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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

愛媛の蚕糸業概観


 蚕糸業の概観

 本県の蚕糸業発達については、『伊予蚕業沿革史』によると、元明天皇和銅四年(七一一)より桃文師を諸国に派遣し、錦綾の織法を教え始め、翌年には伊予外三〇か国に命じ織らせた。桓武天皇延暦一五年(七九六)のころ、養蚕の行われた国は、伊予外三四か国で、醍醐天皇の延喜式には伊予は中糸国に列せられ、毎年綾羅を貢献したことが記されている。
 県下の養蚕地については、『倭名類聚抄』(九三〇年代に成立)にも出てくる桑原郷(現在松山市内)や桑村郡(現周桑郡)のことなどからも、古来から養蚕が行われていたものと推察される。
 その後、戦国時代には各地兵乱のため、農家は養蚕業を営む余裕がなくなり、一時は衰退したものと思われる。
 江戸時代に入って、幕府の勤倹を旨とする奢侈禁令によって、養蚕業は一層その発展を阻止された。元禄以後になって、泰平の世と共に蚕糸の需要が多くなり、伊予の国においても喜多郡の西部・西宇和郡の東北部で夏蚕(二化蚕)を飼育するものがあったが、多くは婦女子の手内職として、魚具・鳥網などに用いる粗糸を繰り、あるいは真綿を作り、紬糸を挽き自家用としてなお残りがあれば販売に回していたに過ぎなかった。寛政時代(一七八九~一八〇〇)には松山藩で、嘉永年代(一八四八~一八五三)には大洲藩でそれぞれ養蚕・製糸の奨励された記録がある。天保年代(一八三〇~一八四三)以降は、幕府の奢侈厳禁の政策により再び衰え、安政年代(一八五四~一八五九)になり、ようやく海外との貿易の道が開け、東北・関東においては、斯業の振興を見たが、本県の養蚕は、僻地の婦女子において僅かに行われていたにすぎなかった。
 明治維新後は、士族授産の道として、各藩がきそって養蚕奨励を唱導し、また、生糸・蚕種の輸出が有望であることを察知した旧藩士の中にその仕事を始める者が出て来るなど、急速に振興して来た。その間、官民一体となって、諸奨励策を講じたのである。殖産興業の政策下に明治年代ようやく日本の製糸業も近代化の途をたどり、養蚕業は全国的な拡大を見、大正一〇年代には、わが国の輸出品中、生糸など繭糸類が総額の四九%に達し、国力伸張の原動力となった。本県でも、昭和五年に養蚕農家数五万五、八四六戸その生産する繭一万一、五三四tと、西日本一の養蚕県になった。
 しかしながら、時代の推移と共に、人絹・ナイロンなど新興の人造繊維の出現によって、蚕糸業界は苦難の時代を迎えた。昭和五九年現在、養蚕農家数二、一〇八戸、生産繭六八六tと激減し、今では東中予地方の山間部及び南予地方がその主産地、畑作地帯の主要な作物として定着している。全国的には、繭生産量の最も多い県は群馬県で、次いで福島・埼玉・長野・山梨の順で、本県は一六位くらいとなっている。