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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

第一節 漁村の成立①


 開発と新浦の成立

 宇和海に面する吉田・宇和島藩の領域は、干鰯(魚肥)の製造を主目的としたイワシ大網による漁業が盛んであった。イワシ大網は、成立年代で本網・結出網・新網と区別され、このうち本網は、伊達秀宗が宇和島に入封した慶長一九年(一六一四)までに成立したもの、結出網と新網は、多少の例外もあるが、「網方掟」の制定された正徳六年(一七一六)までに成立したものを結出網、これ以後を新網としている。
 本網は四八か浦に一六六帖(弌野截・郡鑑による)あるが、この分布は浦(漁村)成立の新旧を判定する目安となる。これを分布図で示すと、川之石浦~下灘浦(津島町)の間に入江を中心に集中している。リアス式入江が岸深かで、イワシが湾内奥深くまで回遊し、成立の古い湾岸の浦方は、早くからイワシ大網が導入されていた。新浦(枝浦)を成立させるためには、藩当局は耕地の開発を許可の前程条件とした。下泊(三瓶町)は延宝二年(一六七四)に本網二帖、結出網一帖を持つ浦方で、漁場は高島・ミツクリ島に分散していた。「下泊之儀は、海辺・作場共に勝手悪く、百姓草臥申す由、就ては高山浦の内、大崎鼻までを限り、下泊に付下され候はゞ、田畑も開き、もっとも猟事を以て百姓を取立、其上相応の御年貢ならび水主も出し」(弌野截)として、漁場・耕地の分散などによる不便を挙げ、新浦開発を申し出ている。
 浦方の耕地の増加は、主として畑の開発によるものであった。大浦(宇和島市)の天正一六年(一五八八)から明治一〇年まで、約三〇〇年間の耕地の増加は、水田は二九%増であるが、畑は実に七・四倍にも達している。畑の増加には、初期と後期の二つの増加期と、この中間に停滞期があった(表1-2)。この耕地増加の様式は、宇和海の浦方一般に共通している。さつまいもの導入は、元禄一四年(一七〇一)といわれているが、しかし普及するのはやや遅れて、後期の耕地増加の波、すなわち段々畑の開発からである。耕地の増加は、直接人口増大に結び付き、新浦発生の要因となった。現在の南宇和郡に属する浦方、村方も含めて、江戸時代後半の人口の推移を表1-3に示した。これによると浦方を中心に宝暦七年(一七五七)以降の人口が激増している。結出網は貞享一年(一六八四)八四帖で、これは初期の耕地増加期に対応して成立したものである。後期の耕地・人口増大に伴って成立した新網は、明治五年までの間に二〇五帖が免許されているが、その九〇%までは寛政期以降の成立である。
 内海浦の人口は、宝永三年(一七〇六)に対して、宝暦七年(一七五七)一・二倍、明治一〇年には、六・五倍に達している。これはさつまいもの普及による段々畑の形成、それに表1-4のような漁業発展の結果である。これによると貞享元年(一六八四)にイワシ大網は八帖であったものが、明治一一年には三一帖に増加した。網の種類も多様化し、総網数は一三帖から七二帖に増加し、五・五倍に達している。
 下灘浦(津島町)に含まれる由良半島北及び西斜面は串灘と呼ばれ無住地であったものが、この地区に寛永四年(一六二七)須下(菅)、同五年成、同八年平井の三枝浦が開発され、結出網が免許された。この開発は「庄屋受浦に下され年貢無し」(不鳴条)とあるので、下灘浦庄屋の私有地として開発された。これと同じ方法で開発されたものに、やはり下灘浦に属している竹ケ島がある。天和二年(一六八二)「庄屋へ下され新浦ニ取立」(弌野截)庄屋開発の新浦として結出網が免許された。この竹ケ島の耕地は、すべて庄屋の持ち分で、大正七年島民が全耕地を買収するまでは、庄屋の隷属的な小作人として支配されていた。
 船越半島は北半分は内海浦(御荘町)で南は外海浦(西海町)に属している。図に示された浦方のうち、貞享一年(一六八四)までに成立していたのは、福浦・内泊・久家・船越であるが、この四浦はすべて枝浦を派生させている。この枝浦のうちで、最も古いのが中泊浦である。内泊浦はイワシ本網はないが、寛永三年(一六二六)免許の結出網あるので、伊達氏入封~寛永までの間に成立した浦方であろう。網商人で淡路の福良出身で内泊に来住していた喜兵衛は、元禄九年(一六九六)中泊の開発と新網(結出網)を願い出許可された。これから一〇〇年後の寛政六年(一七九四)「人数相増渡世相成り難に付、元網(結出網)余人を以て新網一帖仕出度段」(明治一一年漁業旧慣調)として願い出、許可された。五〇年後の天保一四年(一八四三)同様内容の願い出で新網一帖が免許されている。さらにこの中泊から、一丘越え、五〇〇m西にある外泊へ移住することになるが、距離が近いため、中泊から通いで開拓し、強い季節風を防ぐための防風石垣などを整備して、慶応~明治初年にかけ四七戸が移住した。また船越浦は、寛永一年(一六二四)免許の結出網(明治一一年漁業旧慣調による、弌野截にはなし)があり、成立の古い浦方である。樽見への移住計画は、船越浦の吉田滝蔵・山下善吾らで進められた。慶応一年(一八六五)出願、同三年許可され、明治一年開発に着手したとされている。滝蔵はイワシ大網を元治元年(一八六四)に許可されているが、これを加えて船越には、イワシ大網が四帖にもなり、従って当然網代での操業問題が考えられる。樽見への移住は、このような背景で実現したものであろう。船越半島では明治に入ってからも図1-2のように沿岸各地に枝浦が成立した。


図1-1 本網の分布

図1-1 本網の分布


表1-1 本網・結出網の分布

表1-1 本網・結出網の分布


表1-2 大浦 (宇和島市) の耕地の増加

表1-2 大浦 (宇和島市) の耕地の増加


表1-3 人口の推移 (南宇和郡関係)

表1-3 人口の推移 (南宇和郡関係)


表1-4 内海浦 (南宇和郡内海村及び御荘町の一部) の漁業

表1-4 内海浦 (南宇和郡内海村及び御荘町の一部) の漁業


表1-5 移住状況 ①

表1-5 移住状況 ①


表1-5 移住状況 ②

表1-5 移住状況 ②