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愛媛県史 社会経済2 農林水産(昭和60年3月31日発行)

六 林産物検査制度の沿革並びに木炭用材の生産について①


 木炭検査の沿革

 大正一二年喜多郡に愛媛木炭同業組合が設立せられ、組合による自治検査を実施して、年間生産が木炭三〇万俵の内、約八万俵を京阪神地方に出荷し、有利に取り引きしていた。その後続いて伊予木炭同業組合、宇和木炭同業組合などが設立せられるにいたった。
 県においても、大正一五年に林業共同施設補助金下付規則を制定して、木炭倉庫共同設置を奨励すると共に、品質の改善と加工技術の向上を指導しつつあった。
 昭和三年一〇月東京上野において開催された全国木炭品評会に、内子町越智良一氏・大洲市新谷の山越百一氏等が、クヌギ切炭を出品して、農林大臣より感謝状を授与せられて以来、切炭の名声は全国に拡大するにいたったのである。
 県は木炭の品質改善と規格の統一を行なって、販売を有利にするため、木炭の県営検査を実施することとなり、昭和七年三月三一日県令第一三号をもって、愛媛県木炭検査所規程を発布し、同日付にて所長及農林枝手一名を任命、検査の準備にかかり、同年四月一日訓令第四三号をもって木炭検査所処務細則を発布した。
 同年五月二三日伊予・愛媛・宇和同業組合長及び組合管内同業者代表、木炭検査所並林務課員などを県公会堂に集めて、木炭の規格について種々審議の上、検査規格を定めて、同年七月一五日木炭検査規則認可申請を、農林大臣に進達、同年九月一三日認可せられるにいたったので、同年九月西条・松山・大洲・宇和島各支所長及び主事補九名、木炭検査員専任二九名、嘱託六九名を任命した。
 同年九月二六日県令第五二号をもって、木炭検査規則を公布し、同日付木炭検査手数料規則、木炭検査規則施行手続、木炭検査手数料規則取扱手続、検査員駐在所の位置、名称、管轄区域などの規定を定めて検査機構を整え昭和七年一〇月一日より県下一斉に木炭の生産検査を実施するにいたったのであるが、発足当時の事業成績によると、その検査成績は
  昭和七年一〇月~一二月まで   二〇万五、九八〇俵
  昭和八年一月~一二月まで   二四九万二、九四六俵
  昭和九年一月~一二月まで   三〇五万三、三一八俵
昭和九年ころの木炭一俵当産地価格平均は黒炭クヌギ切込上一円四二銭、黒炭雑小丸八五銭、白炭かし小丸上二円程度であった。
 生産者は、専業一、〇七二人、副業七、五一六人、計八、五八八人で、製炭かま数は、黒炭がま九六六九基、白炭かま八九八基であると記録されている。
 かくして、木炭の県営検査が実施されるや、厳正な検査の励行と、適切な指導奨励によって、炭質並びに加工技術はますます向上し、名声は次第に高まり、生産時期には、中部西日本方面より毎年多数の見学者が来県するようになった。
 さきに、全国品評会に切炭を出品、伊予炭が広く認識せられたので、昭和一一年より宮内省へ毎年約五〇〇俵のクヌギ切炭を納入することになり、喜多郡各町村より、昭和一四年まで納入が続けられた。
 昭和一四年度には、約二〇万俵の切炭が生産出荷せられ、伊予切炭の加工は最高潮に達したのであるが、同一四年九月物価統制法の施行と翌一五年木炭規格の全国統一および、政府買い上げ制度の実施に伴い、切炭の生産は中止されるにいたった。
 さらに、戦争の進展とともに、昭和一九年には木材・薪炭生産確保のため、木材薪炭生産令及び同施行規則の公布となり統制はますます強化されるにいたった。
 昭和二四年八月省令第七四号により、木炭需給調整規則の公布となるや、県は農林大臣の認可を受け、薪炭規格規程第八条による切炭の例外規格を制定して、これを復活生産に着手した。
 昭和二五年八月農林省は木炭の日本農林規格を制定し、同年九月一〇日より施行することになったので、県は、農林物資の品質改善と生産の合理化、取り引きの単純公正化及び使用消費の合理化を図り、あわせて、公共の福祉増進のため、検査することを目的として、県条例第二九号をもって、愛媛県農林物資検査条例を公布し、これが実施のため、林産物検査規則を定めた。この規則に規定する林産物は木炭のみとなり、用材、薪、はぜの実、木ろうの検査は廃止せられるに至った。その後は、日本農林規格改正の都度、検査規則の一部改正を行ないつつ木炭検査は続行せられた。
 昭和三一年一〇月には、本県産木炭の出荷調査と販路の開拓をはかるため、大阪市南安治川通りに県有木炭倉庫を設置し、保管業務を開始した。
 本県が昭和七年に、木炭検査規則を公布して、その検査規格に切炭を取り入れて以来、鋭意これが改良発達に努力して来たが、昭和三七年三月、ついに木炭検査三〇周年目にいたり中止された。
 その後、全国的な規格として取り入れられ所期の目的を達するにいたった。
 最近、プロパンガス・電熱器等の進出に伴い、さしもに、盛んであった木炭の生産も次第に下火となり、現在では電化の遅れている山村地域や都会にあっては、茶道に使う切炭が僅かに生産されているに過ぎない。
 近年の木炭需要の激減により、昭和四五年に三・七千tの生産があったものが、昭和五七年には一五七tと大幅に減少している。
 また一方、製炭者も四五年に一、三五七戸あったものが、昭和五七年には七〇戸に減少している。

 用材検査の沿革

 昭和一四年九月物価統制法の施行とともに、本県においても用材検査規則を公布して昭和一四年一一月一日より県営検査を実施した。
 日中戦争の拡大するにつれて戦時要求が次第に濃くなり、国家総動員法の実施にともなう物資動員すなわち木材薪炭の需給を計画的に果たすことになった。
 昭和一六年三月木材統制法が制定され、本法によって中央に日本木材株式会社、県に地方木材株式会社が設立せられて木材の統制業務が実施せられた。
 その後太平洋戦争に突入し、戦局が推移するにつれ軍需材、物動材、国民生活用薪炭など林産物の要求は増強の一途をたどるばかりであった。とくに物動計画に基づく生産の増大、木材薪炭の統制強化の高度化につれて伐採の強化は保安林にまで及ぶにいたった。
 昭和一九年、勅令第四二九号により木材薪炭生産令を公布して、木材・薪炭の生産確保のため立木の伐採、売渡命令に関する取り扱いを規定した。
 このころ政府は国家行政機構の決戦体制的大改革に踏み切り、昭和一九年に国民動員計画を実施、国家命令による労働力の徴用を行なうにいたる。同年六月民有林非常伐採計画を樹立することとなり、これに基づいて同二〇年一月愛媛県経済第二部長より昭和二〇年度木材生産目標を定めて各森林組合市町村長に指示した。
 同二〇年二月知事は郡市町村林業勤労組織確立要綱を定め、木材薪炭の生産に確固たる基礎を与うると共に林業勤労者の総力を最高度に発揚せしめるため、林業勤労報国隊を組織せしめた。
 戦況は次第に不利となり、同二〇年八月一四日ポツダム宣言を受諾し、一五日終戦を迎えた。
 昭和二二年農林省令第一八号をもって、臨時物資需給調整法に基づいて木材薪炭生産規則を制定、同年五月木材需給調整規則を公布して、木材の使用消費を制限すると共に割当切符を発行した。農林省愛媛資材調整事務所が発足したのも此の時期であった。
 昭和二三年頃までは戦災復興の時代で、政府の積極的な融資などもあって物価、賃金はますます高騰し、重要物資は戦前の六五倍、賃金は三〇倍となり木材価格も上昇しつつあった。
 木材統制法は、昭和二一年に廃止となったが、全面的に撤廃になったのは同二五年である。
 本県において昭和一四年に用材検査規則を制定以来県営により用材の検査格付を実施し、相当声価を挙げつつあったが、戦時中統制したものの県営検査廃止の機運と、業界の強い要望により強制検査は廃止し、希望による検査制度となった。
 二六年以後、生産面では質より量への要求が圧倒的となり、燃料材生産から用材パルプ材への切り替えとなり、パルプ用材の需要はますます増大し、さらにチップ材の利用・繊維板・段ボール・新建材の出現など木材利用合理化はいっそう進展の道をたどりつつある。
 同三六年には金融引きしめ、木材価格安定対策としての、国有林の増伐と外材輸入などの事情もからみ、三七年においては、材価は下落し業界に多少の混乱を招くにいたった。
 最近における木材需給の動向として、木材需要の主要な部分を占める新設住宅の着工は、昭和四八年の一万九、七九七戸をピークに、最近数年間は一万九、〇〇〇戸前後で推移してきたが、住宅ストックの量的充足、勤労者世帯の実質所得の伸び悩み、地価の上昇による住宅取得価格の高騰などから昭和五五年一万五、六二六戸、昭和五六年一万三、五五五戸で対四八年比六六%と二か年連続して急激な落ち込みを示している(図1ー5)。
 木材需要量は、昭和四七年の二六九万六千立法メートルをピークに以後一七〇万~一八〇万立法メートル前後で推移してきたが、住宅建設の低迷から昭和五七年には、昭和四七年に比べて四〇%減少し一六一万六千立法メートルとなった(図1―6)。
 木材供給量を国産材、外材別にみると表1―31のとおりである。そのうち国産材は昭和四六年の一四六万四千㎡から以後減少傾向にあったが、昭和五四年からもちなおし、昭和五五年には、木材価格の上昇等から一一四万三千立法メートルとなった。
 しかし、五六年には木材不況の影響を受け、九三万七千立法メートルと激減した。
 木材供給量に占める自県産材の割合(自給率)は、四六年に三四%であったものが、五七年には四五%となり、また、国産材における自給率は、四六年の五七%に対して五七年は七五%と大幅な増加を示している。
 自県産材の生産量(図1―7)は四五年から五一年にかけて減少の一途をたどってきたが、最近は増加傾向に転じてきた。五七年は七三万二千立法メートルで、針葉樹が九二%を占めている。内訳は、まつ四二%、すぎ二八%、ひのき二一%、その他一%となっている。
 外材は、昭和四八年の一〇〇万七千立法メートルから以後減少し、産地国の丸太輸出規制、為替相場の変動から、昭和五七年には、六四万立法メートルと昭和四八年に比べ六四%に減少した(図1―8)。
 樹種別には、米材が七一%と大部分を占めている。

 製炭業の成立

 木炭は家庭用の燃料としては、薪と共に最も重要なものであり、また鍛冶用などの工業用の用途も多かった。自給用の木炭生産は各地で古くから行なわれていたが、商業用の木炭生産が盛んになったのは、江戸・大阪の大消費地が出現し、各地に城下町の形成された近世以降であるといわれている。近世大阪関係の木炭史料に出てくる主な産地には、地元河内の技炭以外に、日向・紀伊・土佐・伊予・伯耆・豊後などが出てくる。伊予の国は、近世には大阪市場において木炭産地の一つとして知られていたのである。

 愛媛県で大阪市場と結合した製炭地域として発展したのは、南・北宇和郡の地域であった。この地域は藩政時代の中期までは藩内用木炭の生産を主体としていたと思われる。寛永三年(一六二六)の宇和島藩の租税台帳である大成郡録には、九色小役并千石夫の項に、鍛冶炭・起炭が記載されている。納入された木炭は藩当局によって使用されるものと、藩に関係のある鍛冶屋に与えられるものがあった。この地域の製炭業が発展しだしたのは、幕末文化年間(一八〇四~一八)以降の藩有林における藩直営の製炭業による。藩当局は製炭者に前渡金を支給して製炭に従事させ、生産された木炭は海上輸送で大阪に出荷していた。このような形態における製炭業の存在は、御荘組の藩山において指摘されているが、これ以外にも海上輸送に便利な津島組などでも盛大に行なわれていたと考えられる。大阪市場から遠隔地にあったこの地方の木炭生産は、藩の強力な統制のもとに、その発展の端緒を得たといえる。明治以降この地域は県内随一の製炭地として発展するが、その端緒は幕末の藩営木炭の生産にあったのである。
 東予の銅山川流域の製炭業は元禄四年(一六九一)の別子銅山の開発と共に盛んになる。別子銅山の銅の製錬は、明治三二年まで銅山川源流の旧別子で行なわれていた。銅の製錬には焼鉱用の薪と熔鉱用の木炭を大量に必要としたので、銅の稼行が盛んになるにつれて、製炭業も盛んになる。明和六年(一七六九)巡見にきた幕府の役人に差し出した実況調査書によると、諸働人男女四〇九〇人のうち、製薪炭関係のものは、薪伐五〇三人、炭焼二七四人、炭焼手子四一八人、鍛冶炭焼三〇人、炭中持二五〇人、商人薪伐八〇人、計一五五五人であり、全体の三八%も占める。明和年間には別子銅山の産銅が五〇~一〇〇万斤に低下していたが、開坑当初の元禄年間には二五〇万斤の産銅を誇っていたので、いかに多くの製炭関係の労働者がいたかは想像に難くない。開坑当初の木炭の必要量は二〇〇万貫であったといわれ、これは明治末年の宇摩・新居両郡の製炭量が三五~四〇万貫であったのと対比してみれば、いかに藩政時代の製炭量が多かったかが推察される。銅山開発と結合して成立したこの地域の製炭業は、外部の市場との結合が弱く、製錬用木炭の需要減少と共に衰退していく。
 松山・今治などの都市周辺山地は、城下町の木炭消費と結合して製炭業が盛んになる。松山市近郊山村の湯山村では藩政時代に盛んに製炭業が行なわれていた。住民は藩有林あるいは村の管理下にある御引渡山にて製薪炭業にいそしみ、それを御家中に売り出さねばならなかった。「浜出し」―他地方への売却ーは禁じられ、薪炭の価格は領主によって定められていた。炭八〇貫、薪二〇〇貫が米一俵にかえられたといわれ、その代米は大部分年貢として徴収されたといわれる。藩政時代の製炭戸数は確認できないが、明治九年編集された『温泉郡地誌』にて湯山村の製炭戸数をみると、三六三戸中(平地村の溝辺を除く)男の民業として、耕作九八(二七%)、炭焼・採薪五六(一五%)、農を業として傍ら炭焼を業とするもの一六三(四五%)であり、六〇%の戸数が製薪炭に従事していたことがわかる。この地域は藩政時代、藩の統制下に松山市場と結合した製炭業が盛んであり、これが明治以降に継承される。同じ藩政時代に成立した製炭地域でも、南・北宇和郡が藩直営による製炭業として官営的色彩が強かったのに対して、この地域は藩の統制をうけながら、山村住民による自営的な製炭業が発展してきたことは注目される。
 愛媛県内の製炭地域には、他に肱川流域と上浮穴郡があるが、共に明治以降木炭生産が盛んになった新興の製炭地域である。肱川流域は明治末年から大正年間にかけて製炭業が盛んになるが、それ以前は、川舟によるクヌギの薪材の生産の多いところであった。一方、上浮穴郡は大正年間から昭和の戦前にかけて木炭生産が盛んになるが、その最大の要因は道路の開通にともなう交通事情の改変であったといえる。

 製炭地域の発展

 愛媛県の木炭生産量は、明治年間以降全国生産量の二%台を上下することが多かった。西日本の最大の木炭生産県は高知県であり、それに次ぐのが島根県であったが、愛媛県は鹿児島県・宮崎県・熊本県・広島県などと共に、これらに次ぐ西日本の主要木炭生産県であった。愛媛県内の郡市別の木炭生産量の推移は、明治三七年以降「愛媛県統計書」や県林政課資料によって明らかにすることができる。明治三七年の県内の木炭生産量は四四八万貫であるが、このうち南・北宇和郡の生産量は二一二万貫(県の四七%)にも達し、県内随一の製炭地域であったことがわかる。これに次ぐ木炭生産量の多いのは、温泉郡の六七万貫(県の一五%)、越智郡の五〇万貫(県の一一%)であり、喜多郡や上浮穴郡の木炭生産量がまだ多くないことが注目される(表1―32)。
 南・北宇和郡の地域は、明治以降県内随一の製炭地域であった。製炭量の対全県比は、大正・昭和と時代が移るにつれて低下するが、明治年間には県の木炭生産の過半を占め、その地位は圧倒的に高かった。明治・大正の間の製炭業の中心地は篠山山系や鬼ケ城山系の国有林地帯であった。これらの国有林地帯で木炭生産が盛んに行なわれたのは、カシ・シイなどの木炭原木となる天然広葉樹林が多くあったこと、これらの山地が海岸から五~一〇㎞程度を隔てるにすぎなかったので、交通の不便な時代に木炭の搬出に便利であったことによる。明治末年に編集された北宇和郡の各村誌によって、当時の製炭業をみると、その過半が篠山山系をひかえる現在の津島町に集中し、他は鬼ケ城山系に属する現在の松野町や広見町近永地区などに多い。北宇和郡内でも奥地山村に属する日吉村などでは、木炭の搬出が困難であったことから、木炭の生産はほとんど見られなかった。
 木炭の生産は当時から国有林の払い下げ原木に依存して行なわれるものが多かった。明治四四年の「愛媛県統計書」によると、国有林立木収入代金のうち、北宇和郡は四五%が薪炭材額、南宇和郡にいたっては八八%が薪炭材額で占められている。国有林の原木は、木炭の大阪への移出港である宇和島・岩松・宿毛などの薪炭商に払い下げられ、彼等が隷属的な焼子を支配することによって、木炭生産は行なわれた。明治末年の南宇和郡一本松村では、二人の製炭業者が篠山の国有林に一五〇箇の炭窯を構築し、焼子を支配して製炭していたことが誌されている。かかる焼子形態の生産形態は第二次世界大戦前のこの地方の普遍的な製炭形態であった。
 製炭業の先行する形において発展したこの地域も、明治末年以降次第に用材の生産が増加する。その一つは、北九州の炭田の開発に呼応した鉱山用坑木としての松材の生産であり、他は滑床国有林の建築用材としてのモミ・ツガの生産であった。これらはいずれも天然材の伐採を主対象としたものであり、人工林の植栽は県内では最も遅れ、奥地の国有林・民有林では第二次世界大戦後の造林地が多い。製炭業は昭和年間に至り、道路の開通などと相まって奥地の日吉村などへと波及していった。
 松山・今治などの都市周辺山地は、南・北宇和郡の地域と共に、明治末年愛媛県を代表する製炭地域であった。明治三七年の温泉郡の製炭量六七万貫、同年の越智郡の製炭量五〇万貫は、共に昭和初期まで更新されておらず、明治末年すでに製炭量がピークに達していた。この地域の製炭業が明治年間に発展したのは、交通不便な時代に、松山・今治などの地方都市に近接し、それらの市場に木炭の搬出が容易であったことに求められる。明治の末年以降製炭量が減少するのは、交通の発達と共に、松山・今治などの市場に遠隔地からの木炭が搬入され、都市周辺山村の木炭生産の独占的地位が崩れてきたことに求められる。松山市五明地区や北条市河野地区など、高縄山麓の製薪炭を生業とした集落のなかには、明治末年以降挙家離村が続出し、廃村化への道を歩んだ集落かあるが、それは木炭や薪の売れ行き不振が最大の要因であった。
 東予の銅山川流域の銅の製錬用木炭の生産の名残は、大正八年ごろまでみられ、高知県や愛媛県宇摩郡出身の製炭者が鉱山会社直属の請負人「親方」にひきいられて、山から山へと移動して製炭していたといわれている。しかしその製炭量は、明治三七年の宇摩郡の製炭量が一五万貫であることからみても、そんなに多くはない。別子銅山の製錬の本拠が明治三二年に旧別子をはなれて以降は、交通不便で地元に消費市場をもたない銅山川流域の木炭生産は多くなかった。この地域の製炭業が増加するのは大正年間にはいってからであり、大正四年には宇摩郡の木炭生産量は八〇万貫と増加する。その要因は大正八年高知県大川郡の白滝鉱山と三島町を結ぶ索道が開通し、宇摩郡の平野部への木炭の搬出が容易になったことと関連する。
 肱川流域は、肱川の筏流しや川舟の就航と結合して、愛媛県では林業の早く成立した地域の一つであり、肱川林業の名がある。肱川林業はスギ・ヒノキの小丸太生産とクヌギの切炭の生産に特色を有するが、明治三七年の木炭生産量はわずか一四万貫にすぎない。当時は松丸太の筏流しと、クヌギの薪材を川舟で搬出するのが盛んな山村であった。肱川流域の製炭業が盛んになるのは明治末年以降であり、昭和にはいると、南・北宇和郡と肩を並べる県内屈指の製炭地域としての地位を確立する。
 この地域の核心的製炭地域であった大洲市柳沢地区についてみると、大正六年製炭者八三戸、生産量五・八万貫と記されているが、明治三〇年ころには、わずか一〇人程度のものしか製炭に従事していなかったと、『柳沢村状況調』に誌されている。この地域は山腹の緩斜面が畑として利用されているところが多く、明治年間には、その畑に肥草を投入するため、広い採草地が必要であった。木炭原木としてのクヌギの植林が本格化するのは、明治末年以降であるが、それは金肥の普及による採草地の必要性が低下して可能となった。
 しかし製炭業の発展上もっとも大きな契機をなしたのは、明治末年の大阪府下池田地方からのクヌギ切炭技術の導入であったといえる。文献にみえるクヌギ切炭の生産は明治四三年にはじまる。この年喜多郡内子町の薪炭商越智良一は切炭を生産し、京阪神方面に出荷している。彼はその技術を池田地方に学んだが、その後製炭者自身で池田地方におもむき切炭技術を修得して帰った者も多い。大正末年には、喜多郡の木炭生産量は三〇万俵(一五㎏俵)となっているが、うち八万俵は切炭として阪神地方に出荷されている。
 大正一二年には愛媛県で最初の木炭同業組合が喜多郡で結成され、木炭の自主検査をしたことは、製炭技術の向上をうながすものであった。かくして、昭和三年には東京上野の全国品評会で、この地域の切炭を出品した越智良一外二名が山林局長から感謝状を授与され、続いて昭和一一年から一四年には、この地域のクヌギ切炭が宮内省に納入され、ここに「伊予の切炭」の名声を全国にとどろかせた。
 県内で林野率の最も高い上浮穴郡は、明治三七年の木炭生産量二九万貫であり、県内でも木炭生産の地位は低い。この地域の製炭量が増加しだしたのは、大正年間に入ってからであり、特に昭和年代に入って急増する。昭和五年には上浮穴郡の木炭生産量は一三七万貫を数え、同年の北宇和郡一三八万貫、喜多郡の一一七万貫と肩を並べるまでに至っている。森林に恵まれた上浮穴郡に木炭生産が急増しだのは、明治二七年の松山と高知を結ぶ四国新道の開通に次いで、大正・昭和年間になるにつれて郡内の山村各地に道路が開通し、交通事情が改善されたことによる。しかしこの地域の製炭業は、拡大造林の過程に天然広葉樹林が木炭原木に利用されたものであり、昭和三〇年以降になると、その衰退もまた早かった。

 炭種別・樹種別の木炭生産量

 木炭をその製法によって区分すると、白炭と黒炭に区分できる。白炭は炭窯の中で白熱状態になって炭化した木炭を、窯外にかき出して消粉をかけて消火した木炭をいう。木灰の表面に消粉がついて白く見えるので白炭という。黒炭は炭窯の中で炭化した木炭を煙道口と通風口を密閉して窯内消化してとり出した木炭をいう。木炭の表面が黒く見えるので黒炭という。同一樹種で焼いた木炭でも、炭化温度と精錬温度が異なるので、白炭と黒炭はその特性を異にする。白炭は高温で精錬するので、黒炭に比べて硬度がたかく、炭素の含有量も多い。着火は黒炭の方が容易であるが、火もちは白炭の方がすぐれている。このような木炭の特性を反映して、白炭と黒炭は用途に差異があり、消費市場によってもその好みを異にした。
 愛媛県の木炭統計で白炭と黒炭の区分がみられる最初のものは、大正四年の統計である。この年の県の白炭の生産比率は三九・六%であり、全国の白炭生産比率四二%に近い数値となっている。当時の県内の白炭と黒炭の生産状況をみると、南宇和郡・周桑郡が白炭生産地域であり、北宇和郡と宇摩郡が白炭と黒炭の生産が相半ばし、その他は黒炭の生産地域となっている(図1―9)。このように県内の製炭地域が白炭と黒炭の生産比に色分けされているのは、木炭原木の差異と木炭の出荷先の需要の差異を反映するものであった。南宇和郡から北宇和郡の南部にかけては、白炭の生産に適するカシやウバメガシが多く、木炭の出荷先の阪神市場が白炭の需要指向が強かったことと関係する。それに対して温泉郡や越智郡・伊予郡・喜多郡などが黒炭の生産地となっていたのは、県内の主な消費市場が黒炭の需要指向が強かったこと、これらの地域の木炭原木が黒炭の生産に適するクヌギやナラが多かったことなどと関係するといえる。
 愛媛県の白炭の生産比率は、大正一四年には二二・九%、昭和五年には二〇・〇%、昭和一〇年には一四・七%と減少する。この間に周桑郡・北宇和郡は白炭の生産地から黒炭の生産地へと変容する。白炭の生産比率が減少したのは全国的な傾向であるが、それは消費者の指向が火もちのよい白炭より着火の容易な黒炭へと変わったこと、生産者が収炭率のよい黒炭の生産を好むようにたったことなどを反映する。昭和三三年の県の白炭の生産比率はわずかに五・三%であり、その白炭の生産地は南宇和郡と北宇和郡の一部にみられるのみとなっている。
 昭和三三年の統計から樹種別の木炭の生産量をみると、林相の差異を反映して、地域によって、木炭の種類が大きく異なっていることが注目される。黒炭としては最も高価に販売できるクヌギ炭は肱川流域に多く、大洲市と喜多郡の領域では、木炭の四五・〇%がクヌギ炭となっている。カシ炭の生産の多いのは、南・北宇和郡の領域であるが、この地区でもカシ炭の比率は二〇%弱であり、ザツ炭が過半を占める(表1―33)。このことは肱川流域でクヌギ林の育成がなされ、木炭原木の改良がなされたのに対して、南・北宇和郡の地域では木炭原木の改良がなされず、天然更新の樹木を木炭原木に利用してきたことを物語っているのである。上浮穴郡や東予の山間部もザツ炭の生産が多く、木炭原木の改良は見られない地域であった。

 製炭業衰退の地域的諸相

 西日本有数の産地であった愛媛県の木炭も、燃料革命のあおりをうけて昭和三〇年代に衰退に向かう。愛媛県の木炭生産量は昭和三二年の五万八、九〇一tが最高であったが、その後急減し、昭和四〇年には最盛期の一八・八%の一万一、〇八三t、四五年には六・二%の三、六八四t、五五年にはついに〇・三%の一六八tにまで減少した。製炭業は全県的に衰退するが、薪炭林の樹種転換や製炭者の転業などは地域によって一様に進行したものではない。
 愛媛県の第二次世界大戦後の製炭量の推移をみると、喜多郡・温泉郡・越智郡などの製炭量のピークが昭和二七年から二八年にあらわれているのに対して、東宇和郡・北宇和郡・南宇和郡などは、そのピークが昭和三二年にあらわれている(図1―10)。愛媛県の製炭業の衰退化のきざしは東・中予より南予に波及していったことがわかる。
 南・北宇和郡では、国有林のカシ・シイなどの天然広葉樹林はスギ・ヒノキなどの人工林に樹種転換され、私有林は造林資本の不足から天然広葉樹林のまま放置され、パルプ材などに利用されているものが多い。専業的製炭者のなかには地元での労働力需要が少ないことから、大阪方面などの大都市地域に挙家離村した者が多く、製炭業の衰退が人口過疎の引き金とたったところも多い。
 肱川流域では、昭和四〇年ころには、製炭業の衰退からクヌギ林の転換が大きな問題となった。クヌギ林のなかには、スギ・ヒノキの針葉樹林に転換されたものもあるが、昭和四〇年すぎからシイタヶ栽培が隆盛に向かうにつれて、シイタケ原木に転換されたものが多い。製炭者自身も、製炭業からシイタケ栽培に転換したものが多く、南・北宇和郡のように製炭業の衰退と共に過疎化した集落はそれほど多くない。
 製炭業の衰退するなかで注目されるのは、茶炭の生産である。茶炭の生産は大洲市道成の増田末春が、昭和三九年試作し、昭和四五年から本格的な生産を始めた。この茶炭は、茶の湯をたてるのに必要な炭をセットにして箱詰めにして出荷するものである。炉用(冬用)には、胴炭一つ、輪胴一つ、掬打四つ、割掬打四つ、管炭二つ、割管炭二つ、点炭二つが一セットとして収められ、風炉用(夏用)には、胴炭一つ、輪胴一つ、掬打三つ、割掬打四つ、管炭一つ、割管炭一つ、点炭四つが一セットとして収められている。茶炭は、従来消費者あるいは消費地の問屋・小売店で加工していた茶会用の切炭を、生産者自身が生産しだしたものであり、伊予の切炭を生産した高度の技術が生かされているものと見ることができる。この茶炭は京阪神市場に出荷され、同地区では根づよい需要をもっているが、後継者の不足から、大洲市柳沢地区では、前記の増田末春を含めて三人程度が生産しているのみであり、その生産が存続するかどうかは予断を許さない。
 上浮穴郡は天然広葉樹林の針葉樹への樹種転換の過程に製炭業が発展したが、昭和四〇年代に入ると木炭原木の不足と、製炭者自身の挙家離村などにより、製炭業は衰退してしまった。現在は民有林の人工林率が八六%に達しているごとく、樹種転換は完全に終わり、育成林業の地帯にと転換している。
 松山市や今治市の都市周辺山村では、松山市や今治市などの保養地となって急激に製炭業が衰退したところがある。労働市場に近いこの地域の製炭者は、松山市や今治市への通勤兼業者となったり、新たに建設されたレジャー施設の労務者として働いているものが多い。かつて木炭の原木として活用されていたクヌギ林は、今治市近郊の玉川町では、地元住民のシイタケ栽培に活用されているものが多いが、松山市近郊山村の伊台・五明・湯山などでは、肱川流域や上浮穴郡など域外のシイタケ栽培者に、その原木として売却されているものが多い。


表1-30 木炭生産の動き

表1-30 木炭生産の動き


図1-5 建設着工の推移(県林政課)

図1-5 建設着工の推移(県林政課)


図1-6 木材需要量の推移(県林政課)

図1-6 木材需要量の推移(県林政課)


表1-31 木材供給量の推移

表1-31 木材供給量の推移


図1-7 自県産材の樹種別素材生産量の推移

図1-7 自県産材の樹種別素材生産量の推移


図1-8 外材の入荷量の推移(県林政課)

図1-8 外材の入荷量の推移(県林政課)


表1-32 地区別の木炭生産量の推移(明治37~昭和15年)

表1-32 地区別の木炭生産量の推移(明治37~昭和15年)


図1-9 大正4年の炭種別木炭生産量

図1-9 大正4年の炭種別木炭生産量


表1-33 地区別の樹種別木炭生産量(昭和33年)

表1-33 地区別の樹種別木炭生産量(昭和33年)


図1-10 愛媛県の地区別製炭量の推移(第2次大戦後)

図1-10 愛媛県の地区別製炭量の推移(第2次大戦後)