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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

四 底びき網漁業


 底びき網の歴史

 底びき網の起源は非常に古く明確ではないが、平安時代末期には既に無動力漁船の手繰網による底びき網漁業が行なわれていた。カレイ・ヒラメ・タイ・グチ・エソ・イカ・エビその他の沿岸性の底魚を漁獲の対象とする漁業である。元禄年間から宝暦年間(一六八八~一七六四)に摂津・和泉地方では帆打瀬網が行なわれ、江戸時代後期から明治時代にかけてこの漁業は相当の発展をみた。明治三〇年代に入ってから動力漁船を使用する機船底びき網漁業が起こり、順次現在のような機船底びき網漁業全盛時代を迎えることとなった。以下手繰網漁業・打瀬網漁業と小型機船底びき網漁業を中心に述べる。

  1 手繰網漁業・打瀬網漁業

 手繰網

 手繰網漁業は船曳網に似た曳網をもって海底をひき廻し、船を一定の位置にとどめ、順次船上に網を手で繰り寄せて漁獲する底びき網漁法であって、網の大きさは船曳網などに比べればきわめて小型のもので、当初は漁船一隻に漁業者は一~二人の小規模漁業として行なわれていた。瀬戸内海では和泉地方ですでに中世から行なわれていたが、永禄年間(一五五八~一五七〇)にかけてこれが紀伊地方に伝わり、本県はじめ順次伝わり瀬戸内海沿岸諸国では江戸時代に相当盛んに行なわれた。大正二年における本県の手繰網は北宇和郡が最も多く一九八、以下越智郡一三九・喜多郡一〇九・伊予郡一〇五・西宇和郡九〇・新居郡六八・温泉郡五七・宇摩郡三七・東宇和郡三二・南宇和郡一九・周桑郡二計八五七統に達し全許可漁業統数の一二%にも達していた。

 打瀬網漁業

 手繰網が船を一定の位置にとどめて網を繰揚げるのに対して、風力によって船を横に移動せしめて網を海底で引き廻して網揚げする漁法が打瀬網漁業である。日本ではやはり泉州地方が早くから発達したようであり、宝永年間(一七〇四~一七一一)に起こったといわれる。江戸時代の後期には瀬戸内海諸国・紀伊・伊勢・尾張・江戸の各地に伝わり盛んとなった。日本海の若狭・敦賀・越などでも当時相当盛んに行なわれた。打瀬網は一名帆曳網と呼ばれ帆が特に重要であったが当時は木綿を多く使用し、所によっては荒帆を用いていたところもみられた。
 明治二二年一一月一九日漁業取締規則を新たに制定し、この中で打瀬網漁業は新規営業者の操業及び既許可者といえども地元漁民の承諾なしに営業することを禁止する措置がとられ、さらに三二年七月九日の水産取締規則の制定によって毎年六月一日~七月三一日までの禁止期間を設けた。また三七年二月二二日制定の取締規則では新たに禁止区域を越智郡地先海面に設定した。これら一連の規制措置が次々ととられたことは本漁業の他に与える影響の大きかったことを示すものである。
 大正二年における本県の打瀬網は西宇和郡が最も多く一四七、次いで北宇和郡八四・温泉郡七七・越智郡五九・南宇和郡一四・東宇和郡一一・宇摩郡一〇・喜多郡一の計四〇三統であり、相当の操業隻数があって隆盛を極めていた。菊間には大正時代の全盛斯には二五統位あり、三人乗りの五~六tの無動力船で主に五~六月を盛漁期としてジャコ・グチ・エビなどを獲っていたが小型底びき網へ切換えられていった。寒川地区では終戦前まであり、全盛期には三〇隻にも達していた。魚島には昭和一〇年ごろ四五隻もいたが、二三年には三隻に減り、二八年の小型機船底びき網漁業の減船整理の際になくなった。遊子地区も昭和二〇年代でなくなり、伊方地区では明治三〇年ころ広島県より来県した漁業者が元祖といわれ、最盛期と目される昭和一〇~一二年ころには一三隻繰業していたが、これが次第に少なくなり三〇年ころの二隻を最後に消滅した。帆打瀬網漁船の規模は二〇tを超える大型なものであり、宇和海では八幡浜、宇和島、伊方などの地区に多かった。昭和三三年には九島二六隻・興居島八隻・大三島三隻・弓削一隻・菊間九隻・波方三隻の計五〇隻に減少していたが、本県における打瀬網の最終操業は菊間の一統が昭和三七年まで続けられた。しかしこれも翌三八年以降は全く姿を消してしまったのである。
 この消滅原因はもちろん底びき網漁船の動力化の出現によるこの漁業との労働・時間・資本の各生産性の格差のためであった。

  2 機船底びき網漁業

 機船底びき網漁業の推移

 昭和三七年八月三一日、法律第一五六号によって漁業法の一部改正が行なわれ、これにもとづく漁業法第五二条第一項の指定漁業を定める政令が同年一月二二日政令第六号によって公布された。さらに改正が昭和五七年七月一二日政令第一九三号により行なわれた結果、指定漁業の機船底びき網漁業が定められた。また漁業法第六六条で知事の許可漁業としての小型機船底びき網漁業が「総トン数一五トン未満の動力船により底びき網を使用して行なう漁業」と定められ他の機船底びき網漁業と区分せられたのは昭和二六年一二月一五日法律第三〇九号「漁業法の一部を改正する法律」以後のことであり、これより以前は現在の沖合底びき網漁業と同じ制度におかれていた。

   漁業法第五十二条第一項の指定漁業を定める政令(抜すい)
                     昭三八・一・二二
                         政令 六
        ◎最終改正 昭五七・七・一二・ 政令一九三

1 漁業法第五十二条第一項の政令で定める漁業は、次に掲げるものとする。
一 沖合底びき網漁業 北緯二十五度の線以北、次に掲げる線から
 成る線以東、東経百五十三度の線以西の太平洋の海域において総
 トン数十五トン以上の動力漁船によhソ底びき網を使用して行なう
 漁業(第五号及び第十六号に掲げるものを除く。)
 イ 北緯三十三度九分十五秒以北の東経百二十八度の線
 ロ 北緯三十三度九分十五秒東経百二十八度の点から北緯三十三
  度九分十五秒東経百二十八度三十分の点に至る直線
 ハ 北緯三十三度九分十五秒以南の東経百二十八度三十分の線

二 以西底びき網漁業 北緯十度の線以北、次に掲げる線から成る
 線以西の太平洋の海域において総トン数十五トン以上の動力漁船
 により底びき網を使用して行なう漁業(第五号に掲げるものを除
 く。)
 イ 前号イ及びロの線
 ロ 北緯三十三度九分十五秒東経百二十八度三十分の点から北緯
  二十五度東経百二十八度八十分の点に至る直線
 ハ 北緯二十五度東経百二十八度三十分の点から北緯二十五度東
  経百二十一度の点に至る直線
 ニ 北緯二十五度以南の東経百二十一度の線

三 遠洋底びき網漁業 北緯十度の線以北、次に掲げる線から成る
 線以西の太平洋の海域以外の海域において総トン数十五トン以上
 の動力漁船により底びき網を使用して行なう漁業(第五号及び第
 十六号に掲げるものを除く。)
 イ 北緯二十五度以北の東経百五十三度の線
 ロ 北緯二十五度東経百五十三度の点から北緯二十五度東経百二
  十一度の点に至る直線
 ハ 前号ニの線

五 母船式底びき網等漁業 母船式漁業(製造設備、冷蔵設備その
 他の処理設備を有する母船及びこれと一体となって漁業に従事す
 る漁業法第五十二条第一項の独航船などにより行なう漁業をい
 う。以下この項において同じ。)であって、底びき網、はえなわ又
 はさし網を使用して行なうもの(赤道以北の太平洋の海域以外の
 海域において行なうものでその使用する同条第一項の独航船など
 のすべてが総トン数二トン未満であるもの並びに第十一号、第十
 五号及び第十六号に掲げるものを除く。)

 これらの各機船底びき網漁業についての発達経緯を順を追って述べることとする。
 明治三八年鳥取県の奥田亀三が大阪で木船のトロール汽船海光丸(一五二t)を建造して操業したのがわが国のトロール漁業の始まりといわれる。明治四一年には二隻にすぎなかったが、明治四二年四月農商省令第三号として汽船「トロール」漁業取締規則が公布された。これはこの漁業が「螺旋推進器をもって船舶を運航し特殊なオッタートロール又はビームトロールを使用して底びきをするもの」であり、漁獲効率の優秀な漁法のため、沿岸漁業として当時ひろく普及していた無動力の打瀬網平手繰網など沿岸漁業との競合が見込まれたことからこの両者の対立激化を防止するうえでとられた措置であった。当時沿岸漁業者からこのトロール漁業に対する反対運動は議会を通じるなどして大きな政治問題化した。このような背景のもとで公布された前述の汽船「トロール」漁業取締規則ではこの漁業を大臣許可漁業とし、沿岸海域に操業禁止区域を設けるなどの規制が行なわれたのである。しかしながらトロール漁業は本来遠洋の漁場で操業さるべきものであったので非常な勢いで発展し、明治四三年八隻、四四年五〇隻、四五年六九隻の新造船を加えて総数で一三九隻に及びたちまち乱獲時代に突入していったのである。
 機船底曳網漁業は明治四二年に北海道において前尾氏が打瀬網の帆船を動力化して試験操業したのが始まりといわれる。翌四三年日本海において政府と京都府、福井県が試験操業を実施し実用化への機運を醸成した。そして実用化の先駆者となったのはその数年後、大正二年に操業した島根県の澁谷氏であった。しかし当時の網揚げは手繰であったので能率は低かったが、大正六年に至って網の捲揚機による操業が島根県で開発されてから機船底びき網漁業は飛躍的な発達をみることとなり、大正八年ころから全国へと順次普及していったのである。
 本県における機船底びき網漁業の本格操業は八幡浜の一艘曳機船底曳漁業が大正七年に真穴村の柳沢秋三郎によって山口県から導入されたのが始まりで、大正一一年二艘曳を導入しその後次第に普及発展を遂げ、大正一三年には西宇和郡管内で二一統の許可数にまで増加し、全国の総数は三、〇七九統にまで拡大するに至ったのである。しかしこの漁業は沿岸の底棲性魚族資源を枯渇させるとして、他の沿岸漁業との間で対立が激しいものとなっていた。そこで政府は各県の漁業取締規則では如何ともし難いと判断したので大正一〇年九月機船底曳網漁業取締規則(汽船トロール漁業を除く)を制定した。この規則で、動力漁船による手繰網・打瀬網などすべての底びき網漁業は根拠地を管轄する地方長官の許可制とした。そして農商務大臣が一定の禁止区域を設定し、他の沿岸漁業を保護する措置をとった。しかしながら取締規則制定後も機船底曳網漁船の増加は著しいものがあった。当然のこととして他の沿岸漁業者からは取締りの強化あるいは機船底曳網漁業の全廃の声が高まっていった。
 政府は大正一三年一〇月以西底びき網漁業(東経一三〇度以西の操業)に対して新規建造、許可を禁止するなどしてこれを規制したが、昭和初期に入っても沿岸漁業との対立は一そう激しさを加えた。昭和五年には以東底びき網二、六六九隻、以西底びき網一、〇八四隻、合計三、七五三に達する大勢力にまで発展してきたうえ、禁止区域違反が増加し、底魚資源乱獲のきざしが見え始めたうえ、無許可船の横行もめだってきたので、同年に取締規則の改正が行なわれ規則が強化された。この改正の要旨は ①船舶の増tにも許可制を導入 ②違反船への碇泊処分を規定するなど罰則を強化したことなどであった。さらに昭和七年一二月、規則を改正し、同漁業が地方長官の許可であったものを ①農林大臣の許可漁業として全国を統一的に規制したこと、②禁止期間を設定したこと、③以東底曳網漁業の夜間操業を禁止するなど取締りを強化した。その後も沿岸漁業との競合が一段と激しさを増し、水産資源への影響が大きく懸念されるに及んで、昭和一二年には「機船底曳網漁業整理規則」及び「機船底曳網漁業整理転換奨励規則」をもって以東底曳網漁業の減船整理を実施することとなった。この整理は全国の総隻数一、八一八隻の約六割にあたる一、〇四三隻を昭和二二年三月末日までの一〇か年間に整理するものであり、本県は二七隻を○にする計画であった。(この整理計画は食糧増産対策などの理由により昭和一六年に中止となった。)なお本県は違反操業三回の罰則による許可取消しなどの措置をうけた関係もあり一四統から昭和一五年四月には許可船は皆無の状態となった。終戦直前の昭和一九年当時のわが国食糧事情の逼迫は甚しく、政府はたん白源確保の観点から、同年三月農商令第一二号「機船底曳網漁業の臨時措置に関する件」によって許可権限を農林大臣から再び知事に移管して食糧増産政策をとったのである。本県は許可船はすでになくなっていたが、この国策にそうべく底びき網の許可申請を行なって七統がまず許可された。終戦後の昭和二二年には再度許可権限を農林大臣に移管したが当時本県の許可統数は二一統となり、さらに二七年には二五統に増加した。昭和二六年二月連合軍総司令部から底びき網漁業激増に伴う弊害が指摘され、機船底びき網漁業に対する減船指示が行なわれた。当時の機船底びき網漁業(以東底びき網)は制度上漁船のt数、馬力数に制限がなくすべて農林大臣の許可漁業となっていた。そこで同年一二月の漁業法改正により、翌二七年三月機船底びき網漁業取締規則を改正し、一五t未満は小型機船底曳網漁業と区分された。第二次減船は翌二八年~二九年の二か年間で全国で一一一隻の中型機船底びき網漁船が国の補助金交付をうけて整理転換された。本県では昭和三二年以降売却などもあり一〇統に減統となった。
 次に小型機船底びき網漁業の減船整理について述べる。終戦前後の混乱時にあって食糧増産の社会的要請にこたえるためとはいえ、小型機船底びき網漁業の無許可操業が昭和二六年の減船整理時期まで放任されていた。しかしながら底びき網漁業をこのままの状態で放置すれば乱獲に陥り、資源の枯渇につながることとなり、これは沿岸漁民にとって重大な影響を招来することは必至とみられるに至った。そこで国は昭和二五年から調査を開始し、翌二六年には「小型機船底びき網漁業処理要綱」を定め、さらに二七年には「小型機船底びき網漁業整理特別措置法」を制定して抜本的な減船整理を断行することとした。この整理の概要について述べると、昭和二五年一月現在の全国の小型機船底びき網漁業は三万六六六六隻であったが、この約三分の一が無許可あるいは許可違反船であったとみられる。これを二六年から五か年計画によって昭和三一年四月に二万七、八三〇隻にし、この間に八、八六九隻を整理しようというものであった。
 本県においても国庫補助金を得て昭和二七年三月の小型機船底びき網許可枠二、〇三四隻から三一年三月には一、二六四隻に、七〇七隻を減船することとなった。この減船方針としては五t以上又は一〇馬力以上のものが他に優先して対象とせられたが、この限度以内のものにあっても減船の希望者は対象とされた。この内訳は宇和海で三五〇隻減(全廃)、瀬戸内海は四二〇隻減とすることであった。
 このようにして宇和海では、昭和二九年以降小型機船底びき網漁業の許可漁船は姿を消すこととなったが、一部補助金受給の対象にならなかったものがそのまま無許可操業をつづけ、これが次第に増加傾向を示した。そこで県においては昭和三八年に「愛媛県漁業秩序対策要綱」を樹立するとともに各海区に漁業秩序確立対策協議会を設立せしめてこれに県費助成をして、法令遵守に関する説明会を開催するとともに、昭和四〇年二月には県の漁業取締専用船せとかぜ(二三・七t)を建造して取締りにあたり違反操業の防止に努めた。一方宇和海における小型機船底びき網業界から禁止の解除を望む陳情書が関係方面に出され、四〇年一〇月、漁業調整委員会はこれを採択することとなり、さらに県は四三年一月に漁業調整規則の改正と合わせて宇和海の小型底びき網許認可方針について委員会に諮問したうえ、三月に二三〇隻の正式許可となった。瀬戸内海地区でも四四年九月に三五〇隻増枠となったが、これは伊予灘と燧灘における正常化対策にもとづき資源上、調整上問題のない範囲で行なわれた。また四六年には瀬戸内海における小型機船底びき網の馬力制限を一〇馬力から一五馬力に改正したことに関連して漁獲努力の増大を来さないため二〇隻減となり瀬戸内海総数一、四五九隻、宇和海二三〇隻で現在に至っている。
 小型機船底びき網漁船の規模は、瀬戸内海では当初五t未満一〇馬力から四六年一一月農林省告示一八二〇号によって一五馬力に改正された。宇和海では四三年以来五t未満一五馬力乃至二五馬力(特定区域のみ)である。操業は家族労働力が主体であり、操業日数は年間二〇〇日前後で、漁獲物はエビの他、カレイ、エソその他底棲魚介類であり、漁期は周年となっているが盛漁期は春~秋である。


表2-19 沖曳網漁業発動機船

表2-19 沖曳網漁業発動機船


表2-20 機船底びき網漁船許可隻数推移表

表2-20 機船底びき網漁船許可隻数推移表


表2-21 小型機船底びき網漁業につき許可をすることができる府県別の船舶の隻数の最高限度の変遷

表2-21 小型機船底びき網漁業につき許可をすることができる府県別の船舶の隻数の最高限度の変遷


表2-22 漁業法第66条の2第3項前段の規定に基づき許可することできる隻数、合計トン数、合計馬力数の最高限度の告示

表2-22 漁業法第66条の2第3項前段の規定に基づき許可することできる隻数、合計トン数、合計馬力数の最高限度の告示


表2-23 小型機船底びき網漁業減船整理状況

表2-23 小型機船底びき網漁業減船整理状況