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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 採卵鶏の変遷

 明治維新までの養鶏

 神話の時代から「暁を告げる」現代の時計程度の役割や観賞用家畜として飼われていたことは疑いない事実である。
 愛媛で最初に飼われた記録がないので詳かでないが、古墳からの遺物や、闘鶏が民間で行われていたことなどから存在は明らかであり、温暖な瀬戸内地方の気象条件が人が鶏と共に生活する地域として適地であったことは容易に想像され、その生産物の卵や鶏肉が大切な食べ物であり、ある時は薬として使われたものと考えられる。
 仏教の伝来によって卵肉の利用が少なくなったことは分かるが、肉食・殺生はしばしば禁令が出されても、卵を食べることを禁じた文献はないことから、一面では鶏飼育の奨励になったと考えられている。
 しかし長い間、鶏の改良や飼育についての発達変遷は余りみられなかったのである。
 そして江戸時代の末期に至って外国鶏が渡来するようになり珍鳥として愛玩用に飼育する者も多くなった。
 卵肉用実用鶏種として最初に輸入されたミノルカ種は文化年間(一八〇四~一七)のころで、コーチン種は安政年間(一八五四~五九)に入り、九斤と称された。
 その後、明治維新(一八六八)となり、欧米の風潮の影響が大きく特に畜産の変動は最も大きかった。
 当時松山藩士族稲川元澄は英国産九斤鶏(コーチン種)を導入飼育し、その有利な事業として県公告に掲載したことなどから盛んとなり、これがエーコク種という名称の起源となった。淡色のものはバブコーチンから、黒色のものは、黒色コーチンから出たもので、淡色のものは名古屋コーチンに似ているが、同種より体高が大きく、体重は三~四・八kgで強健で実用鶏として産卵数も一五〇~二〇〇個以上も産み、一個の卵重も一六~一七gの淡黄色の卵殻であった。
 そして当時は「妊婦が卵を食うと毛のない子供が生まれる」とか「鶏の夜泣きは火事の知らせ」など鶏にまつわる迷信も多かった時代であった。

 明治・大正時代の養鶏

 明治維新後の養鶏は、卵肉生産の意味での奨励が行われはじめたもので、農家の庭先で雄鶏一羽と雌鶏二~三羽を飼う程度のもので極めて零細副業的なもので西洋種鶏や孵卵器、育雛器などの輸入もあったが外国珍種による投機的傾向が表れるなど健全な発達とはいい難い状態であった。しかし鶏の需要も次第に増加の傾向となり県内各地で雑種鶏の飼育が見られるようになって悪徳業者も出るようになり宇摩郡中曽根村秋山泰庶は明治二五年に至り奸商などが雑駁な種類で農家を欺まんし利を貪るのを憂い純良なる洋鶏二〇余種を購入し改良発達をはかり、同三〇年谷脇惣七は喜多郡大洲町において盛んに洋鶏を繁殖し、三七年には早川兼知は今治同盟汽船出張所長として越智郡今治町に赴任するや養鶏の利益を鼓吹し地方農家を勧誘指導し伊予家禽協会を設立する。三八年周桑郡徳田村石倉丑之進は居村において黒毛ミノルカ、名古屋コーチンなどを飼育し、同四〇年に至り一種の育雛器を考案し四一年には東宇和郡卯之町末光績は洋種数種を飼養繁殖し地方養鶏の発展に努めるなど日清、日露戦役を経て次第に国力が充実してくるに伴い、明治三九年一八万三、〇〇〇羽にはじまり翌年には二六万五、〇〇〇羽へと漸次産業的色彩を帯び、国が海外から輸入した優良種鶏を繁殖して民間に配布をはじめるほか行政機関や郡農会などが積極的に奨励を行い次第に飼育羽数も多くなり県下でも養鶏組合が結成されて共進会や品評会が盛んに行われるようになった。その主たる目標が実用鶏の資質向上にあったことは勿論であるが、このため入賞鶏の種卵が高価に取り引きされた為、品評会はいささか銘柄作出競争の感があり、また一面には投機的に行われる面をも生じた。
 孵化は、母鶏孵化を行っていたので、同時に多くの雛を孵化させることが困難であったことから、人工孵化に着目するようになった。わが国では既に明治九年に中国人の技術者が招かれ、人工孵化をやり、養鶏奨励に踏み出しており、本県でも県農会や民間人で孵卵技術の修得する者も出て人工孵化技術の普及が注目せられるようになった。
 大正年代に入ってからも明治年代と大差のない状況で推移しているが、次第に産卵能力が重視せられるようになり、漸次多産鶏飼育に移ってきた。大正一〇年には県立種畜場が設立されて種鶏の飼育をはじめ種卵の配布や養鶏に関する技術的試験研究も行われる情勢となり、養鶏発展の糸口となった。従って大正一四年には飼育羽数も五〇万二、〇〇〇羽を数えるようにはなったが、当時は飼育管理技術が未熟であったため春季に産卵が集中し、卵価は暴落した。一方夏季から秋季にかけては産卵が少なく順調な消費の伸びに追い付けず、このため八月から一二月ころに卵価が著しく高騰するといったことから、支那卵の輸入は年と共に増え続け加えて大正九~一三年の間輸入関税が免ぜられた点なども作用して漸く成長しはじめた養鶏業は大きな打撃を被った。こんなことを契機に養鶏業界も零細放飼、母鶏孵化から脱皮し人工孵化への切り換えや、養鶏経済上不可欠の問題であり養鶏農家の切望止まないものであった初生雛の雌雄鑑別法が農林省畜産試験場において大正一四年四月発表され、やがて時を経ずして完全実用化された雌雄鑑別雛の販売が予定され、また専業多数飼育につきものの鶏病予防についても獣疫調査所の研究が進展した。したがって養鶏家の繁殖、飼養、管理などにも熱意が出て、各地に講習会が開催されて専業、主業養鶏家をめざす者も少なくなかった。

◇登録孵化場
  阿部孵卵場        阿部信雄   新居浜市泉川町二五四一    電話(○八九七二)六三〇五
  西条孵卵場        近藤司    西条市福武沢甲四五八-四   電話(○八九七五)二六八八
  久門種鶏孵卵場      久門作次   西条市中野甲一四六五-一   電話(○八九七五)二二三一
  井手種鶏場        井手信光   今治市高地          電話(○八九八)ニ-六三四七
  森孵卵場今治工場     森和吉    今治市上河原町        電話(○八九八)二-六二二二
  大亀種鶏場        大亀良雄   周桑郡丹原町来見       電話(来見)三三
  四国種鶏場        中田源太郎  北条市別府四五〇       電話(○八九九)二-〇四四二
  工藤舎孵卵場       工藤要    松山市大字道後一〇五七    電話(○八九九)四一-三〇二五
  工藤舎宇和島孵卵場    工藤要    宇和島市丸穂甲七三七     電話(○八九五二)二-一一六七
  白石種鶏孵卵場      白石清    松山市大字西石井一六九    電話(○八九九)二一-八六二四
  二宮種鶏孵卵場      二宮重礼   松山市南町一丁目       電話(○八九九)二一-四六一四
  経済連孵卵場       青井政美   松山市西長戸町        電話(○八九九)三一-七一六八
  楠本養鶏孵卵場      楠本正一   伊予市上三谷二四五七     電話(○八九九八)二-○六一七
  伊与種鶏場        楠本幸晴   伊予市上三谷一九二七
  日野種鶏孵卵場      日野皓輔   温泉郡久谷村中野甲二七一   電話(荏原)六三六
  愛媛飼料見奈良種鶏場   宮内政三   温泉郡重信町見奈良      電話(見奈良)四七
  南伊予養鶏組合孵卵場   福増力夫   伊予市下三谷二四八八     電話(○八九九八)二-一七二八
  大洲養鶏孵卵場      今川明徳   大洲市徳ノ森
  神山種鶏場        元田成也   八幡浜市五反田        電話(○八九四二)二-一一四二
  元田種鶏孵卵場      元田富士夫  八幡浜市五反田        電話(○八九四二)二-一九七五


 昭和終戦までの養鶏

 大正時代の末期から鶏卵の需要が増加し、品不足の状況となったので前述のように中国卵などを輸入する状態であった。一方農村の不況は深刻でこれを救済するため鶏卵の自給や農家保護のため国策として積極的に養鶏の奨励が行われた。そして本県において孵卵器孵化となったのは昭和四年で、この年の飼養羽数は六七万五、二〇四羽に達し、昭和七年には県産雌雄鑑別雛の供給が確立され、さらに、昭和九年制定公布の有畜農業奨励規則も発展に役立って産業養鶏の合理化と発展はめざましいものがあった。この結果鶏卵は昭和五年ころから生産過剰の傾向となり、これに加えて一層深刻化した経済不況のために鶏卵の需要が減退し、昭和七年には最低の卵価暴落となった。このため鶏卵の消費拡大運動や鶏の能力的な改良、飼育管理技術の向上、飼料価格の安定化などに努めた結果、昭和九年下期ころから再び勢いを盛り返すこととなった。
 昭和一二年日中戦争がぼっ発し、戦時下の統制的な色彩が強まり、その影響を受けはじめたが、このころの養鶏は経営規模が小さく副業的な存在であって農業副産物などの利用奨励もあって、飼養羽数は漸増し昭和一五年には飼育羽数もこれまでの最高の九三万一、九一三羽に達し、粗生産額でも畜産第二位の重要な産業となった。
 しかしながら昭和一六年には第二次世界大戦に突入することとなり飼料、鶏卵などの本格的な配給統制時代となり鶏は畜産のうちでも最も早く回復させることができるからという理由で一番厳しい飼料制限を受け、復元の土台となる種鶏用飼料しか認められないことになり、加えて労働力の不足などからじり貧の状態が続くことになった。

 昭和戦後の養鶏

 終戦直後の昭和二一年には僅かに一五万三、一三四羽に激減する状態にあった。当時は経済界のインフレによって鶏卵の価格が高騰して飼育熱を高めたが、飼料の入手難と資材の不足などによって本格的な進展をみるまでには至らない情勢が続いた。
 しかしながら国民栄養の早期回復などの見地から鶏卵の需要は急速に高まり、養鶏の復興が盛んに唱えられるようになり、昭和二三年三月にはその推進母体となる日本養鶏協会が誕生した。再建にはまず飼料の確保と種鶏の増加が先決条件であるとして活動を開始し、飼料の特配や養鶏発展の原動力とも言うべき孵卵業者のための電力確保運動などに奔走した。そして昭和二五年に至り飼料の統制が解かれ、同二七年には飼料需給安定法の制定を見るに至って養鶏家は安心して飼料を入手できる見通しがついたので養鶏は急速な勢いで伸長をはじめ、二八年には二五年の二倍の八四万羽に達したが、一方飼養戸数も一〇万四、〇〇〇戸に及び、一戸当たり飼養羽数は僅かに八羽にすぎない状態であった。
 このように当時の養鶏家は数こそ多かったが、全く個々別々で自己の力だけで努める風潮が強く、養鶏施策への要望などについても、まとまりがないので法律による実現が切望されていたが、昭和三五年に至り四年越しの養鶏振興法の成立をみた。
 これは発展途上にあった養鶏界にとっては画期的なもので養鶏憲章ともいうべきものであって、これにより初めて法律を背景とした養鶏振興の諸施策が講じられるようになった。
 次いで翌三六年制定の農業基本法に基づいて三七年からは農業構造改善事業が推進されるようになって、畜産分離における鶏卵あるいは食鳥主産地として指定される地域も多くなり、用地取得、経営近代化施設、規模拡大などの補助事業あるいは長期低利資金の貸し付けを受けるなどによって集団多数羽養鶏経営、養鶏団地の計画が相次いで現れるようになり、これに伴って労力の節約施設の整備、生産物の流通改善などの視点から、これを合理化しようとして協業経営形態が始まるようになり、養鶏経営は、近代化、機械化されて企業的農業の有力部門となり、さらに生産技術や経営技術が加わり、多羽・協業・集団の形でその発展が本格化したのである。
 従って一戸当たり飼養規模も二五年四羽、三五年一〇羽であったが、四〇年には四八羽、四五年一五七羽、五〇年三六七羽、五五年には五三〇羽と急激な規模拡大がみられた。
 一方養鶏の粗生産額においても最高比率の昭和四八年度には、全農業粗生産額一、一四七億六、六〇〇万円のうち畜産全般が三一九億九、一〇〇万円で二七・九%を占めるなかで、養鶏が一三五億六、三〇〇万円で一一・八%を占め、昭和四〇年代以降長く畜産部門最高を誇ってきたが、翌四九年度における農産物の品目別粗生産額は次表2-8のとおりである。
 その後若干の後退はあったが、現状においても依然として養鶏は農業の中にあって一割近い比率を占める重要産業として健在を誇っている。
 このような順調な発展を側面から支えたものは、昭和三〇年代の初期に米国から導入されたケージ(針金で作られた鶏を飼う寵)による飼育管理、人工授精の普及、さらに伝染病などの防除に著しい効果をみせた各種の抗生物質の開発、配合飼料の品質改善などに加えて、昭和三〇年代後期特に三八年ころを中心に導入されはじめた外国鶏の輸入は二〇種を超え、県内へもハイライン・キンパー・ストーン・デカルブ・ハイストルフ・ハンソン・キンバーなどの主として米国で育種された優れた産卵性と抗病性を持った原種鶏に負うところが多かった。
 しかしながら卵価は年により季節によって騰落を繰り返し、養鶏経営を不安定なものとしていた。この対策として昭和四〇年八月一日県経済連は財団法人全国鶏卵価格安定基金の業務開始に対応して、鶏卵価格補償事業を開始した。そして翌四一年社団法人全国鶏卵価格安定基金の発足に対しては九月末・十二月末をもって契約加入に移行した。以後県経済連は養鶏農家の加入促進と契約数量の増大を図り、価格安定につとめたが、年間契約実績は一万t前後にとどまった。
 こうして安定した発展をみせた採卵養鶏も、昭和四〇年代の後半には全国的な過剰生産の傾向を示し、卵価が長期間にわたって低迷し、経営が悪化する養鶏家が続出するに至った。そこで、昭和四七年度より鶏卵の生産調整を推進するための鶏卵生産出荷動向調査事業を開始し、さらに四九年五月の時点で成鶏三、〇〇〇羽以上飼育しているものを対象とし、原則として当面増羽を抑制することにより生産調整の強化が図られることとなり、今日に至っているが、こうした不況を繰り返す試練にいどみ養鶏経営の生産性は大きく向上し、世界的競争力の強さを増しており、物価の最優等生を自負する低卵価に耐えて発展が続いている。

表2-8 品目別粗生産額 (昭和49年

表2-8 品目別粗生産額 (昭和49年