためかえって貿易面では、原材料輸入・軽工業品輸出という加工貿易の原型がいも早く現れたともいえよう。

表産2-18 明治16年愛媛県輸出入額

表産2-18 明治16年愛媛県輸出入額


表産2-19 明治14年愛媛県(伊予国)輸出入額

表産2-19 明治14年愛媛県(伊予国)輸出入額


表産2-20 愛媛県主要港輸出入価額

表産2-20 愛媛県主要港輸出入価額