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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

一 養豚業の変遷


 明治・大正から昭和戦時までの飼育状況

 本県の養豚の沿革について記録の徴すべきものも少なく、これを詳述することは困難であるが、一般農家に導入をみるに至ったのは明治維新のようで、明治四年の全国的な養豚の流行に際して東京の有志が協救社を結成し養豚業を開始して民部省から種豚の貸し下げを受け、これを全国に配布した折、本県でも宇摩郡川之江町の有志が先ず支社として事業を開始した。それに続いて今治町・吉田町の旧士族らもまた協救社の支社を創設して養豚の繁殖を行ったほか県内各地にも多少の経営する者もあったが、当時は豚の改良というようなことは余り考えず、払い下げを受けた種豚を基礎豚として繁殖を行っていたが、西讃岐の農民が浮説を信じて一揆を起こし暴動に出たため人心競々として、ついに事業の不振を来し、加えて地方の豚肉消費も少なかったため、何れもが失敗の悲境に沈愉して一時的な流行に終わったのである。
 そしてこの時代における正確な統計資料がないため、飼養頭数の記録もなく、本県において養豚頭数が統計資料に現れたのは明治三三年の三九頭に始まって以降も一〇〇頭代が続き四四年においても一七二頭に過ぎない有り様で、途中の日露戦役のころには豚価の高騰ならびに各種の奨励事業などの支えも用意されたが、当時の県人には養豚業の意義について理解する者も少なく、かえって減少するといった結果に終わっており、養豚の発展は遅々として進まなかったのである。
 従って大正時代に入っても養豚飼料は主として甘藷・醤油粕・農場副産物・厨芥などであったため、南予の海岸地帯や都市の一部が主体であったほか、当時はまた養豚業を嫌忌する風潮が強かったことは養豚の振興を遅らせた大きな原因の一つであった。
 このため統計上でも大正七年に至って初めて一千頭代に達した状況である。
 昭和時代に入り国民生活の向上、保健思想の普及などに伴い豚肉の需要は漸次増加の傾向をたどり、また一面では有畜農業が耕種単一農業に比して有利性があることなどが唱道奨励され、県立種畜場南予分場設置などと相まって、堅実な一産業として次第に定着する機運となり、逐次増加して一四年には戦前最高の一万一、五七七頭を数えるに至ったが、戦争の拡大と長期化につれて飼料事情などの悪化で減少することになり、終戦翌年の二一年には僅かに六七五頭に過ぎない状態であった。

 昭和戦後における飼育状況

 戦後養豚の振興は農業経営の合理化ならびに食糧資源確保上喫緊の事項となり、二一年一二月県では養豚の実態調査の実施に併せ県下八か所において養豚増殖対策協議会を開催し、優良種豚の確保、養豚組合の創立、移出とと殺の自治的抑制、県外子豚の導入促進対策あるいは自給飼料の増産、統制飼料の適正配給問題などについて協議し養豚の増殖奨励を積極的に指導した。
 しかし当時は、いも作地帯や大家畜の飼養不適農家の有畜化をはかることが主目的となったことや食糧事情の著しい不足による国民生活の窮乏、養豚の採算性などから笛吹けど踊らずで増産へは効果が少なかった。
 しかしその後食糧事情の緩和、飼料事情の好転と食生活の向上による食肉需要の増大に支えられて儲かる養豚の認識が高まり、次第に上昇して二五年には一万三六五頭に達したが、当時余りにも流行を追い投機的に走りすぎた結果養豚恐慌ともいうべき不況を招来し廃業倒産する者続出し、翌二六年には一挙に二、九二〇頭へ転落する試練の時期となった。
 これらに耐えて再び増加の方向をたどり、三一年には戦前のピーク時をしのぐこととなった。
 その後も養鶏と共に土地の拡大なくして拡大可能な部門として、また選択的拡大部門として脚光を浴びた。
 殊に三六年の農基法公布を契機に、自立養豚をめざす農家志向に速度が加わって、四〇年代に入っては関西随一の養豚県に躍進し、本県の畜産発展を代表する部門となった。
 もとよりこのような発展の過程においては、豚価の変動、需給のアンバランスなどにより、戦前にはおおむね四年、戦後においてはほぼ三年を周期とするいわゆるピッグサイクルなる好・不況を繰り返す一喜一憂の苦闘の中に培われていったものである。
 従ってこうした変動、騰落に対応するため養豚農家は専業化、多頭化を柱に経営の近代化、合理化に積極的に取り組んだ結果、表2-5に示すとおり飛躍的な規模拡大が行われると共に企業的養豚経営へとめざましい進展がはかられたのである。

 指導奨励施策のあらまし

 県の施策では明治の中期までは見るべき施策もなく官営牧場生産子豚の県貸し付けの払い下げ配布位であったが、明治三四年に至って種豚払下規程が制定され、翌三五年四月には道府県種畜場規程が公布されて、地方における種畜供給機関の基準が示されると共にその設置を促し、さらに種畜場の内容を整備充実し、その使命を達成させ、家畜の改良増殖を奨励するため種畜場設置に対する補助金交付規定が公布された。
 大正に入り八年四月には畜産奨励規則が出され、豚についても改良発達助長のための賞金・奨励金および功労金が授与されるようになり、一四年には畜産組合法の一部改正により豚の飼養事業についても低利資金の貸し付けの途が開かれ、次いで翌一五年には豚肉の共同処理に奨励金が交付されるなど改良施策によって大正末期から上昇の兆しをみせた。
 昭和年代に入り初期には種豚の払い下げ、共進会の開催を行ってきたが六年からは農家の有畜農業について強力に指導した結果、養豚業も次第に農業経営の中に融けこみ、後日発展をみる原動力ともなった。
 しかし日中戦争により一六年には食肉配給統制が実施され、一七年には厨芥利用養豚の普及奨励となり、また養豚の計画生産が行われるようになった。
 一九年には支那豚の導入ともなったがやがて終戦となった。
 戦後二七年より有畜農家創設事業による豚の導入資金や農林漁業資金などの養豚経営に対する融資制度の発足などで養豚農家の育成・規模拡大・経営の近代化などに大きく寄与した。
 三一年から新農山漁村建設総合対策事業の実施により自給養豚共同施設などが設置されて、養豚立地に即した協同体的濃密養豚地帯が育成されてきたため、このころから急速な発展を示したが三四年には一時沈帯もあった。
 しかし三五年には、協業経営、種豚生産地帯指定(九町村)、経済連食肉センターの設置などにより躍進の礎石となった。
 次いで三六年には畜連経済連の合併による経済連畜産部の発足に併せ農基法、畜安法、農業近代化資金助成法などの公布並びに県でもスウェーデンより、ランドレース種豚の直輸入を行うなどで大きな前進があったが、翌三七年は三月七日~六月末までに畜産事業団が一一万八九二・五頭の豚枝肉を買い上げ、カット肉保管を開始するなど不況により後退が見られたが、三七年八月~三八年五月までに全量を売り渡し、次いで四一年三月一八日~四二年七月一五日にも八八万五、七三七頭を買い上げたが市況の好転はみられなかった。このため全販連は四一年一二月豚枝肉の自主調整保管を開始し、四二年七月までに八万一、五三四頭を保管することとなった。
 このようなことから豚肉の需給と価格安定は、政府の価格安定施策だけでは困難であり、生産出荷の計画化と自主調整保管の確立が重要課題となったのである。
 また三七年は、県種豚検査条例が制定されると共に、野村種畜場では豚産肉能力検定事業が始まり質的改善への大きな布石となった。
 かくてこのような一張一弛を経ながらも四四年には、肉豚生産出荷調整指導事業が、四七年には肉畜価格安定基金協会の発足に続き、さきに三九年五月三一日伊予市に経済連食肉センターを建設し、産地と殺枝肉共同出荷販売体制を確立したが、さらに部分肉流通時代への体制整備を実現するため、新たに大洲市春賀に、五五年一月四日中四国地区最大を誇る株式会社愛媛クミアイ食肉センターを完成し、肉用素畜預託事業などと共に肉豚の生産販売体制の強化に努めると共に、五六年にはエヒメ食肉地方卸売市場の認可を得て愛媛県食肉公社がスタートするなど県並びに経済連など団体の施策が大きな支えとなって五八年以降コンスタントに顕著な発展を遂げてきた。

 生産流通の現状

 昭和五七年二月一日現在における愛媛県の飼養頭数は二六万五、五〇〇頭で全国総頭数一、一一〇万三、〇〇〇頭の二・六%を占めており、中四国一位、西日本四位、全国一一位の地位にある。
 経営規模は、一戸当たり頭数が全国平均八九・八頭に対し、本県は一九五・二頭と二・一七倍と規模拡大が進んでいる。
 また肉豚生産頭数では全国総数は一、八七〇万八、九七九頭で、このうち愛媛県は四九万三、四〇二頭と全国総数の二・六%を占めており、出荷頭数においても京阪神市場に重きをなしている。
 従って農業粗生産額でも二〇八億一、四〇〇万円と愛媛県農業粗生産額一、九一一億八、二〇〇万円の一〇・九%の構成比率を占めて畜産部門全体の三八%を占め長期に亘り君臨した養鶏を上回って一位を占めている。
 こうした背景の中で肉豚の出荷頭数でも本県の伸びは著しく、次の表2-6に掲げるとおり大幅な上昇をみせている。
 特に出荷の関係で注目されることは、従来は出荷のすべてが生体出荷であったが、三八年に経済連食肉センターの業務開始を機会に枝肉からさらに部分肉出荷への切り換えをはかったことで、これによる輸送費の節減、損耗の減少、枝肉歩留まりの向上など大きなメリットを生み、生産農家の手取りが増えたため非常な好評を博し、その後、プリマハムの誘致や経済連食肉センターも大型に整備確立されて、五五年には枝肉出荷主体へと逆転して五六年における枝肉出荷が三一万八、五三八頭に対し、生体出荷は一八万六九九頭と出荷比率は大きく変化した。が、減速経済への移行や豚肉の飽和感などから需要の鈍化、または停滞傾向がみられている。そして豚肉生産は過剰基調となっており、このような状況から豚肉の需給は失調し市況も活力を失うこととなるので生産改善と消費拡大を柱にした「需給対策」は当面の緊急課題として取り組んでいるところである。このため大消費地への販路開拓なども容易となって豚肉流通の改善合理化は大きく前進した。
 しかし一方では豚肉の需要は国民所得の増大と食生活の高度化などから、ここ十数年著しい伸びを示してきたが、減速経済への移行や豚肉の飽和感などから需要の鈍化、または停滞傾向がみられている。そして豚肉生産は過剰基調となっており、このような状況から豚肉の需給は失調し市況も活力を失うこととなるので生産改善と消費拡大を柱にした「需給対策」は当面の緊急課題として取り組んでいるところである。




表2-5 豚の累年飼養状況

表2-5 豚の累年飼養状況


表2-6 養豚の流通状況

表2-6 養豚の流通状況