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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

二 農業生産力

 伊予八藩及び幕府の所領地石高

 近世、伊予は複雑な地形を反映して八藩及び天領に分割して統治された。その領域は複雑に入り込んでいたが、東・中予の交通の便のよい、比較的生産力に恵まれた地域には松山・今治・西条の三親藩と天領(約二三万石)が置かれた。一方、外様の五藩(約二一万石)は、小松藩を除きすべて半島や山間部の多い南予地方に配置されていた。
 藩政期の産業構造においては、もちろん農業生産を主力とし、これに林産・水産・鉱産・工産などをもって構成されていた。しかし、当時の産物の生産高を総括的に示す資料は存在しない。次に、伊予八藩の石高などを示す(表産1―1)。
 藩の資格を表示する表高(草高)は、八藩を合わせて四二万五、〇〇〇石で、これに幕領を加えた伊予国の総石高は四四万五、〇〇〇石となる。石高はその領地における米麦・雑穀の総産額を評価したものである。すなわち、幕府及び諸藩は田租を定めるに当たり、実地を検査して田畠の等級付けをし、それに応じて段(あるいは石盛という)を定め、その段数に総反別を乗じて総石高を算出した。したがって、総石高は農業生産力を一応は表示しているといえよう。しかし、この総石高が定額を超えればその分は公収され、逆に少なければ家格を下げられることとなるため、領主の石高は一定して動かさないよう段数を定めるのが常であった。
 段が定まれば、その石高に免を乗じ物成もしくは年貢とした。免は税率であり、免一つは石高一石に対して一斗の税を藩主が収納することである。各藩の税率は相違しており、一石について、松山藩は四斗四升俵で二俵、宇和島藩は四斗二升俵で一俵、大洲藩は四斗俵で一俵当て徴収したと伝えられる。この各藩の米穀一俵一石の割合(ただし松山藩のみ二俵を一石として)で表高を換算したものが各藩の現石(実収高)である。これらを合算した伊予国の総現石高は約二八万三、〇〇〇石となる。もとより、これらの数字は、藩主の行政上の都合に加えて、石盛の方法、検地竿の操作、検見(収穫見積もり)の加減などにより左右されるため、正確に当時の伊予国の生産力や諸藩の財政力を表しているとはいえない。ただ、その概数を示すにすぎない。

 郡別の石高とその推移

 表高は藩政期を通じてほぼ一定額に据え置かれるが、実際の生産力はその時期により、またその年の豊凶によっても変化する。いま、各藩所領地及び幕府直領地に属する各村落の石高を郡別に通算したものの推移を示す(表産1―2)。
 藩政初期の慶安元年(一六四八)には、伊予一四か郡九三四か村の総石高は、四〇万〇、二七一石であった。これが藩政中期の元禄一三年(一七〇〇)には、同一四か郡九五九か村の村高の総計は四二万九、一六三石に増加した。さらに藩政後期の天保五年(一八三四)には、同九五五か村の総村高は四六万〇、九九七石とかなり増加した。約二一○年間で一五%の増加であった。内高は不明であるが、この間の郡別の生産力の変化をうかがうことができよう。
 上記の村高の累増石高は、検地による出目を含むとしても、概ね新田開発によるものと考えられる。江戸時代前半期には、幕府や諸藩が、租税の増収による財政の安定を目指して積極的に新田開発を進めた。伊予国においても新田開発は前半期、とくに元禄のころまでが盛んであった。それは、例えば、元禄一三年の領分附伊予国村浦記では、宇和郡や野間郡の石高が大幅に上方に改高されていることに表れている。ただし、元禄一三年と天保五年の石高を比較すると、新居郡及び越智郡における増加が顕著であり、これら二郡においては、後半期に干拓による新田開発が進められたことを物語っている。
 農業生産力の地域別の差異を見ると、表産1―2の石高は米穀生産とは限らないが、農業生産力中、米穀は宇和・越智・浮穴・喜多の四郡を主産地とすることは、藩政の前後期を通じて不変である。伊予国全体の一村当たり平均石高は四〇〇石以上あるものの、山村平島方の多い浮穴郡及び風早郡の村々が小規模であり、平野部の伊予郡と和気郡の平均村高が大きい。


表産1-1 伊予八藩石高等

表産1-1 伊予八藩石高等


表産1-2 伊予国郡別石高の推移

表産1-2 伊予国郡別石高の推移