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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

一 江戸時代の漁業制度

  1 藩ごとの漁業取締

 概況

 江戸時代の本県の領地は今治藩(現在の今治市、越智郡島方の一部を中心として伊予三島市、川之江市、宇摩郡の一部)、西条藩(現在の西条市、新居浜市、を中心に宇摩郡、東予市の一部)、小松藩(現在の小松町、東予市を中心に西条市の一部)、松山藩(現在の松山市、温泉郡、北条市を中心に周桑郡、東予市の一部ならびに松前町、波止浜など)、大洲藩(現在の大洲市、長浜町を中心に伊予郡、温泉郡怒和島、中島などの一部)、新谷藩(現在の新谷を中心に長浜町今坊、伊予市北山崎、上浮穴郡の一部)、宇和島藩(現在の宇和島市を中心に八幡浜市、西宇和郡、津島町の一部と南宇和郡の全域)吉田藩(現在の吉田町を中心に明浜町の狩江、狩浜、俵津、三瓶町ならびに宇和島市下波、蒋渕、津島町北灘など)の八藩に区分せられ、それぞれの領主の統地下におかれていたのであるが、これとは別に幕府直属の幕領地が宇摩郡・新居浜市・東予市・今治市、ならびに越智郡の陸地部などに散在していた。
 このような事情から、当時の漁業制度は各藩ごとに自藩に都合のよい制度を設け漁業取締りにあたっていたので、県下統一的な取締規定は存在しなかった。しかも、その規則は現在のような整然としたものではなく、従来からの慣行を重視したごく大まかなものであり、この間比較的制度的にみて進んでいたのは宇和島藩であった。宇和島藩では一定の規則(掟)を設けて管内の漁業取締を行なった。吉田藩は宇和島藩の支藩であるからこれに準じた規則で取締った。さらに大洲藩も大体これと同様の制度によって漁業を律していた。しかし松山藩においては、一定の規則とか基本方針とかいったものに基づいて漁業取締にあたったのではなく、主に従前からの慣行を重視したやり方で処理し、各地で発生した紛争についてはその都度最も妥当と判断した処置をとっていた。そして隣藩である今治藩や西条藩などもおおむねこれに準じた方法で取締っていたのである。

 漁場行使と取締

 藩内の漁業取締の最上級の責任者は、郡奉行がこれにあたったが、この下部組織として直接漁業取締の責にあたっていたのは宇和島藩では庄屋と組頭であり、大洲藩では村浦で庄屋、町方で町老といった。松山藩では庄屋の下に漁頭があり、西条藩では漁頭のことを村君と呼んだ。今治藩では郡奉行の代わりに代官がこれを担当し、庄屋がこの下部組織にいた。幕領については代官の代わりに大庄屋がこの任にあたったこともある。
 各藩とも漁場の行使方法は各村浦の地先は地元の専用漁場とし、沖合は各村浦相互の入会とし、共同漁場の形をとった。この場合でも旧慣を重視し過去に実績のある者は入漁料を納入させたうえ操業させていた。
 宇和島藩では鰯大網のことを元網(本網)と呼び、網一帖につき数ヶ所ずつの前網代(専属漁場)を与えていたが、天保三年(一八三二)の制度改革でこれを一網一網代制とし、漁場行使の公平化を図った。沖合は領内漁民を原則として入会を認めていた。しかし藩外からの入漁者に対しては厳重な取締を行い特別に許可した者以外は入漁させなかったのである。
 大洲藩・新谷藩では地先漁場は宇和島藩同様に地元の村浦の専用漁場とすることを原則としていたが、一部では他の村浦の漁業者に専用させることもあった。沖合の行使は宇和島藩と同様入会制をとった。
 松山藩では、地先漁場は他藩同様地元の村浦の専用漁場とし、沖合は領内漁業者に限って入会操業を認めていた。但し、村浦の中で漁業者のいないところは、浦役を担当する漁業者の専用または入会としており、藩外からの入漁者に対しては地元の承諾を得たうえで、三津元締役より鑑札を受け入漁料を納付せしめてから操業を認めた。
 今治藩では、地先漁場はこれも他藩同様に地元の専用漁場としているところが多かったが、一部の漁場では入漁権を認めたり、共有としているところもあった。沖合漁場については藩内1 の入会を原則としていたが、藩外者には入漁料をとって入会を認めていた。
 幕領にあってはやはり地先漁場は地元村浦の専用とし、仲合は領内漁業者の入会としていたことは他藩と同じであるが、藩外からの入漁者の取締は特に厳重で、地元の承諾なくしては操業を認めなかった。

 繁殖保護

 各藩では魚類の繁殖保護のため漁具・漁法の禁止または制限や、禁止期間・禁止区域の設定などの必要措置をとった。たとえば宇和島藩・吉田藩などでは鰯沖取網は地曳網に有害であるとして宝暦五年(一七五五)及び安政七年(一八六〇)に禁止し、ガゼ網も同様の理由で文化一五年(一八一八)に使用を禁止した。また寛政八年(一七九六)には焚釣を禁止したが、天保七年(一八三六)より島の周辺海域二里(約八㎞)以内を禁止区域として魚類の保護に努めた。
 大洲藩では天保九年(一八三八)四ツ手網を長浜町地先で使用することを禁じたほか、底引網・鰯網は文化一三年(一八一六)、鯛網は元治元年(一八六四)川口番所に操業場所その他を届出させ、役人の検査を受けさせた。また釣は安政六年(一八五九)距岸一里(約四㎞)から一里半(約六㎞)までの海面を禁止区域とし、さらに文久二年(一八六二)に至ってこれを二里(約八km)まで拡大した。
 松山藩では弘化四年(一八四七)郡方の者の殺生を禁じ、また家中の者に対しても、みだりに殺生することを禁止した。さらに百姓が自家用のほか網漁業を行なうことを認めないなどの措置をとった。
 今治藩・幕領地でも魚族の繁殖維持に悪影響を及ぼすおそれのある漁法を禁止したり、期間や区域を限っての制限措置がとられた。
 また西條藩ではオモリ網は五智網や流網に支障があるとして安政二年(一八五五)にこれを排除せしめ、大島浦でも同様の措置をとった。

  2 宇和島藩・吉田藩の漁業取締

 漁業制度の最も進んでいた宇和島藩・吉田藩の漁業はどんな形で行なわれていたかについて概説する。
 宇和島藩と吉田藩の領有地に面した海面は主として宇和海であるが、この地域は古くから広大ないわし・あじ・さばなどの好漁場に恵まれていた関係で特にイワシ網漁業については房総の地曳網漁業、房総・肥前・土佐などの八手網漁業、尾張・三河の揚操網及び地曳網漁業とならんで伊予のイワシ船曳網及び地曳網は全国的にも有名であった。
 漁獲されたイワシは干加(干鰯)用として大量に製造せられ、漁家経済に大きく寄与していたが、これと同時に当時の日本経済全体が農業を基幹産業としていたため、肥料用として重要度の高い干鰯が極めて貴重な産物となっていたのである。このようなことから藩では漁業に関する取締りは非常に厳重であり、また、漁業者負担(納税義務)などについてはかなり厳しい措置をとった反面、魚族の繁殖対策に意を注いだほか、漁業貸付金制度を設けるなどの漁民に対する保護救済対策も手厚く行なった。このほか漁業上の紛争解決についても、ことの大小軽重によって、郡奉行・浦方役または村浦の庄屋などにそれぞれ処理せしめて漁業秩序の維持確立を図った。

   (1) 鰯網漁業の形態

 鰯網の種類と統数

 鰯漁業に主に使用された漁法としては鰯船曳網漁業と鰯地曳網漁業があるが、この中でも最も重要な漁法は船曳網であって、当時大網と呼ばれていたものである。この網は淡路島の福良から当地域に伝ったといわれている。そしてこの大網の操業年次の新古によって区分せられ、最も古く重要な網は、元網(本網ともいう)と呼ばれ、次いで古く重要な網として結出網があった。結出網の中で新しい網を一括総称して新網と呼んでいた。しかしながらこれらの網が何時ごろから操業を開始したかということについては、全く不明である。吉田藩の郡鑑(元和二年)に元網・結出網が載っていることから判断して江戸時代の初期にはすでに存在していた。新網については後の天保の改革で新しく免許になった網などがこれに属するのである。
 次に網主の性格であるが、①村浦所有で一般に漁場は入会で使用していた網と ②共同所有の網 ③個人名儀の網の三つに区分できる。そしてこれらの網株の取得はいろいろの形があるが、先祖からの相伝によるもの、何らかの藩への功績によるもの、新浦を開拓したため、新しい網代を発見したことによるもの、村浦の役人で世襲によるものなどがあった。

 鰯網と網代

 宇和島藩では一六二帖の元網が存在し、これにはそれぞれ一網につき五、六ヶ所の網代が専属的に与えられていた。宇和島藩ではこれを前網代といい、吉田藩では控網代と呼んでいた。この専属漁場以外の漁場は藩の公儀網代(葉網代または除網代ともいう)として温存し、新網免許の際の漁場にあてた。これら網代の仲合漁場は原則的に入会漁場としていたが、ここでも元網・結出網などは漁場の先占権を有し、他に優先して操業できる仕組となっていた。これ以外の地下網(地元網)は沖の入会漁場を元網に次いで操業する権利があり、他浦からの旅網(入漁網)はこの地下網の後に先着順で操業できることになっていたのである。また他藩からの入漁については、一年毎の入漁鑑札を受けるため、入漁鑑札料を支払った後、操業ができるようになっていた。

 就業構造と費用分担

 鰯網の就業構造をみると、網元(網主)と網子(曳子)から成り立っており、この関係は経済的には漁業経営者と従業員ということであり、また別の見方をすると資本家と労働者という関係にある。このことは現在社会でもきわめて普通の労資関係と相違ないが、ここで現在と大きく異なるのは、同時に主従の隷属的な結びつきであったという点である。従って網子は自分の所属する網以外の網に勝手に移籍することは固く禁じられていたのである。
 鰯網の操業上の総指揮は村君がこれにあたり、通常二名で構成せられ、この下に網子が一網につき数十名従事する。しかしながら、当時においても場所によってはこの網子の確保が困難なため、休業のやむなきに至ることもあり労働力の確保は現在同様重要なことであった。
 次に漁業生産経費の労資負担区分であるが、網主は漁網、漁船などの主要な生産設備経費を負担し、網子の方は縄類その他の附属設備を分担したほか、網修理などの労働力を提供するのが普通であった。
 漁業生産所得の配分に関しては、通常祝い酒その他の雑費用を控除した後の純所得を網主が六歩、網子が四歩の割合で受取るという定めであった。これは場合によっては七分・三分に変更されたところもある。

   (2) 漁業政策

 漁業免許

 宇和島藩(吉田藩もおおむね同様)においては何よりも鰯をとることが最も重要なこととして考えていたので、鰯網漁業に対しては藩から特権が与えられていた。なかでも大網・元網・結出網などは特に強大な漁業上の権利が認められていた。そして免許は前述したとおり昔からの慣行による網主のほか、新規に荒畑を開拓したり、新浦を開いた功績のあるものにも新しく与えたがこの場合には郡奉行から引付(免許状)を交付した。また領外者の入漁に対しては予めその村浦へ居留させ、その土地の村浦役人を経由して営業の出願をさせ、これに許可を与えたときは、小切手(免許鑑札)を交付した。なお鰯漁業以外の漁業に対しては前記の鰯網操業に支障がないかどうかの実地調査を充分行なって、ない場合に限り許可した。さらに、一旦許可を与えた漁業であっても鰯網に妨害を与えることが判明したものはこの操業を停止したり、他へ転業せしめたりしたが、この場合は一定の猶予期間をおいてから実施するか、事情やむを得ないものは区域を制限して特別に許可し、両者が共存できるように措置したりした。

 魚族の繁殖保護

 漁獲の増大を図るうえからも藩ではいろいろと水産資源の維持培養に気をつかったのである。例えば鰯網の目合を細密なものとすると不漁の原因になることや、底曳網で海底を曳き廻すと漁場の荒廃につながること、さらに海藻をむやみに採取すると魚類の産卵繁殖を阻害することなどを指導通達として出したほか、鰯網の袋部へ蚊帳様の細密な布を使うことや、手繰のつり網に細目の網を入れること、魚付林の伐採、魚族に対する有害物質の使用などを禁止し厳重に取締った。

 漁業取締

 宇和島藩の財源は漁業からの租税収入によるところがきわめて大きかった関係から漁業全般にわたっての取締りは大変厳重であった。領外へ漁獲物を搬出するに際しては陸上輸送の場合は歩行越と称して、伊方越・東多田・野田の三ヶ所で、海上輸送の場合は佐田・日振島などに番所を設けて搬出物を許可された送り状に相違ないかどうか入念に調査して違反の取締りにあたった。魚類を領外へ搬出する際は奉行に願出て、その許可鑑札を受けることが義務づけられており、これに違反するともちろん処罰されたのである。網漁業を中心に一部釣漁業についてもその操業上の規約をこと細かく定めた「網方控」が正徳六年(一七一六)に布告され、この控に従って漁業秩序を保つよう措置された。このほか、漁業の無免許者は地元漁業者、他藩からの入漁者を問わず漁具の没収その他の処罰を以てこれに対応した。さらに、網方掟に背き、一時に網を二帖操業した者や、小切手(鑑札)を携帯してない領外からの入漁者はこれを侵犯者として処罰したりした。これらに必要な小切手(入漁鑑札)は翌年の春関係者から回収のうえ、浦方の漁業役所へ返納せしめていた。そして網使用上の粉争から相手に暴行を加えた者は当然厳重な処罰を受けたのである。前述したとおり漁業は藩財源の重要な供給基盤となっていたことから日々の漁業営業活動についてはきびしく監視されており、漁獲量についてはその都度庄屋に届出をさせ、沖合での直売や、抜売、抜荷などの取締には細心の注意を払った。網子に分配された貰魚で余った場合は漁民たちが直売したり、勝手に他の品物と交換したりすることを禁じ、この場合は庄屋または網元が買戻して干加(魚肥)とした。
 しかし網子は原則的に干加を製造することは禁止されていたが、網元から労働の代償として分配を受けた魚(主として鰯)から製造した自家用の肥料は他人に商品として販売することを厳禁していたので、これら魚肥には土灰を混入させ、これを灰掻といって、売れないような仕組にしていたのである。

 漁業者負担

 藩政時代の漁業者の負担には次の三つが定められていた。
 一、水主役  二、現物  三、運上
水主役とは藩主が参勤交替その他公務で海上を航行する際の漕船役を勤めることをいい、宇和島藩では鰮網業者は特にこの公務を負担し、有事の際は軍事の諸役に充用することが定められていた。この諸役に従事する場合には扶持米が給付された。そして他の諸藩でも同様の制度がとられていたのである。
 現物というのは献上水産物のことで、今治藩の鰮・宇和島藩の鯉などは有名であった。そして献上物を完納するまでは魚類の売買を禁止し、原料の選択には特に留意していた。幕府より煎海鼠・干鮑・鱶鰭の調達を命ぜられた各藩はそれぞれの村浦に請負人を定めてこれを製造せしめた。命令額以上を製造した場合には特に賞を与えて奨励した。
 宇和島藩では、漁業から徴収する租税として寛永一〇年(一六三三)ころまでは、原則的に網代税(漁場使用税)や漁具税を設けていたが、その後これを五歩一運上制(漁獲高の五分の一を税金として徴収)に改訂したのであるが、この改訂後も或場所によっては五分一運上金以外に従来徴収していた網代受銀(漁場税)の名目で租税を課していたところもあった。しかし諸魚五歩一運上制が何時ごろから採用されたかということはさだかでない。これらのほか、領外の漁業者には旅網運上、旅船運上、旅釣運上といって、番所または小物成役所において検査を行なう際、或は問屋・生魚主において取立上納するものと、荷主より取立てたものがある。宇和島・吉田両藩では、それぞれ自分の属する村浦から他の村浦へ入漁して、鰯網を操業するときは、その漁獲高の二割を漁場のある村浦へ納める定めとなっており、これを二分物といった。そしてこれを検査することを二分見と称し、もっぱら横目役人の職務とされていたが、幕末の慶応年間に廃止された。なお五歩一の徴収基礎となる重要な魚介類の基準価格は時には改訂し、魚価の高騰に比例して税金の増収を図った。そしてこれらの運上金や貸付金の滞納者が万一出た場合には、網株(網漁業の免許)を取りあげて取締ったのである。
 大洲藩は寛永二年より漁獲高の七分一の運上を納付せしめたが、同一八年に至り鰮網には二〇分の一を課した。
 松山藩では、宝暦一一年以前に御採銀の名目で、若干を上納せしめたほか鰮網、このしろ網運上を課したこともあったが、後でこれを廃止して領内の漁業者には賦課しなかった。

註、廃藩置県後の漁業税は雑税として網干場税・魚税を徴収したが、明治八年にはこれを廃止し、諸魚歩一税を船改所で徴収した。同九年県税を賦課して営業を取締ることとなり網代場に課税した。同一〇年には漁場借区の制を公布して、五ヶ年を一期として漁場税を各村浦の漁夫総代より徴収し、また漁業営業税等級を七等級に分類して、採藻・採介はその収獲高に対して各個人から徴収した。明治一五年には漁業営業税は五種類に区分し、第一種網漁・第二種簗漁・第三種配縄漁は一ヶ年収獲高の百分の三、第四種釣漁は一人につき金二〇銭、第五種雑漁は一人につき金一〇銭を徴収することに改めた。但し、婦女子・一八歳未満、五〇歳以上の男子は免税せられていた。明治二〇年に徴収方法を改め、町村負担とし、毎年県会で漁業税、採藻税の負担について議決することとなった。この負担制度は明治三〇年及び四三年に漁船数、漁業者数、漁獲高を勘案して改められた。
 大正四年度の負担は次のとおりである。

 漁場の行使

 村浦の地元網代(網に附属した漁場)は原則として当該村浦が専用漁場として行使することになっており、また免許されている網毎に専有の漁場ともなっていた。しかし時には例外措置として同一村浦内の二部落の専用網代を共同漁場として操業は先着順で行使することにしていたところもあった。そしてこれらの専用網代以外の漁場は公儀網代・除網代・葉網代などと呼ばれ、藩の専有漁場とし、その行使については漁場行使料を藩に納付して同業者の入会の形で行なわれていた。これらは何れも既存の漁場であるが、一方新発見をした漁場や、海中の岩礁などを除去し漁場として新規に造成した漁場についてはその功績を認め、本人に新規免許を行なっていた。そして漁業免許の優先順位については、網の種類によって大きく左右され、元網(本網ともいう)は古来から慣行により、主に村浦の庄屋が所有していたもので、権利の最も強い網であったが、新網は前者に比較すると権利はやや弱かった。

 漁場粉争の裁定

 藩政時代においても現在同様漁場の行使・操業方法その他をめぐって粉争が各地で起こった。このようなとき藩ではどのような処置をとってこの解決にあたったかというと、さきに述べたとおり事件内容の重要度に応じてこれを処理した。小さい事件は庄屋でこれを解決し、重要なものになるにつれて浦役人・郡奉行の裁定によって処理したのであるが、このようなときは必要があれば浦方役が現地に出張しその実情を調べたうえで判断の資料としたのである。

 漁業者の保護

 宇和島藩では鰯漁業が最重要な漁業とされていたところから、藩財政はまさに鰯漁獲の豊凶にかかっていたといっても過言でない。従ってこの漁業を中心に漁業取締りの強化になみなみならぬ努力を払ったことはいうまでもないが、この反面この漁業に対しては特別の権利を与えたほか、これにたずさわる漁業者の保護には非常に留意した。例えば使用漁船修繕のため当時はきわめてきびしい統制下におかれていた立木の払下げを行なったり、或は漁具・漁網などの新規調達または修復のため、あらかじめ漁業者による共済積立制を定めたり、これに対する融資の途を構じ、融資の申請者に対してはこの実情を細かく調査したうえ、適当と認めた場合には貸付金を交付し、年賦で返済させることとしていた。また、網子が不足した網漁業の経営者に対しては、同部落の他の網経営者に所属する網子を融通配分し、両網とも操業ができるようにしたり、漁具の質入や、みだりに漁具を売買することを禁止したりして漁業が休廃業することを防止し、藩財源の確保にはことのほか配慮したのである。

   (3) 漁業の発達と年代別特色

 慶長(一六〇三)~貞享(一六八七)
 宇和島藩の史料から徳川初期の寛永年間には単に漁業取締に関する布達が殆どである。例えば前網代(網専用漁場)以外の公儀網代は地網(地元の網)も旅網(他の村浦からの入漁網)も入会とする。また船荷で海上輸送する場合は、出港地の札頭(庄屋があたる)が船荷の中味と数量をよく調査し、その調書を船主に手交し、これを荷揚地の札頭が現物と照合したうえで、分一銀という入港税を徴収すること。また村浦で漁業紛争が起これば、関係者が札頭(庄屋)と相談して解決せよといった類である。従ってこの時期は要するに漁業上からみて鰯大網が最大の権利をもって漁場を行使しても、漁場的なゆとりが充分あって整然と漁業が行なわれた基礎的な時代であった。

 元禄(一六八八)~正徳(一七一五)
 この時期になると、漁業操業の面や漁村経済の面でも様々な変化がみられるようになった。藩では正徳六年(一七一六)に家老から漁業担当の役人に対し、「網方掟」(資料編第一節2参照)を通達し、担当役人は直ちにこれを浦々の庄屋・横目(監査役)、村君(網子を指揮する者)などに対し「定」として下命した。これから推測すると、この時代には網の操業方法が古来から定められた方法によらないで私利私欲に走って行なう者が出るようになった。そこでこの「網方掟」によって従来からの操業を遵守するよう警告したのであるが、同時に大網の特権である前網代も多少制限を受けることとなったほか、漸増した他浦からの旅網に対しては地元網を優先することを明示した。また今後は休業のため使用していない網代はその浦へ返還することを定め、同時に近年新規開拓の漁場の申請がないが、隠して操業しているのでないかと警告し、さらに網代の質入の禁止や、地元漁民の共同経営による百姓網を運営することを優先して元網への就労義務から離脱することを固く禁じたのである。既定の漁業規則に違反が出始めた時期ということができる。

 享保(一七一六)~寛政(一八〇〇)
 この時期は江戸中期にあたり、漁業はかなりの発達を示した時代である。
 この当時の漁業は昔と比べかなり発達していたが、その種類は宝暦五年(一七五五)の調査書の様式からおおむね次のとおり推測できる。
 鰯地網・鰯結出網・鰯小網・鰯地引網・鮗網・魬網・鯵網・白子網・さこし網・鮪網・かます網・むろ網・めちか網・はつ網・鰡網・ふり網・手くり網などである。
 浦々の人口の増加に従って、網子からの新網免許の出願が多くなり、藩では財源増加対策上からも進んでこれを免許した。このようなことから元禄―正徳年間にみられた漁業秩序の乱れは一段と激しいものとなってきた。たとえば本来元網の後から操業する尻付小網と元網との区分が不明確となり、両者が同様の操業をするところが出てきたり、禁止されている小網の名儀を他の浦へ賃貸したりする者もみられるようになった。また催合網(共有網)は本来共有者の共同経営によることをたてまえとしていたが、これを二分して隔日操業してそれぞれ経理を別にしたりするなど昔からの漁業のしきたりを無視する現象がひん発した。さらに従来元網に所属した網子達が独立して自己経営による新しい小網を準備し、古法を破って仲合の漁場で鰯網を操業するようなことが多くなってきた。同時に鰯網以外に釣漁業が盛んとなり、このため元網の網子の人数が不足し鰯網漁業の経営が困難に陥ったりするところも出てきたので、藩では触書を出して鰯網に従事して後沖合へ出漁するよう警告したり、急増した夜釣を禁止するなどして鰯網の労働力確保に努めたりした。
 この時代の他藩との関係はどうなっていたかというと、まず第一に網などの漁業物資は従来からこれを売買する際には、歩一(取引税)を伴い、網問屋を経て、藩の収入源となっていたが、これが以前に比べ非常に少額となってきたことから、今後は多少にかかわらず無口銭で取引きをしないことの通達を出した。また質屋で古網を買取るときは、表に出さない取引が行なわれ易いということから、以後古網の質入れを禁止したりした。もっともこの網口銭(歩一)の制度は寛政二年(一七九〇)には廃止せられ、これに代わって網そのものに定率で網運上(網物品税)に改められ、以後網の売買は全く自由とされた。
 第二に他藩からの入漁についてであるが、従来は釣漁業に殆ど限られ、入漁者に対しては据え浦として、一定地区に居留することが認められ、漁獲物に対しては五分一税を地元に納付して操業ができることになっていた。しかしながらこのころになると釣漁業のみでなく、かせ網(雑魚地曳網)その他の網漁業も入漁してくるようになってきた。もちろんこれには引付(許可鑑札)が必要なことは前に述べたとおりであるが、無鑑札や前年の鑑札使用による違法入漁が各地でみられるようになったことに対し、更めて取締を強化する旨の警告を発している。なおこの旅網・旅釣などの課税については、宝暦九年(一七五九)の記録によると網一帖につき札銀四三匁、釣舟一隻あたり札銀二匁となっている。
 以上のように地元漁民による新興漁業の台頭や、他藩からの入漁者の増加などから漁業全般にわたって秩序が大きく乱れ、規定された正規の漁業を無視した違反漁業が横行したことに関連し、当然漁網・漁船・網代・漁獲高その他の報告数字も不正確なものとなっていたので、実態把握の必要性から調査を命じて違反者の取締に努めたのである。
 漁業取締の強化とともに一方では漁業者の保護や、漁業振興政策について積極的に取組んだ。漁網修繕その他に対する藩からの助成や、漁業者自らの引除金(天引貯金)制による経営費融通の途を開いたり、漁網修覆用の基金として藩と漁業者との共同出資により催合銀(共済基金)制を創設したりして従前から一歩進んだ政策を推し進めた。

 享和(一八〇一)~慶応(一八六七)
 この幕末時代の特徴は一口に言って漁業が異常な発達を見たことに加え、海産商人の大幅進出など流通形態に一大変革を遂げたことがあげられる。
 時代の経過とともに漁具・漁法とも著しく発達し、鰯網に使用する網目も以前に比べ細密なものを使うようになり、また蚊帳(モジ網)小網により鰯の稚魚を乱獲するなど高い効率の漁具が次第に出現するに至った。またエソは昔は主に釣で漁獲していたが、このころには手繰網(底曳網の一種)が盛んに使われるようになるなど漁法の面からも効率のよいものへと変化していった。さらに農作物の肥料用としての海藻類(主としてホンダワラ)の採取が異常に増加してきたことに対し、この行為が沿岸魚類の産卵場を荒廃させ、ひいては稚魚の繁殖上きわめて有害なことを力説し、必要以上の海藻採取を禁じたりした。魚族の保護対策としてはこのほか鯵・鰹・鰯・鯖などを漁獲目的とした火光利用の焚釣・焚寄網の制限または禁止を行なって、これらの新興漁業をきびしく規制した。一方では水産物の需要増に伴う鰯網の新規出願や休業網の再出願のほか、鰹・鯵・むろなどの新興網漁業の新規出願が天保時代に急増したのである。当然のこととして違反操業が多発し、漁業経営体が増えた割には五歩一税の収入が一向に増加しないという脱税行為がひんぱんにみられるに至った。藩はこのことに苦慮し、種々対策を講じたが、その代表的なものとしてさきに正徳六年(一七一六)に定めた網方掟を天保三年(一八三二)と天保四年(一八三三)の二か年にわたって改正した。この改正点を要約すると ①網漁業の正常化をすることによって藩財政の強化を図ったこと ②藩の過保護に起因する元網の横暴さを是正し、漁場行使を公平なものとするため、従来元網一帖に対し数か所ずつ割当てていた専属網代を、藩に一度返還せしめ、その後改めて一帖に一網代を再割当てして、旧鰯網漁業と新興の鰹・むろ・鯖漁業などとの利害調整を行なったことの二点であろう。そして特に感じられたのは、この時点では既に浦方の低階層の漁民の力がかなり表面に出てきたことと、海産物を扱う商人の存在が大きくなってきたことである。
 この時期になると、一般に禁じられている低階層の漁業者の間で、干鰯や食用魚類の製造業が盛んになってきた。従って農業肥料に使う自家用の魚肥については、干加に灰を混じ食用に供し一般での流通を防止する措置がとられたことは前述したとおりである。一方天保年間には鮮魚を取扱う生魚主(魚問屋)が三等級の株制(上四拾目・中三拾目・下二拾目)となって存在しており、上札は干加の製造販売が可、中札は干加の取扱が可、下札は諸魚取扱が可となっていた。従来は干加の取扱いは庄屋か網主などに限られていたが、正規に藩の営業許可を受けて商人も取扱いができるようになった。
 以上のほか、網元と網子との代分け(歩合割合)をめぐっての争いが激しくなったり、網子が不足し網経営上困難な面に直面したりしたことは前に述べたとおりである。
 次に、藩の漁業振興対策であるが、前期同様、①、漁船建造に対する木材の払下げ、②、漁業用融資については実施せられたが、融資にあたっては事前審査を行ない、以前貸付した際の利息の滞納者などの不適格者に対しては、たとえ古網の営業者といえどもこの融資申請を却下した。ただ前期と異なり注目される点は、一件あたりの融資枠を拡大したり、網漁業以外に鰹釣船に貸付けるなど、融資対象漁種を拡大していることである。
 以上宇和島藩・吉里瀋の漁業を制度上から記述したが、これを総括すると封建制度が徹底した中にあって、漁業も例外ではなく、海面も陸地と同様に藩主が領有する形をとり、沿岸の漁場行使は旧慣を重視する大原則のもとに、時には藩への功績・貢献などにより特別に許可したりして、地元に優先的に利用する権利を認め、沖合漁場は入会という建前をとった。この制度は、明治維新により藩政が消滅すると同時に、漁場利用の独占権がなくなるまで継続されたのである。

漁業者負担

漁業者負担


大正四年度漁業税町村負担額

大正四年度漁業税町村負担額