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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

第一節 燧灘海区


 燧灘漁場における広島県との紛争

 明治一三年三月広島県漁民が野々江(大三島)沖へ、そして六月の大島沖への侵入操業した事件に始まり、タイ縛網漁民が大挙して魚島周辺漁場へ侵漁し、越智郡漁民と大乱闘となった同二六年四月の事件を経て、両県間に協定書が交換され決着する同四四年一二月までの、ほぼ三〇年にもわたった紛争である。
 旧藩時代の燧灘漁場は、今治藩漁民の独壇場であった。これは燧灘の中央部に点在する魚島(沖島)、四坂島(明神島・美濃島・梶島)が今治藩領であったこと、燧灘を中心に操業するタイ縛網・吾智網・サワラ流網などが、今治藩の漁民によって開発されたためである。
 「本藩二於ケル漁業及漁場ノ取締ハ、事ノ軽易二属スルモノハ各村浦二於テ之ヲ司リ、其稍重大ナルモノ及藩内一般ノ共同漁場、即チ燧漁場ノ如キハ藩庁専ヲ之レカ取締ヲナセリ」(漁業制度調、今治藩)とあるように、燧灘漁場(燧漁場)は、今治藩によって管轄されていたことがわかる。ただ越智郡島方に多くの村々を領有する松山藩との間に競合がなかったことは、岩城(能地漁民の移住)を除く以外はいずれも漁業が振るわなかったためであろう。
 今治藩の八代藩主松平定芝の時代福山藩との間に、弓削島沖合の百貫島の帰属をめぐる紛争が起きたが、これはタイの好漁場である百貫島南周辺及びこの沖合にある通称百貫島下網代の領有が焦点であった。しかし天保年間(一八三〇~一八四三)倉敷代官所の裁決を仰いだ結果、今治藩領に決定した。これが、以後広島漁民の今治領側への入漁問題に大きな意義を占めたことは言うまでもない。
 嘉永二年(一八四九)能地漁民、同七年(安政一年)尾道のサワラ流網漁民の入漁、安政二年(一八五五)には備後(広島県)日生村のサワラ流網漁民一〇統が大挙入漁した事件が発生したが、これらはいずれも誤証文を関係村役人に提出して落着している。
 さて、明治に入って社会の激変に対応して専有権、入漁権をめぐって漁業紛争は激化することになった。すでに述べた明治一三年の広島県からの侵漁、一六年の伯方、大三島近海への侵漁事件は、地元漁民との相互交渉で入漁料の支払いで解決した。しかし、同二〇年五月岡村、伯方村専用漁場へ広島漁民が多数侵入した事件は、両県の協議が進展しないため、政府に持ち込まれたが、結局解決のないまま、同二六年四月、タイ縛網漁民が団結して大挙侵入する事件に発展した。魚島村の武田仙次郎氏は当時六歳であったが、状況が余りにも悲壮で、その記憶が脳裏に残っているとして、当時の思い出を語っている。(燧灘漁業史、昭和二八年)

 「私は子供心に石合戦を覚えて居るが、魚島では広島の漁船が来ると言ふので、戦闘の準備に着手し、男も女も子供も、やっさもっさと小石を船に積込み、壮年の男子は総べて竹槍を削り、船中には今の暴力団、当時の親分子分を乗込ませ、四丁櫓、八丁櫓を押して広島の漁船を目掛けて石を投げ込む、先方も之れに応戦して場合によっては舷々相寄せて、竹槍を振ふといふ有様で誠に悽愴なものであった。無論喚声揚げて帰る壮丁の中には相当の負傷者もあった。そうして広島側の船は白塗り、愛媛県側のものは黒塗りで、山の上からははっきり合戦の様子を知ることができたが、まことに悽愴なものであった。私方では母が神前に燈明を点じ合掌して、合戦の勝利と父親の安全を祈って居た。」
とあるように、双方入り交じっての死闘が繰り返された。この闘争の中、両県それぞれチャーターした汽船に警察官を乗り込ませ、愛媛県側は侵漁者を、また広島県側は漁業防害者をそれぞれらちしたが、新手が次々と加わるので、手の施しようがなかった。急きょ両県知事らによる尾道会談を開いたが解決には至らなかった。この乱闘事件も漁期の終了と共にやがて平静に返ったが、この問題を恒久的に解決するため、愛媛県側は九月政府に実情を報告し、善処を求めた。翌明治二七年日清戦争を契機に朝鮮海域への出漁意欲が高まり、この問題は未解決のまま自然消滅の状態となった。
 明治三六年一一月、政府は燧灘漁場を愛媛県管理区域とし、広島県側の希望を入れ、一定数の入漁を認めることを条件に、今治・桜井・大浜・関前・大三島・弓削・生名・魚島・岩城・伯方・西伯方・宮窪・友浦・渦浦・瀬戸崎・津倉の一六漁業組合に漁業権を与える意向であることを示した。このため両者の対立は緩和され両県漁民の感情は次第に和らぎ、同四四年一二月、農商務省担当者立合のもとに、協定書が作成され、紛争がついに解決することになった。翌四五年六月、前記一六組合のうち大三島が盛口・宮浦の二つとなり、これに志津見が加わり、一八漁業組合及び関係町村五五名の個人名で、燧灘共同専用漁場として出願し、大正二年一月、専用漁業権第四、二三九号の免許が下付され、これを受けて、翌三年四月、燧灘漁業組合連合会を組織した。昭和二四年新漁業法の公布によって、同二六年県下第一位の漁業権補償金の交付を受け、同連合会を解散した。

     協定書(要点のみ)
 第一 愛媛県越智郡関係者二於テ専用漁業ノ免許ヲ受ケ広島県関係漁業組合ヨリ出願ノ専用漁業願書ハ之取下クルコト
 第二 漁業権者ハ左ノ条件二依り広島県関係漁業組合ノ入漁ヲ承認ス
 (イ) 入漁シ得ヘキ数
   縛 網  七〇統以下
   鰆流網  五三隻以下
   吾智網  一九三隻以下
   手繰網  七〇隻以下
 (ロ) 入漁料
   縛 網  一統一ヵ年二付金八円
   鰆流網  一隻一ヵ年二付金一円六〇銭
   吾智網  一隻一ヵ年二付金七〇銭
   手繰網  一隻一ヵ年二付七〇銭
 (ハ) 入漁料ハ入漁スル当業者ヨリ直接之ヲ支払ウヘキコト
 第三 広島県関係漁業組合ハ入漁ノ権利義務ノ登録ヲ申請シ漁業権者ハ之二連署其他ノ手続ノ履行二応スヘキコト


 立山漁場の紛争

 昭和三〇年五月一八日から三日間にわたって、立山漁場(吉海名駒沖合)をめぐる大浜(今治市)一本釣漁民と志津見(吉海町)を中心とするローラー吾智網漁民との乱闘事件である。ローラー吾智網は従来の吾智網が昭和二四・五年ころに機械化され、二八年以後急激に普及した。漁獲能率の高いこともあって、一本釣漁民に与えた影響も大きく、禁漁区域の周辺付近では漁業紛争が頻発することになった。特に大浜の一本釣漁民を刺激したのはローラー吾智網の禁止区域立山漁場での度重なる操業であった。当局の取締りに不満をもった大浜漁民は自警団を組織し、同月一八日朝漁船五そうに一五〇人余が分乗して立山漁場に出動し、操業中の五〇統の漁船を襲い、小部・志津見・今治の一〇そう(一〇統)五二名を捕え、大浜に引き揚げた。これを待ちうけた地元漁民との間に一時険悪な空気がみられたが、身柄を夕刻今治海上保安署に引渡した。大浜漁民はさらに警備を徹底するため、同日夜九時過ぎ一〇〇名の自警団を組織して再度立山漁場に出動、翌朝一隻を捕えた。ところがこの報復として同日夕刻、大浜の一本釣漁船三〇〇隻が立山漁場に出漁中、志津見漁民一〇〇余名が八隻の漁船に分乗して襲撃、大浜側に多数の重軽傷者を出した。激こうした大浜漁民約三〇〇名は二〇日夕刻、六隻に分乗し名駒で待機した後、午前二時志津見に上陸、浜に集合していた志津見漁民と向かいあった。小競り合い、漁船・漁具の打ち壊し、あわや乱闘寸前を警察船で駆け付けた武装警官に阻止され、午前六時大浜に引き揚げた。大浜では、部落全体の責任として、この事件の犠牲者は一人も出さないとの方針をとったため、捜査は難航したが、六月一〇日志津見二五名、大浜一二〇名を送検、このうち一八名を同月二五日起訴、つづいて七月一一日四一名を起訴し、取調べを終わった。
 さて、この紛争とほぼ同じ内容の漁業紛争が藩政時代にもみられ、現在置かれている瀬戸内漁業の零細性を浮き彫りにしている。寛政七年(一七九五)の記録によると、「近年ごち網船が数艘にもなり、釣猟師共難渋している旨を聞いているが、今度次のように申付ける。」(今治藩勘定所記録)として、今治藩は猟師町一三統、志津見二統の吾智網漁民に、①節分から一二〇日(寛政七年直後には一三〇日となる。)の間、大川裾~高井神島見通し線、及び大川裾~中戸島見通し線以内で操業してはならない。もちろん今治前沖合も同様である。②この線以外では勝手次第である。ところが天保五年(一八三四)の記録(前記同様)によると、この年節分から一三二日目に当たる五月二〇日、期限明けにもかかわらず、大浜一本釣漁師が依然として漁場に居座っているとして、操業中を吾智網漁民が襲いかかる事件が起きたが、この場合の裁定は、期限後もこの網代で操業することができる慣行を認めて、一本釣漁民に有利な判定をした。このことはタイ一本釣漁業が吾智網より古いこと、それに御用鯛を課せられていた大浜漁民への配慮があったものと考えられる。


図6-1 立山漁場付近

図6-1 立山漁場付近